外国語で恐れを詠む
Ma dara uchu timi naharaunu kamana gare pani birsanu tyastai lagcha――
ネパール語で詠んだ、二首目の短歌。
正しいのかどうかは分からない。
文法が合っているのか、語順は自然なのか。
けれど、それでも胸が高鳴る。
外国語で詩を書いている、そう思うだけで、どこか遠い場所に手を伸ばしている気分になる。
「私は恐れている。
君よ、いなくならないでくれ。
願っても、消えてしまう気がする。」
日本語にすれば、そんな意味になる。
この歌には「いつか」という言葉は書いていない。
未来を示す語は、どこにも置かなかった。
それでも読む人は感じるだろう。
願っても叶わない未来を。
時間の流れを。
避けられない別れを。
短歌とは、不思議な器だ。
三十一音のなかに、物語を閉じ込める。
説明を削り、感情を削り、背景を削る。
削れば削るほど、言葉と言葉のあいだに**静かな間(ま)**が生まれる。
その間に、読み手の想像が流れ込む。
そこにこそ、物語は息をする。
そして今回は、それが外国語だ。
ネパール語で「恐れている」と書いたとき、
その恐れは、日本語のそれと同じ震え方をしているのだろうか。
「いなくならないで」という願いは、祈りなのか、懇願なのか、静かな覚悟なのか。
訳す人によって、意味は少しずつ揺れるという。
揺れるということは、固定されないということだ。
固定されないということは、無数の解釈に開かれているということだ。
外国語で短歌を詠むという行為は、
感情を一度、自分の手から離すことなのかもしれない。
自分の内側では確かに切実な想いも、
異国の音に乗せた瞬間、少しだけ距離が生まれる。
その距離が、逆に感情の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
そして読み手は、さらにそれを自分の言葉へと訳し直す。
ネパール語から日本語へ。
日本語から、それぞれの人生へ。
想像は、幾重にも重なっていく。
たとえ日本語であっても、短歌の解釈は千差万別だ。
失恋と読む人もいれば、
死別の予感と読む人もいる。
あるいは、成長や旅立ちの影を見る人もいるだろう。
外国語であれば、なおさらだ。
正確さよりも、広がり。
完成度よりも、震え。
私は恐れている、と書いた。
だが本当に恐れているのは、相手が消えることなのか。
それとも、自分の想いが薄れてしまうことなのか。
あるいは、言葉にした瞬間に壊れてしまう、この繊細な関係そのものなのか。
外国語で短歌を詠むということは、
答えをひとつに決めない勇気なのだろう。
時間を書かず、
未来を示さず、
「いつか」という言葉さえ置かずに、
静かな間(ま)だけを残す。
詩とは、説明ではない。
詩とは、想像を託す行為だ。
ネパール語の響きの向こう側で、
今日もまた、誰かが違う未来を思い描いている。
