純粋贈与のための身振り
Prologue ——重なりあう身振り——
身振りだけが政治的共同体の根拠のない基礎でありうるということ…そして、実在に意味を指定し正当化するいかなる「世界観」も、もちろん金銭、交換価値あるいは蓄積さえもその基礎ではありえない…なぜなら「われわれ」、男性と女性は、自らの共約不可能性によって、各人が平等であるからだ。そして、実在し、活動することで、われわれはそのことだけに合図を送っている。Dei nutus〔神の身振り〕——nullius rei nutus〔いかなる事物でもないものの身振り〕へと[i]。——ナンシー&カリオラート
この本は誰でもない二人によって制作された。ひとりは、いくつもの本を手にとり、ペンでなんども案を書き、パソコンで文字を打った。もうひとりは、イラストを描き、パソコンですべてをデザインし、本を仕上げた。重なっているのは身振りであり、その身振りは、やがて、時代と場所を超えてあらゆる身振りとさらに重なりあっていく「場」となるだろう。さらには、あらゆる日常の行為、そして、あなたの本を手にとる身振りにもまた重なるだろう。
——どこかで変化がうまれることを願って。他人をだまさず本気であれば、ただの身振りがやがて倫理的な創造行為となることを理解していただきたい。
本を手にとることが世界を変える
ポッジョにはあまり時間がなかったかもしれない。夕闇迫る修道院の図書館で、修道院長や司書から油断のない視線を向けられていて、書き出しの数行を読むのが精一杯だったかもしれない。それでもポッジョにはすぐにわかっただろう。…ポッジョは、連れてきた筆写人に書き写すよう命じ、すぐさまこの作品を修道院から解放したのだった。この本はその後、ポッジョの生きる世界をまるごと解体するのに一役買うことになるのだが、そんな作品を自分が世に広めようとしているという予感がポッジョ自身にあったのかどうか、定かではない。——スティーヴン・グリーンブラッド[ii]
《私》は本を購入するとすぐにカバーをはずすことを望む。本の著者がどんな人物であったのかなどまったく関心にない。著者近影などというものとは無縁でありたい。それがあるたびに、著者とその肖像がじつは無関係であることを願ってしまう。誇大宣伝の帯文には、主体の煩悩が宿っている。それから、本にプロフィールを載せるような奴とはとにかく離れたい。序文や後書きは、内容に責任を取りたくない著者の言い訳であろう…(謝辞での感謝攻撃)。また、「新たな出会い」「対話」「他者と向きあう」などと言って、やたらと講演・交流会やイベントをする輩も好かない[iii]。あるタイプの書き手たちは、本を思い通りの自分へと還元しようとするだろう。しかしながら、逆に読み手が私のお気に入りとして、自分を確認するために本を再読することもある。あるいは、ルリユール[iv]のように本を自分好みの装幀にしたりもする。他人が触った図書館の本や古本を嫌う人もいる。誰もが本をあるひとつの私に囲いこもうとするのだ。——こうした行為に誰でもない《私》は反対する。それは、本をつうじて生成するすべての思考と身体を歓待するためである。
《私》が本を愛するのは、まったくの他者がそこに含まれているからである。最近、他者というのはとても便利な言葉になっているが、本の内容は読み手(《私》)にとっては永遠にすべてを把握できないものであり、書き手(《私》)にとっては社会にどんどん流通していき評価にさらされ続けるものである。他人が書いた本を理解して自分のものにしようとすればするほど、別の読みかたが浮かんできてしまう。自分を理解してもらおう、自分の考えを知ってもらおうと、文章を流通させればさせるほど、自分が気づきもしなかった新たな側面を逆に指摘されてしまう。また、研究者である《私》は本を読むときに下線引きと書き込みをすることで、過去の自分がどのように内容を読み解いたのか、その痕跡をつねに残すようにしている。そして、未来の自分は、過去の自分がことなった方法と視点からその本を読んでいることに驚くのである。書くことも同じである。過去の自分が書いた文章を読むと、現在とはちがった文体と思考をしていることに驚いてしまう。その文章の主語、責任主体である《私》が、本当に今の自分と同じなのかと疑ってしまうぐらいである。文章上の《私》は、過去の自分と未来の自分を結びつけるが、それらが関係を持っていることが信じられないほどだ。
——さて、この転位語[shifter[v]]の《私》は何を差すのだろうか?「《私》は…」と言表行為することが許されない人がいるのを忘れてはいけない。——蔑称にさらされた身体、呼称としての番号、あるいは、朕、ある制度のなかで排除され囲い込まれた人称代名詞——
ポッジョ・ブラッチョリーニ(1380年- 1459年)はブックハンター[vi]であった。ローマ帝国においてはキリスト教が国教となり、古典的基礎としての古代ローマ・ギリシア文化の破壊が行われた。それゆえに、重大な古典作品さえも読まれなくなり、顧みられなくなり、やがて失われてしまったものまである。残された書物のなかで言及されているものの、それがどんな内容なのか永遠に分からないものも多いのだ。ブックハンターたちが求めたのは、そんなどこかに埋もれているはずの諸作品であり、そのために馬に乗ってイタリア各地の古い修道院の図書館をまわった。修道院には戒律があり聖書などの決まりきった読書しかされていなかったが、識字率の高くない時代において、本が残されていた数少ない場所であった。修道士たちは戒律にしたがって、《汝》と《我》(《神》と《私》)の関係をただ確認して固定するために、ページをめくる身振りを繰りかえした。それにたいして、ブックハンターたちは《汝》と《我》の関係から逃れて、失われた知が現在において新たな仕方で影響を与える機会を創造するために、図書館において監視されながらも、勇気を持っていくつもの本に手をのばす身振りをしたのだ。
ポッジョが偶然の傾きによって手をのばしたのが、ルクレティウスの『物の本質について』である。この世のすべてはただ原子の離合集散にすぎないとして、幻想がもたらすあらゆる恐怖(自分にとっての恐怖)を克服しようとするその思想は、その後の唯物論と科学主義の礎となっていった。それは、宗教さえも批判する可能性を秘めたものであった。ポッジョの本を手にとる身振りは、失われた過去と、不毛な現在を結びつけて、未来のために過去を別の仕方で再興させた。同じような私しか認めない読書(の強制)にたいして、自分と他人のために新たな思考をもたらしたのだ。彼にとっても、その後の人類にとっても未知の思考をする《私》をうみだすこととなった、本を手にとる「身振り[geste[vii]]」は、人間の思考と身体に生成変化をもたらしたのである。それは、暗黒時代とも言われる、知的にも、文化的にも人類に貢献することが少なかったキリスト教支配下において、その身体をとりまく状況を把握しつつも振り払い、存在しなかった思考をする他者である《私》を世界にもたらした「対抗的な身振り[viii]」である。
——ただ本を手にとることが、過去と未来、同じ自分とまったくの他者を結びつけて世界を変えたのだ。自分と他人、利益と損、必要なものと要らないもの、多方面に配慮しているようで裏では徹底的に切り捨てるインターネット・メディア時代の私たちの身振り、あるいは、自分に都合のよいものを求めて本に手をのばす身振りは、ポッジョの倫理的身振りとあまりにもことなっている。
Interlude 1 ——とても便利な言葉——
