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ぼくものがたり【第5回】いちばん良かったころ(前編)――お琴と寄付と月末の行列

戦争が始まる前。
昭和16(1941)年までの僕の家は賑やかだったんだ。

春になると縁側の和室は、お琴の発表会の会場になった。
綺麗な着物姿の人たちが、次々にやって来た。

お琴を並べて、代わる代わる、練習してきた曲を発表した。
座敷には見物人も大勢座っていた。
庭にも椅子を置いたり、ゴザを敷いたりして、多くの人が楽しんでいた。

お袋とおりん婆さんがにこにこしながら、お茶を運んでいた。
二人とも人に家に来るのが好きだったからね。

家中が澄んだお琴の音色で満ちていた。
その音は、いまでも僕の耳の奥に残っている。

あのころの我が家には、のんびりとした、どこか風流な時間が流れていた。

その空気を支えていたのが、阿佐ヶ谷で700年つづく僕の家の歴史だ。

墓地の片隅には「文和」(室町時代初期1350年代)と刻まれた板碑が残っている。
先祖たちは一面の野原を耕し、畑を拓き、少しずつ土地を広げてきた。

やがて阿佐ヶ谷の土地の一部は僕の家のものになり、区役所の一角までもが、もとはうちの畑だった。

祖父・鍬太郎は、僕の家の柱。
杉並村の議員をはじめ、土木委員、消防部長、方面委員など、町の世話役をいくつも引き受けた。

まだ選挙権が納税額などで限られていた時代で、
税をたくさん納める者が“えらい人”とされた。

でも鍬太郎は、こわもてなのに、
話しかけやすい雰囲気があったから、あちこちから、
「鍬太郎さん、鍬太郎さん」と声をかけられた。

すると鍬太郎は、髭を撫でながら相手の目線に合わせて話を聞いていた。

ただ、家では少し違っていた。
「お茶はまだか!」って、大きな声で怒鳴っていたけどね。

ある日、僕はおりん婆さんに尋ねた。
「うちはお金持ちなの?」

婆さんは、
「お金持ちじゃないですよ。入ってきても、お爺ちゃんがみんな寄付しちゃいますからね」

実際、家賃や地代は、神社の屋根瓦や学校の黒板になって町へ流れていった。

「ご趣味は?」と聞かれると、鍬太郎は決まってこう答えた。
「町のために尽くすこと、それが何よりの楽しみです」

大正12年、関東大震災が東京を襲った。

下町で家を焼かれ、火の手を逃れた人々が、
青梅街道を西へと歩き、阿佐ヶ谷におおぜいやって来た。
我が家の玄関にも、
「家を貸してください」と頭を下げる人たちがたくさん来たんだ。

鍬太郎は、
「仕方ない、畑をつぶして家を建てよう」

そんな話が、あちこちの農家であった。

そうして建った家に人が住み始めると、人口が増えて、阿佐ヶ谷も活気づいていった。

やがて畑の多くは借地や借家となり、月末になると門前に地代や家賃を持った人たちがずらりと並んだ。
その係はお袋とおりん婆さんだった。

金額や領収帳を確認し、台帳に記帳して印押する。

けれどおりん婆さんは話好きで、すぐに世間話に脱線したり、お茶を飲みに行ってしまったりする。

「功ちゃん、おりん婆さん探してきて」
「功ちゃん、おりん婆さんに帰ってくるように言ってちょうだい」

そんなやりとりが我が家の月末のお決まりだった。

うちだけじゃない。
北口の大地主の家の前では、さらにずらーっと、長い行列ができていた。

それをみた親父は、
「すげぇな、うちとはスケールがちがうなぁ」
と感心していた。

借地や借家が増えてくると、いつしか古くからの農家たちは“地主”と呼ばれるようになった。

鍬太郎は、そうして得たお金を贅沢には使わなかった。
必要なぶんだけを残し、あとは町のために使っていたんだ。

家の座敷には、その生き方を物語る感謝状がいくつも並べられていた。
東京市や軍人会など、中には内閣から贈られたものが今でも残っている。

鍬太郎は、みんなから親しまれ、尊敬されていた。
鍬太郎も、その尊敬にこたえて、すべてが良いように回っていた。


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いちばん良かったころ(前編)――町のために尽くした祖父・鍬太郎

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お袋・かつと火事騒動


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