ぼくものがたり【第50話】おひげの軍医さんとお医者さまたち
僕の上には、二人の兄弟がいた。
けれど二人とも、生まれて半年ほどで亡くなってしまった。
その後、僕が生まれて間もなく、
阿佐ヶ谷に大川医院という小児科ができた。
場所は、今の杉並区立産業商工会館の前あたりだった。
何かあればすぐに診てもらえるようになり、
お袋も本当にありがたく思っていた。
その大川先生自身も、長男を風邪で亡くしていたそうで、
「絶対に手遅れにしちゃダメ! コホン、としたら診せに来ること」
「熱を出させちゃダメ!」
と、繰り返しお袋に言っていた。
熱を出してから診察に行くと、
「なんでもっと早く来なかったのか!」
と、きつく怒られた。
大川医院ができてから、助かった子どもがたくさんいた。
お袋も、
「あの先生がいてくれたおかげで、お前が生きられた」
と、本当に感謝していた。
杉七には、
倉林閣下という軍医さんが校医としていた。
ヒゲをたくわえ、馬に乗って往診していたその姿から、
「お馬の軍医さん」
「ヒゲの軍医さん」
「お馬の閣下」
などと、僕らに親しまれていた。
馬に乗っているときは、腰に小さな刀も下げていた。
阿佐ヶ谷駅の南側、徒歩3分ほどの場所に、
診療所を兼ねた立派なお屋敷があり、そこに住んでいた。
近所だったから、その姿をよく見かけた。
僕は、「カッコいいなぁ」と、胸をときめかせた。
でもやっぱり軍人さん。
診察のときには、
「男だろ!泣くな!」
なんて、厳しく言われたこともある。
それでも、祖父の鍬太郎とは仲良しだった。
ふたりには、
“こわもてだけど、実は優しい”っていう共通点があったのかもしれない。
急病人が出ると、リヤカーに乗せられて、
軍医さんのところまで運ばれていた。
軍医さんは、痛がる患者にも、
「騒ぐな!気合いだ!」
なんて、きっぱり言っていた。
倉林閣下は、杉七の創立にも、町の整備にも深く関わっていた。
祖父・鍬太郎や父・喜代松と一緒に写っている写真も、
我が家にはたくさん残っている。

真ん中にいる軍服の人が、あの“ひげの軍医さん”、倉林閣下。
その右横で、少し木に隠れるように映っている黒い背広が、祖父・鍬太郎です。
戦後も、倉林軍医は阿佐ヶ谷に残り、医院を続けていた。
「戦争が終わったら、ちょっと優しくなったよ」
と、近所の人が話していた。
もう一人、忘れられない先生がいる。
荻窪のお医者さんだ。
ここは少し遅れて開業し、
場所は天沼陸橋を降りたところだった。
祖父・鍬太郎が心臓を患ってからは、
僕が医者を呼びに行く役目になった。
鍬太郎が胸の痛みを訴えると、
お袋が、
「功、荻窪のお医者様を呼んできて」
と、僕に頼んだ。
僕は自転車で、全速力で先生の家へ向かった。
「爺ちゃんが胸が痛いって言ってます!」
息を切らしながら伝えると、先生は落ち着いた声で言った。
「それは心配ですね。君もご苦労様でした。すぐに伺います」
そう言って準備を始め、やがて、
シルクハットをかぶり、黒い鞄を手に、
人力車に乗って、我が家に現れた。
心臓を診てくれる貴重なお医者さんだったから、
その姿は、まるで神様のように見えた。
「お医者様」と、周りも神様のように扱っていた。
この3人が、「僕のお医者さん」の代表格だ。
どの先生も、ちょっと怖くて、
でも心の奥では、みんな温かかった。
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