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ぼくものがたり【第2話】僕の家と、生まれたときのこと――少し詳しく話すね

昭和12(1937)年10月。
戦争の影がじわじわと忍び寄っていた日本。

ぼくは、東京・杉並区阿佐ヶ谷のとある家で生まれた。

その頃の阿佐ヶ谷は、すでに駅前に商店街や映画館があって、
町としてはそこそこ栄えていた。

でも、駅から少し離れれば、田んぼや畑が広がって、
道も舗装されていない土の道や砂利道が多かった。

駅から徒歩5分の、ぼくの家のまわりも、
土が固まったような地面で、ところどころ石が飛び出していた。

きれいな靴ではすぐに汚れてしまうから、
下駄やわらじを履く人も多かった。

都会と田舎の中間のような、
のんびりとした空気の漂う町だった。


駅から南西の、杉並第七小学校へ向かう途中に、
ケヤキの木がうっそうと茂った森があった。

地元では、“湯浅の森”と呼ばれていた。

僕の家の敷地に代々育っていた森で、
敷地いっぱいに、大きなケヤキの木々が茂っていたんだ。

葉っぱが空を覆っているから、昼間でも薄暗い。
夕方になると真っ暗で、1人で通るのが怖かった。

その森には、タヌキやフクロウが住んでいて、
空には大きな鷹が、悠々と飛んでいるのも見えた。

信じられる?
阿佐ヶ谷に鷹がいたんだよ。


さらに進むと、竹垣に囲まれた大きな藁ぶき屋根が見えてくる。
そこが、ぼくの生まれた家。

石の門を入ると、東西に長く伸びた母屋と庭が広がっている。

庭の真ん中には大きな柿の木があって、
八重山吹やヤマボウシ、紫陽花、梅や桜、ツツジなど、
四季折々の花や木々があり、いつもどこかに鮮やかな彩りがあったんだ。

南の奥には、古いお稲荷さんと苔むした板碑が祀られていて、
うちの家族は代々そこに手を合わせていた。


西側には納屋が二つ並んでいた。
一つは脱穀機や鍬、スキなどの百姓道具の倉庫。
もう一つには、町会のお祭りで使うお神輿や山車(だし)が保管されていた。

納屋の横には紫色の花をつける大きな木蓮。
玄関の前では白いユキヤナギが風に揺れて、
僕ら家族だけでなく、来る人の目も楽しませていた。

その玄関の引き戸を開けると、
大きな土間が広がっていて、家の中は8つの部屋に分かれていた。


※当時の家の見取り図。
母屋や庭、離れの位置関係がわかるようにしてあります。

土間、台所、和室が4つと、
来客用のソファーのある洋間、それに納戸部屋。

さらに母屋から廊下が伸びていて、
その先には離れがあった。

土間の奥の和室には掘りごたつがあり、
よく人が集まって、まるで集会所のようになっていた。

庭にも森にも植木が多く、家じゅうが緑に包まれていた。


そんな家に、ぼく、親父、お袋、祖父、祖母、叔父、
それに女中さんが2人――合わせて8人が暮らしていた。

これが当時の家族写真。

※昭和13年頃の家族集合写真。
前列は、祖父・鍬太郎と祖母・おりん婆さん。
後列の左から2番目が父・喜代松。僕(功)を抱えているのが母・かつ。
国吉おじさん(左端)、軍人の健作おじさん(左の3番目)とお嫁さん。
右端に女中のタエさん。


そして僕の家は、他と少し違っていた。
家の建て替えや事情で間借りの人たちもいて、
いつも10人以上が同じ屋根の下で暮らしていたんだ。

📘これが、阿佐ヶ谷で生まれた僕の家。
「ぼくものがたり」の舞台。


待望の子どもだった僕

お袋・かつが僕を身ごもったのは34歳。
当時としては、遅めの出産だった。

親父・喜代松は35歳。
2人は、24歳と23歳で結婚した。

なかなか子どもが授からず、
5年目にようやく生まれた男の子・甚太郎は、
半年で亡くなってしまった。

7年目に生まれた女の子・佳代子も、
同じように半年で亡くなった。
どちらも、熱風邪だった。

昔は医者が身近にいなかったから、
熱風邪で命を落とす子どもも多かった。

それからまた、5年間、子どもができなかった。

ぼくは、2人が結婚して12年目にして、
やっと再び授かった子どもだった。

お袋は、ずっと自分を責めていた。
自分のせいで2人を死なせたのではないか?
そう思い、誰にも言えず、
仏壇の前で何度も何度も手を合わせていた。

親父も爺ちゃんも子ども好きだった。

親父は、百姓と植木職人の仕事のかたわら、
地元でお囃子の活動に励んでいた。

うちの家は阿佐ヶ谷囃子の家元で、
祭りの時期には、お囃子連中と、太鼓や笛を鳴らし、
お神楽や獅子舞とともに町を練り歩いた。

賑やかに歩きながら演奏していると、
たくさんの人たちが集まってきたんだ。
子どもたちも、いっぱい群がってきた。

すると親父は目を細め、やさしく笑いかけていた。

一方、爺ちゃんの鍬太郎は、
町から方面委員(今で言う民生委員)を任され、
困りごとの相談を受けることも多かった。

「母親が入院するので預かってほしい」
と、緊急な内容もあったし、

「鍬太郎さんの怖い顔で、子どもを叱ってやってほしい」
なんて言う、笑っちゃう内容もあった。

そんな頼みを受け、女中さんたちの手を借りながら、
何人もの子どもたちを預かっていた。

子どもたちが元気に帰っていくとき、
鍬太郎は背中越しに、うれしそうに笑っていたそうだ。

お袋にとっては、そんな鍬太郎に対しても、
旧家に嫁いだのに跡継ぎを産めない――
という申し訳なさがあった。

だから、ぼくを授かったことは、
家族にとって、ようやく光が差したようなできごとだった。

そして、庭の柿の実が色づき始めた十月の終わり、
ぼくは、家の奥の和室で生まれた。

お袋は、「この子は絶対に死なせない」と強く誓った。

親父は天国の兄さんと姉さんに、
「どうかこの子を連れて行かないで」と願った。

「オギャー!」という泣き声に、
みんな、
この子の未来が、どうか平和でありますようにと祈った。

それが、ぼくが生まれた夜のことだった。


―― 続けて読む(下の文字をタップできます) ――
次の話【第3話】
祖父・鍬太郎、そして父・喜代松

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昭和12年、“大日本帝国”の時代――僕は阿佐ヶ谷に生まれた


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