「他者」と「多様性」の問題はここではつながっている(あたかも自分が何かをしているように見せかけてだます人間のなんと多いことか!)。社会運動の難しさは、それぞれの運動が自分たちの見方から弱者(他者)を捉えて、他の人に認められているのと同じ社会的権利を要求することである。そのため、⑴他者をただひとつの視点に還元してしまう、あるいは、それによる諸運動の連帯の困難さをもたらす、⑵他の人と同じ権利を得れば他者もまた他の人と同じになり、他者の抹消につながる、⑶権利が認められると正義が終わってしまうので、さらなる弱者をつねに求めてしまう(弱者を救うものがさらなる弱者を逆に作りだす)。現象学の感情移入論のように、感情移入をすることで他人を配慮すべきものと認めるので、感情移入できないものには排他的となり、うみだされた新たな弱者にはただ共感を求めていくしかない(同じく憎悪もうみだされる)。
また「多様性を認めろ!」と言う者たちが、結局のところみんな似たり寄ったりのことをして、同じようなことしか言えないのはなぜなのか。誰でもできることしかできず、誰でも理解できることしか理解できず、誰でも言えることしか言えないならば、一体どこが多様になっているのだろうか。むしろ、それは多様性を減らしていないだろうか。自分は変わらずに他人には変化を要求するのはなぜだろうか。自分がそんなことをすれば、相手も同じことをするので、何も変わらず、誰も変わらないことに気づかないのはなぜなのか(これはただの相対主義である)。現在の多様性の問題は、まずつねに自分を変化させるという考えが欠けているのであり、巷でされていること・言われていることをコピーするのではなく、この世に存在しなかった新たな思考とアイデアを自分の力で創造することが行われていないのだ。すべての人間がこれを引き受けて、実践しないことには多様性はうまれないだろう。
エマニュエル・レヴィナスが「顔[visage: それぞれの自己に還元できない絶対的他者の相貌[ix]]」という概念を創造したのは、自分の観点に他者を還元すること、相対的でしかない他者、際限のない新たな弱者を求める運動を批判するためである。人間は他人の顔面を見るとすぐに、自分のカテゴリーに分類してしまい、それが原因でアレルギー反応を起こしてしまう(「《あいつ》は~人。」「《やつ》はアジア系。」)。それにたいして、絶対的な他者の「顔」はまずただ人間がそこにいるということを私たちに突きつけてくる。それはカテゴリーを持った《私》を断絶させ、ただ他者のために行為することを促すのだ。入り口でドアを他人のために押さえておくとき、いちいちその顔面を確認したりしないだろう。ただ誰でもない人が存在することを把握したから親切にしたのだ——「お先にどうぞ」。《私》は他人の顔面を見て勝手にカテゴリー分けをして、親切にするかしないかを選択するが、絶対的他者の「顔」は「いまここで親切にできるのはお前ひとりしかいない」と突きつける。自分は誰でもない他者によって選ばれてしまったのだ。
他人の顔への勝手なカテゴリー分けからうまれた《私》-《君》-《あなた》―《みんな》―《彼》-《彼女》などの関係性は、《あいつ》や《やつら》を排除し、過度な喜び、憎しみ、そして、暴力へとつながっていってしまう。《弱者》もまた親切にされているようで、あくまでカテゴリー分けのなかで、排除するかしないかの選択のなかで、配慮する者として選ばれたにすぎないのである。このままでは《弱者》の境界はあいまいなままであり、つねに排除される者たちが残ってしまう。たしかに、《私》がかけがえのない存在なのは、この世界において自分だけの命を持って生きているからである。それにたいして、絶対的他者との関係においては、その状況下で人に親切にできるのが自分しかいないからこそ自分の存在はかけがけがないのだ。相対的でただ際限がない他者と、絶対的で無限な他者、この違いはあまりにも大きいが、誰もそのことについてもはや考える気はないようだ。ただ、レヴィナスの問題提起は重要であるが、どこかに神学的な《汝》と《我》の関係を感じさせる…。
——「他者」と「多様性」は(自分のポジションを維持するために、敵対する者を批判して)他人にマウントをとる、あるいは、自分が何かを考えているようにみせかけるための道具ではない。むしろ、そうした発話の身振りは、人間の思考と身体が持つ変化への潜勢力にたいする最大の足かせである。
顔貌性と言表、そして、変化するそれらの配分
人は可能な基本的単位の間でしかじかの場所を占め、可能な連続的選択の中でしかじかのレヴェルにある自らの役割の顔を持たなければならないのである。顔ほど個人的でないものはない[x]。…次のようなことがあるだろう。すなわち、上部には、指令語の存在様態および伝播様態としての冗長性(新聞、「ニュース」は冗長性を用いて事を進める)がある。そして下部には、指令語を理解するために要求されるつねに最低限のものとしての顔という情報がある。さらにその下部には、沈黙でも叫びでも、あるいは吃りでもあり得るような何か、そして言語の逃走線として存在するような何か、自国語の中で外国人として話し、言語からマイノリティの語法をつくることができるような何かがあるのだ…。顔を解体すること、顔をすり抜けさせること[xi]。—ドゥルーズ&パルネ
私たちの情念的な身体は顔にあこがれる、「あんな顔だったらいいのに」と願うくらいだ。それでも、TVやネットを見ているとむしろ、顔がその流行りにおうじて同じものが生産されていくことに気づく。「若い人はみんな同じ顔に見えるねぇ~」…しかしながら、昔の銀幕スターもまた同じような顔をしているではないか。そして、それが骨格というより、物理や身体的なものというより、ある種の雰囲気や現象的な容貌であることにきづく。そうなると、顔はとても平凡なものである(「雰囲気イケメン」というのはかなりうまい表現だ)。あたかも、個人的なもののはずが、じつは、どこにでもあるつまらないものに見えてくる。ある組織に属する者たちが、夫婦が、そして、ペットと主人がなぜか同じ顔になっていくのだ。そして、社長に、政治家に、国のトップに典型的な顔というものが指摘される(紙幣に描かれた顔のつまらなさを見よ!)。こうした、所属するものを平均化したりする顔もあるし、その場を統御するための顔、たとえば、大人、教師、上司の顔などもある。場を統御するためには、こうした顔を持たないと言葉に説得力がないのである。さらに、望んでいなくても役割を強制された顔もあるだろう…「○○の人はだいたいこういう顔をしている」。そういった人の言葉は、おもしろおかしくとられて、真実をのべても聞いてもらえないのだ。
だがさらに、顔はもっといたるところにないだろうか、物理的な顔面よりも、身体的な頭部よりも、どこかの表面上に、環境におうじてうまれてくる顔がないだろうか。たとえば、風景の顔として、ヨーロッパ・アジア・北米・中南米・中東・アフリカの街並みがあり、人によって憧れや別の情緒、あるいは、嫌悪や奇異さを感じさせる。その街並みという顔への感じかたによって、同じニュースであっても受けとりかたが変わるのだ。また、それは時代によっても変わっていくだろう。顔は変化していくものであり、あらわれては消えていくのだ。そうなると、顔面はただの白いキャンバスで、その上に黒いシミのかたまりがあるだけのようだ。そのシミは消されて、また白くなり、べつの時代と場所ではまた新たなシミがあらわれて容貌となる。レヴィナスは人間の「顔」しか問題化できなかったが、むしろ、顔は時代と場所の社会的な諸力によって、人間のみならず、国家、組織、家族や夫婦の共同体、そして、ペットの動物や人工的な建物、さらには風景などのあらゆる物や身体[corps[xii]]にまで生じては消えていく容貌なのだ(「顔貌性[visagéité[xiii]]」)。レヴィナスの「顔」はカテゴリーに分類されない絶対的他者の相貌であったが、顔貌性は社会のなかで中心となる顔が動的に変化していくこと、その条件と要因を分析可能にさせる概念である。
