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ぼくものがたり【第40話】戦後の暮らしと商売――製粉と肥やし売り

はじめた製粉業

戦争に負けてみんなが貧乏だったので、
親父がやってる植木屋なんて頼む人は、誰一人いなくなった。

親父もお袋も、どうやってお金を手に入れるか思案した。
借地人もみんなお金がないから徴収できない。

すると、僕の家には、
粉をつく機械と精米する機械があることを思い出した。

上から小麦を入れて、モーターをグングン回すと、
下から粉になってサラサラ落ちてくる。
音もすごくて、「ガーッ、ガーッ」とうるさいし、
ベルトがむき出しで、ちょっと怖い機械だった。

戦局が悪化する前は、近所の人から、
「これ、精米してください」と頼まれることもよくあった。

そして、終戦からしばらく経つと、配給が少しずつ再開した。
と言っても、白いお米なんてまったく来ない。
玄米や麦混合、雑穀、イモ類ばかりで、量はすごく少なかった。

だから、なんでも粉にして、団子にして、野菜を入れたスープで煮る、
「すいとん」にして食べる事が多かった。
その方が量が増えるし、雑穀のクセも気にせず、ツルツルと食べられた。
醤油味や、塩味、みそ味など、アレンジもたくさんできたからね。

芋も、乾燥して粉にすると、芋粉として小麦粉のように使えた。
もちろん、小麦も粉では売っていなかったから、粉にする必要があった。


それで、親父とお袋は製粉業を始めた。
近所に、「製粉やります」と宣伝したんだ。


それと、賃餅(ちんもち)も始めた。

もち米はお客さんが持ってくるから、お餅にする加工料をもらっていた。
そういうのを賃餅と言った。

もち米を蒸かして機械に入れると、
穴からニョロニョロとお餅が出てくる。
それを親父とお袋が一生懸命、平らにのしていた。

僕もよく手伝った。
できた餅を届けたり、小麦粉にする小麦を預かりに行った。
そのついでに、また頼まれることも多かった。
親父に「功は商売がうまいな」と褒められて、
僕は張り切って手伝っていた。

近所の人たちもよく頼みにやってきて、けっこう繁盛してきたんだ。


でも、軌道に乗り始めた時、親父の手元がくるって、
モーターのベルトに手を挟んで、ざっくりと切ってしまい、
大量に血が出た。
一歩間違えれば、手がなくなるところだった。

それで、
「もう怖くて出来ねぇ」とやめちゃった。

お袋も、
「怪我してまでやらなくていいから」って。

やめてくれって。


うんこ売り


汚い話だけど、うんこも売っていた。
少しでもお金が欲しいから、
親父は農家まで、家のうんこも売りに行っていた。
ちゃんと買ってもらえたんだ。

その頃の畑では、
肥料として人間のうんこを使っていたので、うんこも貴重だった。

当時は、そうした肥やしを集める汲み取り業者がいて、
糞尿の売り買いをしていたんだ。

親父もそれを見て、
「なるほど、こうやって商売にするのか」
と、まねして始めた。

親父は「阿佐ヶ谷囃子」という、お囃子の会の保存会長もしていて、
夜になると、おおぜいのお囃子連中がやってきて練習をしていた。

うちは阿佐ヶ谷囃子の集会所でもあり、
教習場でもあったから、いつも家には人が集まっていた。
とにかく昔から、よその人がいない時がなかった。

だから普通の家のトイレは、
一般家庭用の小さい瓶(カメ)を使っていたけれど、
うちのトイレの瓶は大きいものを使っていた。
だから、量が取れたんだ。
まだトイレが水洗ではなかったからね。

田んぼの脇には、肥やしとして撒くための大きな肥え溜めがあった。
時々酔っ払いが落ちて、お風呂と間違っていた。
本当の話なんだよ。

戦前の、親父がまだ平和に畑を耕していた頃は、
親父も町までうんこを買いに行っていた。
うちだけにくれるようにと、農家と契約もしていたんだ。

今度は、親父がうんこを買う側から、売る側になった。

それにしても、めちゃくちゃSDGsな時代。
うんこも立派なお金になった。


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戦後のお風呂――垢だらけでも「いいお湯でした」

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闇市――悪いと知りつつ買った米

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