三宅唱監督『旅と日々』を観て 言葉から遠く離れて
三宅唱監督の新作『旅と日々』(たびとひび)を観た。彼とは、彼の処女作『Playback』で知り合った。ロケが、震災後の水戸(私の住む町)を中心として行われたからである。水戸の映画祭を主催する友人の平島氏が、三宅氏と大学時代に渋谷の単館映画館のアルバイトで知り合って、それがきっかけで仲良くなり、ロケディレクターを担当したのだ。『Playback』は水戸の映画祭でも上映した。映画はロカルノ映画でもワールドプレミアとして上映され、今回、グランプリを受賞したことは、僕個人にとっても非常に嬉しい。

『Playback』は、モノクロの実験的な映画であり、世界の壊れやすさと、日常の中にある多重世界の可能性を描いた。乖離的、離人症的なムードは震災後当時の時代の空気を的確に表現していた。彼の映画に共通してあるのは、風景、バストアップ、クローズアップへと小気味よく振幅する視線と、他者の声と内面の声のリズムである。風景は常に内面を暗示している。

三宅は作家主義の映画監督である。個人的な体験や思考を軸に、映像表現をする。そこには、普通の生活の中にある、言語化できないものへの関心と、共鳴の祈りがある。偏執的な映画愛がそのまま世界共通の人間愛につながっていることが、素直に表現されていて、陳腐にならないのは、彼が映画を言葉から考えていないからだろう。
この映画『旅の日々』は、脚本を書く、つまり、そもそも言語化できないものを言語化する時の苦しみを表現している。それは、まさに詩人が詩を書く苦しみであり、フェデリコ・フェリーニが『81/2』で表現した、イメージの奔流を物語にできない苦しみにも似ていると思う。言語化すれば難解になるものを、映画の文脈を通して、誰にでも理解できるものとして提出する。文字には表現できないシニフィアンを表す、新しい映像言語(シニフィエ)を開発することは、彼の日本の映画監督としての使命感の現れでもある。それは三宅が、数々の経験を経て、たどり着いた自分の立ち位置なのだろう。
三宅はあるインタビューでこんな話をしてきた。
「映画にできないこと、向いていないことはたくさんあります。言葉で表現できるなら小説のほうが向いているかもしれないし(略)では映画にしかできないことは何か?と考えると、それは非言語的なもので、たとえば言葉では説明しきれない感情だとか、時間をかけた方がより面白いもの。それを表現できるのが映画です。そういう意味で、多分自分の映画のほとんどの情報は、基本的に視覚の中に見えてくるものだと考えています」
映画『旅と日々』は、シム・ウンギョン演じる脚本家の李さんが、自身の才能に限界を感じ、ふらりと出かけた旅先の雪国で、何か大切なものを掴むという内容の作品である。彼女の自己不信の理由、旅の目的地を選んだ理由などは明確にはならない。主人公は、少々自暴自棄に、気まぐれに、積み重なる出会いやアドバイスに身を任せていく。李さんは偶然訪れた雪国で満室の観光旅館に宿泊できず、山奥の宿「べんぞうや」の宿主べん造と出会う。暖房も食事も満足にないその宿で、李はべん造と奇妙な交流を重ねる。ある夜、べん造は李さんを雪原へと連れだし、べん造の実家の錦鯉を盗みに行く。それを警察に通報され……偶然の出来事の、積み重ねによって、新しい出来事がおこり、主人公の意識は変わっていく。観客は、それに共鳴し、主人公と同じ気分を味わうだろう。
たしか、冒頭シム・ウンギョンのモノローグに「言葉に追いつかれてしまう」というのがあったと記憶している。彼女演ずる李さんは言葉を生業にしているが、映画は言葉に表現できないものを表現していることに気づいてしまう。自己不信を抱えて、旅に出て、脚本家はそこに何かを見つけたのだろうか。彼女はべんぞうやの主人に「お前さまはベラベラとよく喋るね」と言われる……このことこそ、まさに映画における監督自身の自戒も含めた「文字/言葉」の評価でありる。
喋りすぎてはいけない……かといって、喋らなくてもいけない……
自己不信に陥った脚本家の乗る電車がトンネルを抜けると、雪国になるところから、映画が川端康成の『雪国』へのオマージュを含んでいることがわかる。また、つげ義春の漫画『海辺の叙景』と『ほんやら洞のべんさん』の2作品を原作としていて、過去の日本文学への彼の愛情も滲み出ている。それは孤独な主人公の秘められた物語であり、おそらく日本人の誰もが持っている異世界へのノスタルジーである。日本の文学において、概して、主人公は寡黙である。
主人公に感情移入して、観終わった後「なんとか……生きていけるな」と思わせてくれる映画に久々に出会えた気がする。その理由は、おそらくこの映画の構造と神話性にあるのではないか――そのように考えている。それは、やはり、うまく言語化できない感覚であり、それについて詩を書くことにする。
最後に冒頭、李監督自身の映画に登場する河合優実の瑞々しさに心を奪われたことを報告しておく。彼女は、その身体言語によって、観客を魅了する。もちろん、シム・ウンギョンもそうだ。セクシーさや、可愛らしさは、変化の驚きに満ちている。それは、旅と相似形である。多様な言語の中に言葉がたまたまある。それを、強く気付かされた。

原作:つげ義春『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』
監督・脚本:三宅唱
音楽:Hi'Spec[4]
製作:崔相基
プロデューサー:城内政芳
助成:文化庁文化芸術振興費補助金(日本映画製作支援事業)独立行政法人日本芸術文化振興会
制作プロダクション:ザフール
配給・宣伝:ビターズ・エンド
企画・プロデュース:セディックインターナショナル
「旅と日々」磯﨑寛也
気まぐれに
積み重ねた
ああ 言葉に追いつかれてしまう
瑞々しさに心を奪われ
ひょんな多重世界
またPlaybackと出会う
風景のバストアップ
カメラのポリフォニー
イメージの奔流は偽の力
共立は不可能である
言葉と出来事の乖離
仮構作用は概念の森になる
運動と時間に引き裂かれ
感覚は運動へと没入する
君は包摂しようとする
強引にそして自暴自棄に
