【四万温泉】四万の病を癒すということ。――「まあ、湯にでも入っていきなよ」から始まる旅
群馬県の山奥に、
「四万」と書いて「しま」と読む温泉がある。
四万温泉。
私は、この名前がずっと気になっていた。
「四万」という名前には、こんな伝説が残っている。
平安時代の永延3年、989年。
源頼光の家臣・碓氷貞光が、越後から木の根峠を越えて日向見という場所で夜を明かした。
谷川の音を聞きながら、一晩中お経を読んでいると、夢の中に童子が現れた。
そして、
「四万の病を治す温泉を与えよう」
と告げたという。
目を覚ますと、枕元から温泉が湧いていた。
これが、四万温泉の開湯伝説のひとつだ。
もちろん、千年以上前の伝説である。
本当にその夜、温泉が湧いたのか。
本当に童子が夢に現れたのか。
今となっては、確かめようがない。
でも私は、この伝説を知ってから、
別のことが気になり始めた。
四万の病って、なんだろう。
四万の病は、なくなったのだろうか。
千年前と今では、病気も医療も、暮らしもまるで違う。
それでも、
現代には現代の「病」があるような気がする。
お金のこと。
仕事のこと。
将来のこと。
人間関係。
SNS。
誰かと比べてしまうこと。
ちゃんと働いている。
ちゃんと生活している。
笑うことだってある。
なのに、
なんとなく疲れている。
30代、40代になれば、
頑張っても給料がそれほど増えなかったり、
思うように仕事で上へ行けなかったり、
毎日をきちんとこなしているはずなのに、
「私、何してるんだろう」
と思う夜があったりする。
さらに歳を重ねれば、
今度は身体が少しずつ思うように動かなくなる。
友人が一人、また一人といなくなる。
自分の残り時間について、
ふと考えることも増えていく。
そして若い世代には、若い世代の大変さがある。
物価が上がる。
将来がよく見えない。
だから無駄を減らす。
タイパ。
コスパ。
効率。
それはきっと、
若い人たちが冷たくなったからじゃない。
余裕がないから、効率よく生きなきゃいけなくなった。
そんな面もあるのだと思う。
でも、ときどき思う。
無駄をなくして生まれたはずの時間で、
私たちは、ちゃんと幸せになれているだろうか。
きゅうり一本を持って、隣の家へ行けた世界。
昔の暮らしを調べたり、人の話を聞いたりしていると、
私が妙に好きな光景がある。
庭で、きゅうりがたくさん採れた。
だから近所の家へ持っていく。
「いっぱい採れたから、食べて」
たった、それだけ。
きゅうり一本なんて、
スーパーへ行けば買える。
金額にすれば、大したものではない。
効率だけ考えれば、
わざわざ人の家まで持っていく必要もない。
でも、
その一本には、
「あなたのことを思い出したよ」
が入っていたのかもしれない。
昔のほうがよかった、と言いたいわけではない。
昔には昔の苦労があった。
今より不便で、
今より厳しいこともたくさんあった。
それでも、
きゅうり一本を理由に、人の家の戸を叩けた時代。
そこにあったものを、
私たちは便利さと引き換えに、
少しだけ置いてきてしまったのかもしれない。
「治してあげるよ」じゃない。
四万へ行くと、
山が近い。
水が近い。
夜は暗い。
そして、いい意味で、
それほどやることがない。
湯に入る。
ごはんを食べる。
川の音を聞く。
眠る。
起きたら、
また湯に入る。
仕事の肩書きも、
返信しなければならないメールも、
「ちゃんとしなきゃ」も、
少しだけ遠くなる。
私は、四万という場所が、
「あなたを治してあげます」
と言っているようには感じない。
もっと静かで、
もっとおおらかで、
もっと適当だ。
「まあ、湯にでも入っていきなよ」
そのくらい。
でも、
それくらいが、
ちょうどいいときがある。
それでも、人はここまで来た。
四万の歴史を調べ始めて、
ひとつ驚いたことがあった。
江戸時代。
天和年間、1681年から1684年ごろには、
すでに四万で湯宿の経営が成立していた。
しかも残された「湯銭取立て帳」には、
群馬周辺だけではなく、
武蔵国――とくに江戸から来た人たちがいたことが記されている。
私は、ここで手が止まった。
江戸から?
四万まで?
電車はない。
バスもない。
車もない。
今のように整備された道路もない。
それでも、
人はこの山の奥までやってきた。
湯に入るために。
身体を休めるために。
何かを治したくて。
あるいは、
誰かのために。
……でも、
本当のところはまだ分からない。
だから、知りたくなった。
そこまでして、人は何を治したかったのだろう。
一人を、探してみようと思う。
今、私は古い記録の中から、
四万へ来た**「名前のある一人」**を探している。
どこから来たのか。
誰と来たのか。
何を患っていたのか。
どんな道を歩いたのか。
何日かかったのか。
四万で何を食べたのか。
何日湯に浸かったのか。
そして、
帰るとき、
何を思ったのか。
全部は残っていないかもしれない。
むしろ、
ほとんど分からないかもしれない。
それなら、
分からないことは分からないままにしようと思う。
勝手に物語を作るのではなく、
残された小さな記録を、
一つずつ拾っていきたい。
そしてもし、
その人が歩いた道が分かったら。
私も、歩いてみようと思う。
四万温泉へ行くなら、
少しだけ昔のことを知ってから行ってほしい。
そうすれば、
ただの古い共同浴場が、
何百年ものあいだ人が身体を預けてきた湯に見えてくる。
小さな薬師堂が、
病を抱えて山を越えてきた人たちの祈りの場所に見えてくる。
山奥という不便ささえ、
「それでも、人はここまで来た」
という物語に変わる。
四万は、
知らずに行ってもいい温泉だ。
でも、
知ってから行く四万は、
きっと少し違う。
だから私は、
もう少し調べてみようと思う。
そして、
その人が歩いた道を、
私も歩いてみようと思う。
――つづく。
めぐり|ぐんまリトリート