たとえば、むかしの芸能人の顔は特徴的であったとされるが、それはむしろ、現実にはなかなかおめにかかれない顔が、その中心化の効果をテレビではっきしていたからではないか。そこには、テレビに出る人と観る人という分けかたがあったのであり、芸能人の顔というものがブラウン管に登場する人のからだに宿っていたのだろう。その顔によって、情報の送り手と受け手の関係がきめられ、聞くべきであり、従うべきであるニュースもすでにきまっていたのだ。顔はつねに二進法、「ある(1)」か「ない(0)」で分けられていき、さらにそこに二つの選択肢が連なっていくことで、その顔の役割が決定されていく。テレビに出る/出ない顔⇒男性/女性の顔⇒スター/それ以外の顔…、昔の芸能スキャンダルは「スターの顔」によって保証されていたのであって、スターではない人のネタなど重要ではない。また、逆に、何度も繰り返しニュースや言動が報じられることによって(「冗長性」)、その人の「スターの顔」も成立していく。さらに、男性/女性の顔によって、メディア上での役割も決まっていた(現在では、男女/別の性の区分も成立しはじめている)。メインではなかったお笑い芸人の顔がスターになるとき、とくに他のスターの女性(女優、歌手など)との関係が大々的に報じられたときに別の中心的な顔が生じてきた。だからこそあたかも、昔のほうが個性豊かだったなどとなつかしむのは不毛である。
残念ながら、SNSが広まった最近では、いろいろなニュースをひろく届けようと考える人は少なく、みんながニュースの中心的な顔になりたがっている。情報番組の顔から、アナウンサーやジャーナリストが消えたのは驚くべきことであり、あいだのCMと変わらないテレビの顔が出演しており、番組なのかCMなのかもはや区別できない。また、インターネット・メディアでは、中心となる顔の容貌が一定化されずに変化して渦巻いて、つねに凝固点を求めてているようだ。芸能人さえも、SNSをつうじて戦略のなかで、自分の顔を奪いかえし、そして、新たに作ろうとしている。何のとりえもない人も、YouTuberとしてスターになれるのだ…注目される容貌さえ手にいれることができれば…クリエーターを名乗るわりにはコンテンツは似たり寄ったりであるが…。中心的な顔にはかならず傾向がそのつど存在し、そのなかで少しずつ人に凝固していくのだ。そして、新たなメディアでの法則とコードがやがてうまれてしまう。キムラタクヤの問題は、それでも「メディアの顔」の位置を、広告会社、事務所、テレビ局、雑誌などを統制して占め、あらゆる別の顔を排除させて、SNSの時代においても、自分のために顔の力をはっきさせようとしていることである。かれの家族は、その顔の位置を絶対にのがさないとこだわり、本人だけではなく全員がその顔を身体に離さまいとつなぎとめている。
——「《私》の顔がもっと…だったらなぁ。」これは言表の主体が《私》でありながら、つねに集団的な欲望からうまれる言表行為である[xiv]。
顔貌性は言葉ともことなった情報として言表の効果[xv]をつねに規定している。たとえば、ふつうの人が「朕は国民といっしょに在り、常に利害を同じくし、喜びも悲しみも分かち合おうと思う」と発話しても、何の効果もないだろう。とつぜん、「被告を~の刑に処する」と発話しても、冷たい目で見られるだけである。顔はまず言表の効果をはっきさせるための、最初の情報なのだ(天皇、裁判官の顔)。くりかえすが、その顔は具体的な容姿のことではなく、そのつど限定的な言葉の力がはっきされるための意味と主体のありかたを規定する、物体と身体のあいだを移行するいわば現象としての容貌である。誰が何を言っているのかが問題なのではない、どんな顔を持つものが、どんな効果を持つ言表を発話するかなのだ。スター、有名人、人気者、英雄、インフルエンサーの顔を所有するものは、あらかじめさまざまな言表を機能させるための情報を顔によって発信している。学者たちがテレビに出たがるのは、内容が無いその研究を隠しつつ、自分の発した言表がただ生きのびるための効果をはっきすることを期待したがるからである。なんとしてでも、本のカバーには写真を載せなければ、インタビュー記事にはモデルかロックスターのように映らねばならない。そこにこそ、自分に都合のよい顔となる容貌が身体の表面上に生じる可能性が開かれるのだ。しかしながら、時代によって有効な顔はそのつど変化していくのだから、顔の効果をみきわめて、ただしく自分の身体上に生じさせねばならない。本とネットの誰でも言える言葉を《私》に囚われがちな人がコピーするのは、ただ自分が生きのびるためにもっとも都合のよい顔が欲しいからである。政治問題、社会問題、環境問題のほんとうの悲劇がここにはある。
ここに顔と言葉の問題がある。たとえば、差別的用語という言表の機能を分析してみよう。それは発話とともに他人の身体に作用し、その人に被差別者としての顔を一方的に持たせてしまう。そして、差別的用語かどうか議論をするのは、意図せずとも言表行為によって顔を持ってしまうことにつながり(何が悪いのかとひらき直った顔・タブーを破ったとする得意げな顔/正義の顔・自分を進歩的に見せるようとする顔)、誰もが顔貌性と言表の二元論に囚われてしまう。差別がなくならないのは、言表によって気づかぬうちに誰もが顔をもたされて、ただ役割(被差別者/差別主義者/反差別者の容貌)を配分されるだけだからである。「差別反対!」という言表行為は、逆に、差別に加担して役割を固定してしまっており、誰もそのことに気づかないのだ。差別の言表はあらゆる人間の身体を捉えてしまい、誰もそこから逃れられない。差別から自由な人間などおらず、私たちの思考と身体は差別の言表によってあらかじめ条件づけられている。このことに対抗するためには、別の戦略と言表行為の身振りを創造しなければならない。
Interlude 2 ——本における顔と名前、思考と身体——
何も書かれていない本というものがあるだろうか。白紙ではないが、ページに何かが書かれているようで、じつはまったく内容がないもの。多くの人は無内容な本を出版することを許されないが、特権的な名前であれば話しは別であろう。かつてそれを許された名前が、小林秀雄である。「美は人を沈黙させるとはよく言われる事だが、この事を徹底して考えている人は、意外に少ないものである(『モオツァルト[xvi]』)」と言うこの男は、美を言葉で表現できないものとしてあらかじめ定義することで、その美を把握した自分が凄いことだけを演出しつつ、何もしていない自分への批判をあらかじめ斥ける。彼になぜその作品が美しいのかを尋ねるのは許されないのだ、なぜならば美は言葉で表現できないものだからである。少しでも美を説明したらとうぜん批判されることになるのだが(批判に向きあうのが誠実な人間である)、彼はまったく何もしていないので責任をとる必要はない。それが、この男の他人との向きあいかたであり、何もしないことで批判を避けて、ただ自分の名前だけを他人がありがたがることを強要するのだ。
