80年前の8月9日のかけら。 ほんの少しの記憶から記録として綴りました。
長崎県長崎市丸尾町6
1945年8月9日 11:02 am
当時16歳の高校生だった私の父方の祖父が、兵器工場で働いていた時に被爆した場所です。
今でも三菱の工場地帯ですね。
祖父だけが、地下に頼まれて何かを取りに行っていた時に原爆が投下され、
一緒に働いていた人たちは皆、亡くなったそうです。
原爆投下の直後、おじいちゃんは50km離れた母親のもとへ帰ってきました。
戻ってくるまでに1週間かかり、その間、友人を探しながら歩いていたのだと思います。
きっと放射能が残る中、変わり果てた街をさまよいながら、友人を探していたのでしょう。
実は、ひいおばあちゃん(祖父の母)は、今私が暮らしているその場所から、長崎の方角に「何かピカッと光った」のをはっきり見たそうです。
けれど、それが原爆だとは知らず、「長崎で空襲があった」とだけ聞いて、
おじいちゃんの無事を信じながら、どれほど不安な気持ちで待っていたかと思うと、胸が苦しくなります。
おじいちゃんは一度帰ってきたあと、8月の終わりにもう一度、長崎市に戻って友人を探したそうです。
その時、おじいちゃんはまだ16歳の高校生。
被爆した街に再び足を踏み入れることが、どれほどの覚悟だったのか。
どんな思いで探しに行ったのか。
どんな景色を目にしたのか。
おじいちゃんは多くを語りませんでした。語りたがりませんでした。
そして、どんなに頑張って想像しようとしても、私は想像しきれません。
こうした話は、私の父(おじいちゃんの息子)も、直接聞いていなかったそうです。
私が知ったのは、おじいちゃん自身のわずかな言葉、
一緒に暮らしていたいとこ、おばあちゃんの日記、そして原爆手帳に記された情報からでした。
おじいちゃんは、爆心地から2.6kmの地点で被爆していました。
原爆手帳が交付されたのは昭和49年。
当時は爆心地から2km圏内の壊滅地帯に限って交付されていたのかもしれません。
その後、おじいちゃんは被爆後も多くの病と闘いながら、
よく働き、よく家族を支えてくれました。
2ヶ月間、下痢が止まらなかったこともあったそうです。
そして、おじいちゃんは戦後69年目に他界しました。
書きたいことは山ほどありますが、今年はThreadsとnoteにて記録しておきます。
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