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ぼくものがたり【第12回】始まった上級生たちの学童疎開

昭和19(1944)年6月末。
学童疎開へは、まず上級生だけが行ったんだ。

戦局はいよいよ不利になってきて、大都市で子どもたちが暮らし続けるのは、もう危険だとされた。
だから国は、東京・大阪・名古屋などの学校に「疎開を勧める」よう通達を出したんだ。

きっかけは、その半月前の6月15日。
日本が占領していたサイパンに、アメリカ軍が上陸したことだった。

日本はサイパンを含むマリアナ諸島を「絶対国防圏」と決めていて、ここを失えばB29が日本本土まで飛んで来られると分かっていた。
サイパン陥落は、本土空襲が始まるに等しかった。
国は子どもを守るため、急いで学童疎開の方針を固めたんだ。

ただ、この時点では、あくまで「勧める」であって「命令」ではなかった。
戦局の悪化を、国はまだはっきりとは言わなかったからだ。

結局、7月上旬、
サイパンの日本軍守備隊が全滅し、サイパンはついに陥落した。
日本は盾としていた「絶対国防圏」を失った。
その責任を取って、東条英機内閣は総辞職した。

今まで東条首相は、
「帝都(東京)を離れるものは非国民だ」
なんて言っていたけれど、本土攻撃で子供が死んだら、
次世代の戦力を失うことになる。
それは大変だと、方針を180度変えたんだ。

そうして、日本中の子どもたち40万人以上が一斉に移動する、前代未聞の計画が実行されたんだ。

学校は、まず親せきを頼って田舎に避難する「縁故疎開(えんこそかい)」を勧め、それが難しい子には、先生たちと一緒に地方へ行く「集団学童疎開」を勧めた。

対象になったのは3年生から6年生。
この時、僕たち1年生と2年生は、学童疎開の対象ではなかった。
小さな子はなにをするにも手がかかり、
先生の負担が大きすぎる、と言うのが理由だった。

6年生の親戚のお兄さん、幸司さんは学童疎開へ行くことになった。

少年団に入っていて、体格も良く、
将来を有望されていた、僕の憧れのお兄さん。
お袋からそれを聞いたときは、ショックだった。
また戦争で、僕の周りから一つ消えたように思った。

そして8月21日、夕方。上級生の出発の日。
僕はお袋と一緒に、駅まで見送りに行った。

灯火管制で暗くなった阿佐ヶ谷駅には、提灯を手にした見送りの人たちが大勢集まっていた。
駅前いっぱいに並ぶ上級生たち。
「ばんざーい、ばんざーい!」と大きな声で見送る人々。

僕には、それが遠足にでも行くように見えて、少し羨ましかった。

その横でお袋や近所のおばさんは、

「本当に阿佐ヶ谷まで空襲が来るのかしらねぇ……」
「残った私たちは、どうなるのかしら……」

と、不安そうに話していた。

3年生から上の学年のほとんどが、縁故疎開や集団疎開で長野へ向かった。

2学期が始まると、学校は閑散としていた。
残されたのは、1年生、2年生、
それに体が弱かったり、家の事情で行けなかった上級生たち。
僕らは「残留児童」と呼ばれた。

そうして空いた校舎は、兵舎として使われた。
杉七には新旧二つの校舎があり、僕らは新校舎に集まって授業を受けた。


疎開により、問題も出た。
上級生という働き手がいなくなってしまった。
それまで、学校内外の畑では上級生たちが農作業していたからね。

僕たちはまだ小さくて、鍬をもって畑を耕すことは出来ない。
でも、国としては何とか食糧の増産をしたい。

ということで、「出動」と言って、
低学年を、鍬を持たないやり方で働かさせた。

授業の代わりに、みんなに木の実や、野草を集めさせたんだ。
杉七は、成宗田んぼや大川(今の善福寺川)に行った。

みんなで隊列を組んで、「イチ、ニッ、イチ、ニッ」
と、更新しながら、たまに、軍歌を歌いながら行進した。

現地に着くと、先生が草をいくつか持って見せて、
「この草と、どんぐりと、ヒマを集めてくるように」
って命令する。

僕たちは、その葉の形をよく見て覚えた。

そして先生の「よーい、始め!」の号令で、みんないっせいに探し始める。
遊びのどんぐり拾いは好きだったけれど、命令だし、みんな我先にと奪い合うように拾っていたから、楽しくなかった。

収穫が少ないと、
「もっと頑張りなさい!」なんて言われた。

ヒマはトゲトゲした赤い実。
油が取れるそうで、
どんぐりも食料になるし、色々と使えると教えられた。

国は全国の子どもたちに、
「どんぐり100万石(約15万トン)収集」という大号令をかけていた。
集められたどんぐりは、乾燥させて粉にし、
飛行機や軍艦を動かすアルコール燃料にするだけでなく、
パンや乾パン、麺類に混ぜて国民の貴重な主食(代用食)として配給された。

僕たちの小さな手のひらで集めた木の実は、全部国へ献納された。

また杉七には、防火用池を兼ねたプールもあった。
健康維持のため、プールの授業はあった。
それだけはとても嬉しかった。

そんなふうに、9月、10月の学校は、人数も授業も少なく、
低学年ばかりだから、学校はずいぶん静かだった。

でも、それは嵐の前の静けさだったんだ。


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入学した国民学校ーー軍事訓練と農作業


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