ところで、言葉に表現できないものがあったとして、それは創造した作者が凄いのであって、それが美であると把握した小林秀雄は「これは美しい」と発話しただけ、書いただけである。そして、それがなぜ美しいのかは絶対に説明しないのだ。いったいこの男は何をしているのだろうか、その本に何が書かれているのだろうか。美は人を沈黙させるのだから沈黙しなければいけないのに、美は言葉で表現できないのだから文章を書いてはいけないはずなのに、その原則を自分の利益のためならこの男は平気で破る。あげくのはてに、「批評の方法も創作の方法も本質上異なるところはあるまい」と言いはじめ、どこかの元首相の「感動した!」という空虚な言葉のように、ただ《俺》が作品と感動的に出会ったことがだらだらと書かれているだけの本を創造物とするのだ。すべてを《俺》=小林秀雄という名前に還元させ、読者にも《俺》に同化して感動することを迫るその手法は別の意味で芸術的である。誰のものでもない《俺》という一人称を、自分だけのものとして占有し、他人にもその自己愛を感染させようとするから恐ろしい。その自己愛は、文学を論じるときにまさかの作品自体を論じずに、作家の顔を論じたところにもあらわれている。文学、作品はそれ自体で論じられる必要はなく、むしろ重要なのは、顔によって偽りの説得力をもたせることなのだろう[xvii]。
——「美しいから美しい」とトートロジーだけを繰り返す「何も書かれていない本」、偽りの説得力をもたせる顔、空虚な内容の本を出版することだけを目的とした言表行為、《俺》=小林秀雄という同化を読者にも迫る名前…。
しかしながら、何もしていないことへのさまざまな批判もむなしく[xviii]、小林秀雄の態度は現代ではどんどんと広がりをみせて、ついには作り手にもその病が蔓延しているかのようだ(もはや突発性ではない「小林秀雄地獄[xix]」)。現代の出版業界でも同じことで、たとえば自己啓発本は、どの本を手にとっても同じような方法論しか書かれていない。しかしながら、カバーには腕組した著者の写真があり、そして、名前が大きく書かれている。成功した体験の方法だけならば、誰にでもできるし、言えるし、見える。それゆえに、誰もがそれをコピーして(自己啓発本の出版もまた真似される方法である)、たいした努力なしで自分も成功しようとしているのだろう。さらに、自己啓発が好きなのが「教養」という言葉である。ちなみに言っておくと、教養というのは自分で考えて、何かをうみだしていくための最初の一歩であって、それを知っているからといって偉いことにはならない。恐ろしいのは、大学の教養課程程度の知識をそのままで本にしたり、それを使って作品を作ったりするものが増えていることである。とくに、政治や社会問題をあつかう作品は、ただ他の人が考えたことや調べたことをコピーして、同じような政治や社会問題の信条をもつ人の情念に訴えて(「《私》もなの!許せない!」)、あたかも何かをしたように見せかけている。そして、作品にたいする批判があればすぐに政治や社会の話しにすり替え、コピーだけをして何もしてない(作ってない)作者の名前だけが残るのだ[xx]。
それを読んで、あるいは観賞して、こちらはどうすればいいのだろうか。読者と鑑賞者は、その著者や作者と同じように教養から一歩踏みこんで、自分でものを考えられない馬鹿な人間だとでも思っているのか。誰でも知っていることしか書かれていない、知っていることだけが作品になっているのを見て、復習しろとでも言いたいのか。さらにいえば、芸術作品について「気づくこと」を促すような教育は、作品という自分に還元できない他者ときちんと向き合い、それを徹底的に観賞して具体的に分析しようとする努力を放棄している/させている。とうぜん、作品は作者の創造物であり、鑑賞者の作品にたいする意見も鑑賞者のものであり、それならば、この美術教育者はいったい何をしたのだろうか。「楽しむことが大事」などと言って、思考することを放棄させつつ、(感性的というよりも)生命ならあたりまえにする気づきと思考をすり替えるのは欺瞞である。そこに作品があって見たのだから、「見た」ということは起こっているが、これでは「見たということに気づいた」ことにしかならないであろう。「にちじょうとはちがったたいけん」だの、「ごかんのふしぎ」だのと言って、生きていれば当たりまえのことを、あたかも何かが起こったように見せかけるのを許していいのか。それは、何もやってないアーティスト、あいまいなだけのプログラムをつくるキュレーター、鑑賞者に観賞させないように誘導する美術教育者の最低の共犯関係である。「考えることが大事」ということを考えることしかできない、「他人に配慮することが大事」ということからしか他人に配慮できない、「気づくことが大事」ということを気づくことしかできない…。こうしたトートロジーに他の人まで巻きこむのが、他者との接しかたとでもいうのか。
まさにデジタルである情報化社会では(語源はラテン語の指を意味する「digitus」、指だけで二分法の「有用」と「無用」を判断)、コピー&ペーストの身振りしかできないものが増え、あらゆるところにトートロジーが蔓延している。情念的な顔と名前の権化である小泉進次郎を、私たちはなぜ笑えるのだろうか(「今のままではいけないと思います。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている」)。考えをただコピーしつづけ、顔によってまったく空虚な発話の言表行為を成立させ、名前だけが広まっていくことを願う自分勝手な身振り。それだけが、現代の思考と身体のありかたなのだろうか。ポッジョの身振りは修道院から本を解放したが、現代人の身振りは本をただ成功するために内容をコピーするものへと変化させている。本は、《私》の情念と、何もしないで成功を願う自己愛によって囲いこまれてしまったのだ。——《私》という「転位語」に自分を固定させる病から解放されると、いったいなにが起こるのだろうか。
名を与える——名前への新たな願い——
神は人がそれにどんな名前をつけるかを見ようとされた。すべて人がそれに名づける名はそのままその名前になった。——『旧約聖書』、第2章19節
神がそれが名づけるものの前で自らを消失させるものでないとすれば、そのとき、「名が必要である[il faut le nom]」は名が欠けているということを意味するのだろう。すなわち、名は欠けていなければならず、欠如している名こそが必要なのである。こうして、自らを消失させるに至ることで、名は名そのものを除いて存在するだろう=名そのものは救われることになるだろう[il sera sauf lui- même][xxi]。——ジャック・デリダ
「神」とは固有名なのか、それとも普通名なのか[xxii]。…「我が神」が意味するのは、ここで、今、私が、単独の或る名の欠如と単独の関係に入るということだ。——だから、いったい誰が「我が神」と言う権利ないし能力を持つのかと問うことは理由のあることだ[xxiii]。——ジャン=リュック・ナンシー
この世界には不幸な人がつねに存在している。そして、さまざまな不幸のかたちがあるが、他人から意図せずに名前を与えられてしまうこともひとつの不幸であろう。もちろん、親から与えられた名前が一方的で好きではない人もいるかもしれない。たしかに、親に名前を与えられるのは一方的な行為であるが、親は少なくとも相手の幸せを願って命名の身振りをしたはずである。親は子どもの誕生のときに名前を与えるのであり、名と生のはじまりはセットになっているのだ。しかしながら、世のなかにはさまざまな別の名前があり、ひとりの人に本名以外にもさまざまな名が命名されることになる。たとえば、友達へのあだ名は、おそらく友という関係の誕生を願ったものであるだろう。しかしながら、子どもはときにもの凄く残酷であり、上下関係の誕生、排除する関係の誕生などをねらって命名してしまうこともある。そこでは子どもながらに、集団のなかでの意図と欲望が渦巻いているかもしれない。それならば、その命名は利己的であったり、関係のなかでうまく立ち回ったりするための効果を願っていることになる。他にも、陰口における蔑称は、貶めてやりたい、あるいは、自分のネガティヴな感情に同意してほしいという願いのあらわれである。あるいは、自分が救われるために別の名を求める人もいる。たとえば、「有用性」を求める社会に配慮して異常と正常のあいだが「医療化」によってつぎつぎに開拓されていく精神医療の現状においては、もはや正常な人間などいないとばかりに、(患者ではなくカテゴリーを診るために、そして、そこに押しこめるためにつくられた)新たなカテゴリーとそれにたいする病名がうまれている。ただ社会が寛容さを失ったことが問題なのに、苦悩の解消を新たな病名の名づけに求めてしまう人々が出現している(《私》=病名[xxiv])。
