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ぼくものがたり【第3話】祖父・鍬太郎と父・喜代松

僕と祖父・鍬太郎

僕は「功(いさお)」と名付けられた。
名付け親は親父ではなく、家長の祖父、鍬太郎だった。
当時は今と違って、家督を継いだ家長がすべてを決めていたんだ。

“成功”や“功績”を意味する「功」という字──けれど、それは建前で、
本当の理由は、ただ「簡単だから」。

「功」は、カタカナの「エ」と「カ」だけ。誰でもすぐ書ける。

「名前は書きやすいのがいちばん」
と言った鍬太郎には、それなりの理由があった。

鍬太郎自身の本当の名は「鐵太郎(くわたろう)」。
“くわ”の字は「鐵(くろがね)」という昔の漢字だった。

何となく重みがあって、見た目も響きも格好いい。
本人も気に入っていた。

だけど、難しい字だから書いてあげない限り誰も書けない。
まして電話だと、まったくわからなかった。
鍬太郎の父・兼太郎も、毎回説明に困っていた。
そのため鍬太郎の幼い頃から、簡単な「鍬」の字が使われていた。

そのことを不満そうにしていたから、
「名前は書きやすいに限る」と、よく言っていた。
「畑で使う鍬」から由来されたと思われるのが、
好きではなかったのかもしれない。

村や町の仕事に関わる中で名前が載るたびに、
「“鐵”が使われていない…」と、残念に思っていた。
そんな経験から「孫の名は誰でも書ける字に」と、
簡単な漢字「功」にした。

この理由、僕は嫌いじゃない。
重々しくなくて、誰よりも早く名前が書けた。

とはいえ、「少し簡単すぎたかな?」と思ったのか、
あとから生まれた弟には「孟弘(たけひろ)」という、
少し難しい字を選んでいた。


鍬太郎は杉並町の村議会議員をしていたから、
毎日のように役所へ通っていた。

ある日、僕も一緒に着いて行ったら、
職員全員が立ち上がって、鍬太郎に向かって最敬礼をしたんだ。

横にいた僕も、思わず敬礼した。
「爺ちゃん、すげぇなぁ」って、驚いて。
緊張しながら皆さんの前を通り過ぎた。

鍬太郎の写真は、いくつかの地域の記録や文献に残っている。
僕はそれを『鍬太郎を探せ』というゲームのように楽しんでいる。

この写真は青梅街道の拡張工事の鍬入れ式。
ここにも鍬太郎が写っている。

左側、白い着物に黒い長羽織を羽織り、
ヒゲを生やしているのが鍬太郎だ。

写真:青梅街道拡張工事の鍬入れ式 昭和8(1933)年頃
*『阿佐谷 今と昔』読売新聞阿佐谷創業65周年記念
(昭和17年7月 池川 昌宏氏 発行)より引用  


僕は鍬太郎と一緒にいるのが好きだった。
どこへ行っても声をかけられる。

「鍬太郎さん、こんにちは。あら功さんも、ご一緒で」

そのたびに鍬太郎は背筋を伸ばし、
帽子のつばを持って丁寧に挨拶を返していた。

僕はその姿が誇らしかった。
たまに鏡の前で帽子をかぶり、鍬太郎の真似をしていた。
つばを軽く上げておじぎをする。

親父が「爺ちゃんにそっくりだ」と笑っていた。


鍬太郎は、髭を生やし体格もよく、
質の良い背広や、紋付き袴をきちんと着こなして、
堂々として見えるよういつも心がけていた。

「偉い人」っていうイメージの中で生きているような人だった。

増田穆区長在任中(昭和9〜13年)の杉並区議会議員たち。
前列右から2番目が鍬太郎、右から5番目が増田穆区長。


けれど、顔に似合わず困っている人を放っておけない性格で、
とにかく世話好きだった。

見た目はちょっと怖そうなのに、
なぜか人が気軽に声をかけてしまう。
そんな不思議な人だった。

だから毎日のように相談者が訪ねてきて、
鍬太郎を囲んでの会合も多く、
我が家はいつも人の出入りで賑やかだった。

相談者が帰ると、家にはお茶の香りがほんのりと残った。
僕はその香りが好きで、お茶そのものも好きになった。


父、喜代松

親父の喜代松は、明治35(1902)年生まれ。
無口だけれど真面目で、人に頼られる人だった。

百姓をして畑を耕し、作物を作りながら、植木職人としても働いていた。
職人の世界では「お頭(おかしら)」と呼ばれ、地元の公園や学校の造園を任されていた。

写真:昭和15年春、杉並第七小学校の植樹記念。一番右、法被姿が喜代松

法被(はっぴ)姿は、親父のトレードマークだった。
植木の仕事でも、町の行事でも、いつもその法被姿だったから、
遠くから見ても、「ああ、お頭が来た」と、すぐに分かった。

