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ぼくものがたり【第16回】近くで落ちた爆弾

昭和19(1944)年11月末から、夜間の空襲は日常化していった。
アメリカ軍は、日本の防空体制が、
夜になると著しく落ちると見ぬいたんだ。

これには参った。
眠りについたころに空襲警報が鳴る。
冬の夜に、布団から出て、着替えて、外の防空壕へ避難する。

昔の冬は今に比べてすごく寒かった。
解除されるまで、防空壕で体は冷え切るし。
また布団に入っても眠れやしない。

それが毎晩続いて、誰もがクタクタになった。
そのうち、着替えるのも面倒なので、
みんな普段着で、枕もとに靴を置いて床に就いた。

12月3日。
この日も昼過ぎから空襲警報が鳴った。
ラジオからは、
「B29が編隊を組んで関東地方に侵入、現在富士山付近を飛行中……」
と、緊迫した声が繰り返し流れていた。

B29は、まず富士山を目指してやってくる。
それから偏西風に乗ってスピードを上げ、
東京の上空へ、向きを変えてくるんだ。

「B29が富士山付近にいる」――それは、
東京が狙われている証拠だった。

やがて、B29の編隊が近づいてくる音のあとに、
ヒューーー、ヒューーー……と、
爆弾が落ちてくる音が聞こえてきた。
なんとも嫌な音なんだ。

迎え撃つ高射砲と、その高射砲の鉄の破片が、
屋根にバラバラと降ってくる音もすさまじかった
音の洪水の中、僕たち家族は防空壕で身を寄せ合っていた。

そして――
ドカン!と大きな爆発音がした。
地面がかすかに揺れた。

弟の孟弘を抱きかかえたお袋が、
「大きいのが落ちたね……」とつぶやいた。
それから、
「お父さん、大丈夫かしら……」
と心配そうに言った。

親父はその日、警防団の仕事で外に出ていた。

しばらくして警報が解除されると、
親父があわてて帰ってきた。
でも、「無事でよかった」と安心し合う暇もなかった。

「荻窪の陸橋に爆弾が落ちた。行ってくる」

そう言って、
軍手とスコップをかき集め、
すぐに飛び出していった。

その陸橋(現在の天沼陸橋)は、
青梅街道の阿佐ヶ谷と荻窪の間にかかる、
最近できたばかりの大きな橋。

新宿方面から西へ抜ける、
東京の主要道路のひとつになっていた。

親父はその夜、帰ってこなかった。
僕たちは心配で、なかなか眠れなかった。

翌日の昼すぎ、
親父はフラフラになってようやく戻ってきた。

「陸橋と線路もやられてたよ。
荻窪だけじゃない。
久我山や高井戸の方も。あちこちやられたらしい。
また死人も出た」

お袋は、
「何てこと……」
と言って言葉を失った。


親父の話では、その夜、500人近い人が集まって、
徹夜で壊れた線路や、道路の修復作業をしていたそうだ。

この日の空襲は、
杉並だけでなく、中野、練馬、板橋、調布にも及んだ。
広い範囲で爆撃があり、多くの死者が出た。

その日の攻撃について、日本軍はこう発表した。
「敵機70機中、21機を撃墜せり」

だけど、井草のミヨおばさんが目撃したところによると、
実際に撃墜したのは、ほんの数機だったそうだ。

日本の戦闘機は、B29に比べると小さいし、
高く飛べないから苦戦していた。

近くの中島飛行機では、
女子挺身隊や勤労動員の学徒をふくむ、60人が亡くなった。


後日、僕は荻窪の陸橋を見に行った。
コンクリートの路面に、
三十メートルほどの大きな穴が
ぽっかりと開いていた。


天沼陸橋に爆弾が落ちた後から、
杉七への日本軍の駐屯は、さらに本格的になった。

校庭や屋上には、高射砲や機関銃がいくつも置かれた。

夜になると、探照灯(サーチライト)が、
闇の空へ向かって光を放った。

暗闇の中に、スーッと伸びていく光の柱。
それは、巨大な生き物のようにも見えて、
なんとも不気味だった。

ひとたび空襲警報が鳴ると、
その光が夜空をぐるぐるとかき回すように暴れ出す。
そして、機影を見つけた瞬間、
高射砲がダダダダーッと一斉に撃ち出される。

警報と砲声が入り混じって、
空も地面も揺れるようだった。

でも、当たらなかった。

けれどその後、
日本軍は「最終兵器」でB29を撃墜することに成功する。
捨て身の体当たり作戦、特攻だ。

そして僕も、
それを目の当たりにすることになる。


―― 続けて読む ――
次の話【第17話】
僕が見た特攻――“すごい”と思ったあの日
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前の話【第15話】
空襲警報と灯火管制

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