ほかにも、仲をちぢめるために「こう呼んでください」と、自分で自分に名を与えることもある。もちろんそれは、たがいにより良い関係を築くことを願ったものだが、逆にいえば、他の名づけを禁じる、関係性を自分のおもう方向に持っていこうとするものである。この「名づけの禁止」、「関係性の誘導」は情報化社会では重要であろう。かつてのテレビ時代において、究極の例としてあったのが、ある人気歌手の一人称のありかたである。「《あゆ》は~⤴」、「《あゆ》は~⤴」という、主語と助詞を上がり調子で発音して、あえてそこで一度切る発話のしかたは、巧妙としか言いようがない言表行為であった。まずは、《あゆ》という単語を何度も繰り返すことで(「冗長性」)、それが一人称を意味することを周りに認識させ、自分の身体にはその「転位語」しか関わらないことを印象づける。じっさい、誰もが彼女のことを《あゆ》と読んでいたのであり、彼女の身体に誰にでも使える《あなた》、《彼女》といった語、あるいは、別のあだ名や蔑称は無関係であった。さらにその、「《あゆ》は~⤴」と助詞のところで上がり調子で切る身振りは、調子を上げていくことで聞いている人にその後を期待させる。さらに、次をまつあいだに聞いている人は、《あゆ》という一人称に自分を同化してしまい、そのあとの文章内容に共感せざるをえないのだ。ここにあるのは、メディアの一形式であるテレビ時代における、言表行為によって自己とその身体を別の仕方で維持しつつ、自分に都合のよいことしか起こさせない環境への対抗的身振りである。彼女は周辺で起こっていることを把握しつつ、すべてをコントロールするように言表行為をしていたのである——ただ、自己愛のために。
旧約聖書では、「神は人を御自分の像の通りに創造された。神の像の通りに彼を創造し、男と女に彼らを創造された[xxv]」とされている。しかしながら、この一節からは一見して順序が逆であること、つまり、そのときの人間から類推して神を想像したことがよく分かるだろう。全知全能の存在としておきながら、裏では神を擬人化して、神が自分たちと同じような存在であって欲しいと願っているのだ。諸説あるものの、神は地の土くれから人を造り、アダムと名づけたとされる(ヘブライ語で「地面、土」の男性形、さらに「人間」も意味する。固有名であり普通名。)。そして、獣と鳥を造り、アダムの前に連れてきてどのような名前をつけるか見ようとした。さらに、神はアダムの肋骨からふさわしい助け手を造りまた連れてきたのだ。そのとき、「これに女という名をつけよう、このものは男から取られたのだから[xxvi]」とアダムは叫んだとされる。このように旧約聖書において、名づけは誕生と同じときになされているが、さきほどの神の擬人化からも分かるように、あくまで男性である書き手がそのときの男女の関係が神話となることを願って名づけたのだろう。それでは、「神」という名はいかにしてうまれてきたのだろうか。これは古代からの問題であるが、分かっていることは多くのばあいにおいて、それぞれの人がそのつどの《私》の願いのために、その名を呼び、そして名づけていることである(「この幸運は神様が」「ここには神が宿っている」「神様救ってください」「神の手」「神よなぜ」「あの先生は単位をくれて神だ」など)。
ところで、情報化社会においては名前と名づけが氾濫しており、やはり、それはあくまで《私》の願いのために行われている。インターネット上でのさまざまなサービスにおいては、「ハンドルネーム」がひとつずつ必要であるし、SNSや動画配信で有名になりたければ人目をひくような名前が必要となるだろう…キラキラネームと同じように、人目をひこうとしてどんどん名前が凡庸になっていく倒錯さ…過激なことをして炎上させて凡庸なその名前をネット上で広めるしかない無能さ…。また、起こった事件をおもしろおかしいものとして盛り上げるために、犯人とされる人に離れたところから「蔑称」を勝手につけ、その人をスケープゴートにして集団的欲望を満たすことも行われている。これはかつて、テレビのワイドショーなどがやっていたことであるが、現在では誰もが情報を発信できるために、集団的欲望もエスカレートしてどんどんと過激な名づけがされている。《私》とそれがただ集まった《私たち》の、都合のよい名づけの欲望はもはや歯止めがきかなくなったようである。あたかも擬人化され、おのれの創造行為に酔った神のように、ネットに隠れることで他人とその関係性を自在にできるともでも思っているのだろうか。自分の名前と《私》からはますます離れられなくなっているが、他人には安全なところから自分勝手な願いのために名づけようとする争い——名づけの戦争。
それにたいして、ジャン=リュック・ナンシーは「神」と《私》のあいだでの名づけから派生して、名づけの別のありかたを提起する:「あなた(よ)、ここで、今、あなたは私と単独の関係に入るのだ。このことは関係そのものを保証しない、またいかなる仕方においても関係を測定する[限界を定める mesure]のでもない。そうではなく、それは関係を宣言する、そして関係にその機会を与えるのだ[xxvii]。」ナンシーが言いたいのは、本当の願いにおいては、願う者は《私》や自分の名前から離れて、そして、願われる「神」もまたその《私》から見た都合のよい名ではなくなるということである。おたがいが、その「名」から離れるときにはじめて、予測できなかった新たな関係が生じてくるのだ。このとき「神」は名というよりも、あらゆる時代と場所にあった、ただ純粋に他者のために願う身振りだけが共通する「場」となる。ナンシーにとって神とその名は、その存在ではなく、ただ他者のための願いが生じる機能をもった「場」だから重要なのだ(「神的な様々の場」)。名は純粋な願いを引きだすための機会となり、そのとき《私》と自分に都合のよい名前は消えてしまう。だからこそ、名は必要であるが、それと同時に、名は欠けていなければならないのである。それは思いどおりにできない他者のために、《私》から離れて存在しなかった関係をうみだそうとする、他者と自分がともに生成変化することを願う機能を保証するための「場」なのだ。
——他人へと名づける名もまたそんな「場」でなければならないだろう。不純な《私》のための願いがすべて斥けられて、純粋な他者のための身振りだけが共通するような。ポッジョの本を手にとる身振りもまたそうだったことを忘れてはいけない。
Epilogue——名の純粋贈与/ナンシー関の「ダイアグラム的顔貌性」——
固有名というのものは、一個人を指示するのではない。——個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解〔包摂〕された純粋な不定法なのだ[xxviii]。—ドゥルーズ&ガタリ
これはテレビ時代にきわめて創造的な批評行為をしたある女性への敬意、そして、別のメディア形式における新たな批評行為がまたさらに創造されることを願ったものである。