口数が少なく控えめだったから、僕は、
「親父はもともと、こういう遠慮がちな人なんだな」
と思っていた。

でも、そう単純なことでもなかった。
僕の家族には、少し複雑な事情があった。

親父の母は、鍬太郎の最初の妻・ツネという人だった。
二人はすぐに別れてしまい、そのあとツネは喜代松を身ごもっていることに気づいた。
それで、生まれた子──つまり親父を、やむなく鍬太郎に託したそうだ。

詳しいことは、僕にもわからない。
親父はそのことを、ほとんど話してくれなかった。

親父が生まれて半年ほどたったころ、鍬太郎のもとにリンという後妻が来た。
親父は、そのリンさん──通称おリン婆さんに育てられた。

おリン婆さんはその後9人の子を産んだけれど、幼くして6人が亡くなった。
親父は、残った3人の異母きょうだいたちの中で育ちながら、どこかいつも控えめだった。

僕が見ていても、家の中の親父は、少し遠慮しているように見えた。
物静かで、いつも聞き役だった。

でも家には、親父が小学校時代にもらった皆勤賞の賞状が何枚も残っている。
複雑な家庭の中でも、親父は元気で、真面目な子どもに育っていったんだと思う。

ただ、実の母であるツネの写真だけは、大事に持っていた。
親父の机の中に、隠すように入っている写真を僕は知っていた。

微かに微笑んでいるその女の人は、輪郭も、目元も、口元も、親父によく似ていた。

また親父は、花が大好きで、広い庭の手入れは、みんな親父がしていた。
松のような大木まで、庭師として丁寧に世話をしていたんだ。

庭には一年中、何かしらの花が咲いていて、
近所の人が見に来るほどだった。

親父は、その花や木を、いつもやさしそうに眺めていた。
そして時々、ふっと寂しそうな顔をした。

そんな時僕は、
本当のお母さんのことを思い出しているのかな、
と感じていた。

大正11(1922)年、陸軍の補充兵として編入したころの写真。
後列右端が喜代松。

若いころ、親父は兵役にも就いた。
けれど、鉄砲を持って戦う兵隊ではなく、物を運んだり、耕したりするような仕事をしたと聞いている。
ずっと軍隊にいたわけではなく、その後はまた家の仕事に戻った。

親父は、家督を継ぐのは本妻の子だと、自分の中で決めていたようだった。
それで高等小学校を卒業すると、家の畑仕事や植木の仕事に入っていった。

地域では、消防団や防護団でもまとめ役をしていた。
だから鍬太郎の跡を継いで、
「喜代松さんも議員の仕事をしないか」
という声もあった。

でも親父は、
「柄じゃねぇ」
と笑って断っていた。

百姓と植木屋。
親父は、弟たちに遠慮して、そういう道を選んだのかもしれない。

そんな親父にも、別の顔があった。
囃子(阿佐ヶ谷囃子)の仲間といるときだ。

戦後の横川家の庭先。 玄関前で獅子舞を舞う阿佐ヶ谷囃子の仲間たち。
右端で太鼓を叩いているのが喜代松。

我が家の座敷が練習場だったから、終わればそのまま宴会になった。
ふだんは無口な親父も、お酒が入ると急におしゃべりになった。

仲間は、阿佐ヶ谷のご近所さんが多かった。
ひょっとこ役の米屋さん、おかめ役の畳屋さん、笛吹きの八百屋さん。
いつものメンバーと、箸でお椀や湯飲みを叩きながら、テンツクテンツと即興のお囃子が始まる。
それはもう賑やかだった。

お袋は、
「また始まったね。今夜も長くなるわね」
と、台所でお酒を温めながら、その音に聞きほれていた。

でも、八百屋のおじさんとは、よく喧嘩になった。

「二度と来るなコノヤロー」
「誰が来るかバカヤロー」

なんて怒鳴り合いになることも多かった。

親父も八百屋さんも、寅年の同級生だった。
だからお袋は、
「やっぱり寅年は、お酒飲むと虎になるわねぇ」
なんて言っていた。

でも、八百屋さんは僕の家の前に住んでいたから、二人ともすぐに仲直りして、また一緒に飲んでいた。

親父は、
「あいつは同じ寅年で、昔から気は合うんだよ」
と、照れ笑いをしていた。

そんな寡黙な親父の隣にいて、どこか対照的だったのが、母のかつだった。


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お袋・かつと火事騒動

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