壁の向こうの隣人へ
隣に住んでいる人の顔を、僕は知らない。
いつから住んでいるのかも知らない。
僕がこの部屋に越してきたときには、もう隣のドアには生活の気配があった。
傘立てには透明なビニール傘が一本。
それだけだった。
表札はない。
人と人との距離なんて、案外そんなものなのかもしれない。
壁一枚。
厚さにすれば十センチもないはずなのに、向こう側の人生について僕は何も知らなかった。
夜になると、ときどき音がした。
機械のような音だった。
ウィーン、と低く鳴って、
しばらくすると、
ピ、ピ、ピ、
と短い音が続く。
最初は電子レンジかと思った。
次の日は洗濯機。
その次の日には、たぶんパソコンだと思うことにした。
そうやって、わからないものに知っている名前をつけておくと、人間は少し安心できる。
ある夜、眠れずに天井を見ていた。
午前二時を過ぎていた。
また、隣から音がした。
ウィーン。
ピ、ピ、ピ。
それから、
声が聞こえた。
何を言っているのかはわからなかった。
外国語とも違う。
言葉というより、音に近かった。
高くなったり、低くなったりする。
それがしばらく続いたあと、
突然、日本語が聞こえた。
「……聞こえていますか」
僕は起き上がった。
声は壁の向こうからだった。
「聞こえています」
なんとなく答えた。
しばらく沈黙があった。
「よかった」
それだけ言って、隣は静かになった。
翌朝、会社へ向かう途中で昨夜のことを思い出した。
夢だったような気もした。
午前二時に知らない隣人と壁越しに会話する。
冷静に考えれば、だいぶ変な話だ。
それでもその夜、僕は少しだけ壁を気にしていた。
十一時頃。
トン。
壁が鳴った。
僕も一度叩いた。
トン。
少しして、
「こんばんは」
と聞こえた。
「こんばんは」
それから僕たちは、ときどき話すようになった。
顔は見ないままだった。
名前も聞かなかった。
今日は暑かったとか。
スーパーの卵が高かったとか。
僕が仕事でミスをしたとか。
隣人が、
「雨というものは、思っていたより不便ですね」
と言ったこともあった。
「思っていたより?」
僕が聞くと、
「いえ」
と言った。
変な人だった。
別の日には、
「猫という生物は、なぜ人間に命令するのですか」
と聞かれた。
「僕にもわかりません」
「人間より上位の生物ですか」
「たぶん」
隣人はしばらく黙ったあと、
「記録しておきます」
と言った。
何に記録するのかは聞かなかった。
ある夜。
僕は仕事で嫌なことがあった。
大したことではない。
大したことではないからこそ、誰かに話すほどでもなかった。
そういうものは意外と困る。
大きな悲しみなら、人は悲しんでいい。
小さな悲しみは、どこに置けばいいのかわからない。
僕は壁にもたれて座った。
「起きてますか」
返事はすぐにあった。
「起きています」
僕は今日あったことを話した。
途中から、自分でも何を話したいのかわからなくなった。
仕事のことから始まって、
昔のことになり、
いつの間にか、
「なんか、疲れました」
と言っていた。
隣人は何も言わなかった。
少し恥ずかしくなった。
「すみません」
「なぜ謝るのですか」
「いや、こういう話、困るかなと思って」
また沈黙があった。
「こちらでは、困っているときは光ります」
「光る?」
「はい」
「人が?」
「はい」
「すごいですね」
「便利です」
少し笑った。
「地球人は光らないので、難しいです」
「そうですね」
「あなたも光りませんでした」
その言葉だけが、妙に残った。
次の日から、隣の音が聞こえなくなった。
一日。
二日。
三日。
四日目、隣のドアに管理会社の紙が貼られていた。
退去済。
それだけだった。
僕は管理会社に聞こうかと思った。
でも、やめた。
名前も知らない。
顔も知らない。
どこから来たのかも知らない。
ただ、少し変な隣人だった。
その夜。
久しぶりに壁にもたれて座った。
向こうから音はしなかった。
僕は一度だけ壁を叩いた。
トン。
当然、返事はない。
少し待ってから、もう一度叩いた。
トン。
やっぱり返事はなかった。
そのまま、しばらく座っていた。
「今日は、少し疲れました」
誰もいない壁に向かって言ってみた。
返事はなかった。
でも、不思議とそれでよかった。
地球人は、困っていても光らない。
だから言葉にする。
たぶん、それくらいしか方法がない。
数日後。
郵便受けに、見覚えのない葉書が入っていた。
切手はなかった。
消印もない。
宛名だけが、あの妙に整った字で書かれていた。
裏返す。
地球観察報告
雨は不便。
地球人は、困っていても光らない。
猫は、おそらくこの星の支配者。
そこで文章は終わっていた。
いや。
下に、小さく一行だけあった。
隣人は、ときどき疲れるので、話を聞くこと。
僕はしばらくそれを見ていた。
宇宙のどこかで、
僕は観察対象のままらしい。
まあ、それも悪くない。
葉書を机の引き出しにしまおうとして、
最後にもう一度、裏を見た。
さらに小さな字で、
追伸があった。
あなたも最近、少し光るようになりました。
僕は思わず、自分の手を見た。
もちろん、
何も光ってはいなかった。
たぶん。
その下に、
もっと小さな字があった。
猫については、上層部でも意見が割れています。
僕は少し笑った。
窓の外で、
どこかの猫が鳴いた。
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拝啓文芸部に初めて参加させていただきました。Mr.Q様ステキなお題をありがとうございます。