芸能人にとっては、歯ではなく、顔と名前が命である。顔はあくまで顔貌性としてあり、芸能人として生きていくため、あるいは、トップでいつづけるためには、テレビの中心的な顔の位置をなんとかして保たなければいけない。名前に傷がつくようなことはあってはならず、芸名とキャッチフレーズを守らなければいけないのだ。そして、芸名のほかにメディアに蔑称をつけられることは避けなければならない。顔と名前を《私》に固定しておかなければならないのだ。それならば、逆に、顔と名前をその《私》から解放することができるだろうか。それも、その人を貶めるためではなくて、純粋に他者を解放する身振りとしてすることができるだろうか…顔と名前をあらゆる「転位語」とその人の身体から切断させ、それらにこれまでなかった効果をもたらすような。ナンシー関はその独特な「テレビ批評」、文章と消しゴム版画、言説とイメージによってそれを可能にしていた。その批評行為は、芸能人やテレビに出てくる人(アナウンサー、コメンテーター、評論家、政治家など)の言動を分析した文章と、その人の顔を描いた版画によって成立している。彼女の批評行為を悪意のある批判、あるいは、悪口ととらえていた人もいたがそれは間違っている。おそらく、文章は芸能人の勘違いした言動を揶揄し、版画は嫌味のように顔をデフォルメしているように思われたのだろう。
彼女がまず行うのは、その芸能人の言動と顔をその状況や文脈から切りはなしつつ、さらに、言動と顔が生じてきた状況と文脈を浮き彫りにすることである。なぜならば、その言動はテレビ番組、ワイドショー、インタビュー、CMなどでは演出、脚色、本人や事務所の意向、あるいは、テレビを観ている人への意識などがふくまれて成立しているからである。その言動だけを分析しても、本人が、あるいは、演出や脚色があるならば(他人によってされていることもあり)どのような効果をねらったのか把握できないのだ。また顔も、衣装、ライトアップ、カメラの撮りかた、撮られた場所や状況などがかかわっており、顔をそのままコピーして版画にしても、やはりどのようにしてそれが生じたきたのかを分析できない。言動と顔は、とくに、どうしても演じる必要がある芸能人のばあいは、それ自体だけでは成立しないのだ。ただ言動と顔をそのままで批評対象として取りあげても、ねらわれた効果の罠にはまるだけである。ただの言動であったとしても何らかをねらった言表行為であり、その言表行為は単独では成立せずに、さまざまな社会的な関係と力が複雑にからみあうことで可能になっているのだ。顔もまた、ただの顔面や容姿ではなく、その場所や状況によって生じてくる雰囲気や現象であり、変化していくのでそれがいつも変わらず同じであることもない。芸能人の言動と顔を批評すれば、メディア形式がまさにテレビだった時代には、世のなかでどのような社会的関係と力(あるいは、制度や仕組み)が働いているのか、どのような顔が情念の中心となっているが把握できるのだ。それは、その人が存立できるそのつどの主体の形式と実存のありかたを芸能人本人に示してあげることである。ナンシー関の批評行為は批判や悪口ではなく、その人に贈られたものなのだ。
さらにこの言動と顔、言表行為と顔貌性の分析は、その芸能人だけではなく、読者とナンシー関本人にもかかわっていく。彼女が見えるようにしてくれる、あるいは、感覚できるようにしてくれるのは私たちの言動と顔も同じように成立させている、複雑な社会的関係と力(隠れている制度や仕組み)、そして、私たちがそのつど秘めている情念である。その批評はその芸能人だけではなく、ナンシー関と読者にも「自分はどうなのか?」「いまの《私》はどのようなものか?」と問いかけてくるのだ。そのとき、その問いは批評対象の芸能人、ナンシー関本人、そして、読者など批評行為にかかわったすべての人を、そのつどの主体の形式と実存のありかたを可能にする次元へと巻きこんでいく。誰もが《私》という「転位語」から解放され、自分の身体を取りまく社会的関係と力を把握できるようになり、さらに、自分が秘めてしまっている情念とその原因を突きとめることができるようになる。そして、《私》から離れて、環境と状況をすべて把握したうえで別の自分になっていける、つまり、生成変化をすることができるのだ。それは、他者のために、あるいは、他者になるために思考をすることである。また、その身体は、ふだんは五感をもたらす器官に感覚をかぎられている私たちがその器官から解放され、いつもは見えない、感覚できない社会的関係や力などの経験を可能にしている超越論的領野を感覚できるようになる(「超越論的経験論」、「器官なき身体[xxix]」)。彼女の批評は、あらゆる《私》を取りまく環境や状況に対抗する方法をもたらす言表行為の身振りであり、しかも、すべての他者へと純粋に贈与されたものである。
フェリックス・ガタリ[xxx]は、このように言動と顔、言表行為と顔貌性から私たちの経験を可能にしている、社会的関係や力などを把握することを「ダイアグラム的顔貌性[visagéité diagrammatique[xxxi]]」と呼んでいる。そこで重要になるのが、名前、固有名である。ナンシー関は長年にわたってたくさんの芸能人についての文章と版画を作成したが、彼女の本はさまざまな場所と時間において働いている社会的関係や力、制度や仕組みの地図となっている。芸能人は、《私》に囚われて自分に都合のよい効果をねらって言表行為をし、中心的な顔をつねに欲しがり、自分の名前がさらに広まることを望んでいる。それにたいして、本に描かれた地図においてそれぞれの芸能人の固有名は、その場所と時における社会的関係や力、制度や仕組みを読者に把握させてくれる効果を持っている。ナンシー関がなんどもキムラタクヤをあつかったのは、もちろん彼がテレビの中心的な存在だったからであるが、それと同時に、そのつどの場所と時間において彼の言動と顔を可能にするものも変化していくからである。キムラタクヤという同じ固有名であっても、その「ダイアグラム的顔貌性」の効果はことなるのだ。だからこそ彼女は文章を書きつづけ、消しゴム版画を作成しつづけ、批評行為をつづける必要があったのである…そのつど変わる固有名の効果のために…「固有名-効果」、キムタク―効果、工藤静香-効果、浜崎あゆみ-効果、糸井重里-効果、石田純一-効果、ヒロミ-効果…本に描かれたそれらの効果は、まさに読者が本を手にとるそのとき効果をはっきするだろう…純粋な他者への願いそのものとして…そしてさいごに、読者自身の固有名の効果を把握させるのだ。ナンシー関は《私》から離れて解放されるために、自分が他者になるために、そして、他のあらゆる人も効果を用いて他者になれるために批評行為をするのであり、そこには何かの交換をもとめる自己はいっさい存在しない。贈与とはあくまで贈りものであり、《私》や自分の存在、自分に少しでも利益がある交換はあってはいけないのだ[xxxii]。彼女は対抗的な効果がある名を与えつづけた…あらゆる人が《私》から離れて他者になれるために…それは名の純粋贈与である。他人をだまさず本気であれば、本を手にとる身振りさえも倫理的な創造行為となるのだ。
——あなたにもポッジョとナンシー関のような、他者になるための身振りをする、ただ他者のためだけに思考と身体の潜勢的変化を引き出そうとする勇気と信頼がありますように。
参考文献
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ、『千のプラトー 資本主義と分裂症』、宇野邦一他訳、河出書房新社、2006年
Gilles Deleuze & Félix Guattari, Mille Plateaux – Capitalisme et schizophrénie 2, Les Éditions de Minuit, 1980.
ジル・ドゥルーズ&クレール・パルネ、『ディアローグ ドゥルーズの思想』、江川隆男・増田靖彦訳、河出文庫、2011年
Gilles Deleuze, Claire Parnet, Dialogues, Flammarion, 1996.
ジャック・デリダ、『名を救う 否定神学をめぐる複数の声』、小林康夫・西山雄二訳、未来社、2006年
スティーヴン・グリーンブラッド、『一四十七年、その一冊がすべてを変えた』、河野純治訳、柏書房、2012年
フェリックス・ガタリ、『機械状無意識 スギゾ分析』、法政大学出版局、1990年
Félix Guattari, L'inconscient machinique. Essais de schizo-analyse, Recherches, 1979.
小林秀雄、『モオツァルト・無常という事』、新潮文庫、2006年
ジャン=リュック・ナンシー、『神的な様々の場』、大西雅一郎訳、ちくま学芸文庫、2008年
ジャン=リュック・ナンシー&アルフォンソ・カリオラート、『神の身振り スピノザ『エチカ』における場について』、藤井千佳世・的場寿光訳、水声社、2013年
[i] ナンシー&カリオラート、pp.167-168 ここで言われる「根拠のない基礎」というのは、神=自然におけるスピノザの第三種認識(観念の観念)にたいして(いまだ基礎が残っているので)、それをひっくり返して、あらゆる思考と身体を限定するものに対抗する身体の身体、対抗的な身振りをする身体を創造することである。そのとき、思考と身体は無神論的な生成変化の「場」となるだろう。
[ii] グリーンブラッド、pp.66-67
[iii] 「とりあえず会おうよ」、「会えば分かるよ」と言わんばかりのこうした書籍・書店イベントは、当然のように、内容を理解することよりも会うこと自体が目的になっているので理解が進むことなどない。それは書き手と読み手による努力放棄の共犯関係であり、「出会い系詐欺」のようなものだ(手売りを特色とした、ある自称批評紙が典型。)。
[iv] 製本屋、製本職人[relieur]:かつて、本はまず印刷業者によって印刷されると簡易の表紙をつけた状態で売られていた。それを、買った人はルリユールに持っていき、好みの装幀をつけたのである。まさに、世界に一冊の本となるのだ。
[v] 「転換子」とも呼ばれる。例として、「私」、「彼」、「彼女」、「明日」、「今年」、「今」、「あれ」、「それ」などであり、具体的な情報が提示されないと何を指し示すのか把握できない語のこと。《私》であったとしても、さまざまな者が場合によって、この《私》の位置を占めることになる。《あれ》や《それ》であれば、人間以外にもあらゆる物がその位置を占めるだろう。言語そのものは、非人称的なものなのだ。
[vi] 「イタリア人たちは百年近くにわたって取りつかれたように本を探し続けていた。…人々が、誰にも読まれることなく、たいてい何世紀も埋もれていた古典作品を見つけようとした。こうして発見された文章は、書き写され、編集され、注釈を付され、熱心に交換された結果、発見者に名誉をもたらし、のちに『人文科学』と呼ばれる学問の基礎となった。[グリーンブラッド、p.34]」
[vii] 言語行為論では、事実確認的なものと、行為遂行的なものが区別される。「これは芸術だから」、「自分は作り手だから」は事実の確認ではなく、批判は許さないという他者を拒絶する行為遂行の効果を持つ。また、「他者」に関わる発話には、他者と言いつつ、自分の望む者以外はすべて排除する効果、他人が自分の望む「他者」になってほしいという期待を込めている場合がある。また、科学主義の「科学では~」という発話も、科学を悪用して発話を可能にさせる雰囲気を造る遂行遂行である(哲学者?による科学者の顔)。疑似科学の原因は、この態度を真似させた科学主義にこそある。
[viii] ジル・ドゥルーズはこの対抗的な身振りを、「情報に対抗するもの[contre-information]」と呼ぶ(「創造行為とは何か」)。ここでいう「対抗」は、具体的なそれぞれの情報に対してではなく、情報という概念がひとつの時代において思考と身体のあり方を条件づけているのだから、情報(顔貌性と言表)がもたらす環境と状況を見抜いて、いかにそこから新しい思考と身体を生みだすのかという問題意識を意味する。
[ix] レヴィナスの『全体性と無限』、『倫理と無限』を参照せよ。
[x] Deleuze & Claire Parnet, p.29/日本語では、p.42
[xi] Deleuze & Claire Parnet, p.30/日本語では、p.44
[xii] フランス語のcorpsはラテン語のcorpusが由来。もとはさまざまな物体と身体に関わる広範囲な意味を持つ。
[xiii] 『千のプラトー』の第7プラトー、「零年——顔貌性」を参照せよ。
[xiv] 「《私》は~である」という言表には、二種類の主体が関わる。この《私》は言表の主体、文章上の主語である。それに対して、言表行為の主体は文章を発話した人である。たとえば、「《私》はこりん星からやってきたりんごももか姫である」という発話において、地球人が言表行為の主体ならば、言表の主体である《私》とは一致せず偽となる。しかし、偽でもこの言表行為は不思議な人を装い自分だけの雰囲気=顔を作りだす効果を持つ。芸能界でこの手の言表行為を許される人が数年単位で入れ替わるのは、複雑な力関係のなかで顔を保持するのがいかに難しいかを表している(何度も顔を変える滝沢カレンは秀逸だ)。また、いまは「不倫の顔」は致命的であり、それ以上のスターの顔をすでに持っていてそれを跳ね返すか、世のなかの動きと力関係をうまく読み取って謝罪の言表行為をするしかない。とうぜん、それは謝罪(事実確認)ではなく、まさに哲学的な意味でパフォーマティヴなもの(行為遂行)である。
[xv] 「言表[énoncé]」:この概念は、人が言語についてあまりにも外側から「豊かに」語り過ぎたという問題意識から生まれた。言語について語るには、どうしても《私》の視点から文法、意味、構造などについて分析するしかない。それに対して、言表は「希少性」から定義され、ただその言葉がどのように社会のなかで機能し、時代と場所で機能が変遷してきたのかを調べて分析する。これまでネガティヴに捉えられてきた方法論を、ポジティヴ(肯定的・積極的に)に捉えるときに、言表の「実定性[positivité]」は見出される。
[xvi] 小林、p.21
[xvii] 小林秀雄は、作品自体やその内容ではなく、作者で作品の良し悪しを判断するサント=ブーヴから影響を受けている。二人に共通するのは、作品をすべて作品と読者の《私》に還元する態度であり、書かれている言葉、聞こえる音、描かれているものをすべて切り捨てる。サント=ブーヴは作家の生活態度から作品の良し悪しを判断することを行っていたが、それは、以下のような空虚なトートロジーに他人を巻き込むためである。:「《私》は作家の生活態度が善いならばその作品も良いと判断する。したがって、作家でもあった《私》の生活態度も善いのだから《私》の作品も良い。」。
[xviii] たとえば、高橋悠治の「小林秀雄「モオツァルト」読書ノート」(『高橋悠治 コレクション1970年代』所収)。
[xix] 高橋源一郎、『ジョン・レノン対火星人』参照。
[xx] 「あいちトリエンナーレ2019」には二つの問題があり、巷で言われるような政治・社会の問題は一切関係がない。⑴失敗の言い訳自体を作品にしたこと:失敗した後で言い訳をする、失敗する前に言い訳をする人間はいるが、失敗したときの言い訳それ自体を作品にする者はなかなかいない。批判にあらかじめ先回りして、これは政治と社会の問題を扱っているから「よい」とするのは、そもそも本当は観賞させる気など一切ない最悪の態度である。しかも、小学校の先生が言うような当たり前の説教を、他人からお金を取って見せるのだからさらにひどい。一歩踏み込んで、アーティストが本当に新しい考え方を提起すれば議論も進むのだが、そんな本当の責任を問われることはしないのだ。⑵芸術がコピー機にされた問題:すべてではないが、一部の作品は、誰もが言える政治・社会の問題をそのままで作品にしたものであった。自分で政治や社会の新しい理念を造ることもせず、この作者はいったい何をしているのか。ただのコピー機ではないか。さらに、実行者・擁護者・批判者の誰もが、ネット上にあった言葉をコピーするだけであった。誰でもできて、言えて、見えて、理解できることを使って自分を凄そうに見せようとする最低の時代の誕生である。この芸術祭が明らかにしたのは人間がいなくなり、コピー機だけになったということである。政治・社会の問題は一切関係がなく、実行者・擁護者・批判者の全員が同罪である。
[xxi] デリダ、p.73
[xxii] ナンシー、p.26
[xxiii] ナンシー、p.30
[xxiv] 小泉義之「脳のエクリチュール デリダとコネクショニズム」(『生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー』所収)、アレン・フランセス『〈正常〉を救え』、大野裕、『精神医療・診断の手引き』を参照せよ。
[xxv] 『旧約聖書』、第1章27節
[xxvi] 『旧約聖書』、第1章23節
[xxvii] ナンシー、p.30
[xxviii] Deleuze & Guattari, p.51 /日本語では、p.55
[xxix]「超越論的経験論[empirisme transcendantal]」 と「器官なき身体[corps sans organes]」:カントは経験を可能にしているものを、超越論的主観性として私たちの内に見出した。したがって、経験をそもそも可能にしているものなので、働きとしてあることは演繹、推論、思考できるが、それ自体を経験することはできない。カントの超越論的哲学は、さまざまな場面で人間の諸能力(感性、構想力、悟性、判断力、理性)がどのように働くかをつねに批判的に見出すものである。カントは人間の認識をつくる主観性のあり方を経験の条件としたが、現代の哲学は、時代や場所によってその条件が変わること、そして、それが人間の外にあることを明らかにした。「超越論的経験論」が問うのは、いかにしてその条件を感覚可能、あるいは、思考可能にするかということ、あるいは、その条件をいかにして変化させるのかということである。だからこそ、新たな概念を創造して、変化していく経験の条件を見出さなければならないのだ。「ダイアグラム的顔貌性」もまた、そのようなものである。また、マクルーハンの間違いは、さまざまな時代のメディアの条件によって器官が拡張されると考えたことであり、その思考はメディアが変われば、また器官のあり方も変わる「だろう」とする。つまり、メディアの媒介、それに頼ることでしかその思考と身体は成立しないのだ。「器官なき身体」は、ふだんは器官に感覚を限定されている私たちが、その環境と状況にある経験の条件を感覚可能にすることで、それを批判的に把握させるものを創造することで、それに対抗する思考と身体をそのつどの経験の条件から逆用して創造するのだ。媒介の思考(準-客体、ANT)の欺瞞は、すべてを変わる可能性があるだろうという、この「だろう」に他人を巻き込んでいくことである(ありもしない関係性の可能性への信仰)。
[xxx] ちなみに言っておくと、自分の分かりそうなところ、他人の目を引きそうなところだけとりあげて、フェリックス・ガタリの概念を用いて書いた文章がみられる。ガタリなしでも言えることしか書いておらず、その概念について自分なりの説明もない。おそらく「ガタリ」という名を出せば凄そうに見えて、分からない人を騙せるとでも思っているのだろうが、そういう態度は醜悪である。
[xxxi] Guattari, pp.109-115 /日本語では、pp.108-113 「ダイアグラム」については、発表された拙論を参照せよ。
[xxxii] ジャック・デリダの言うように、「贈与」は「交換」とは異なるものであり、少しでも何かかが返ってきたらそれは「贈与」ではない。それは経験的には不可能なものであり、超越論的に思考しなければ純粋な贈与は生まれないのだ。したがって、ほとんどの贈与論者が言うことは贈与にそもそもなっていない。それはただ耳あたりのよい言葉として他人を騙す発話の効果を持つだけである。特に、経験的な思考しかできない「真ん中」論者がこの言葉を連発するのは、何も起こっていないのに「ヴァーチャル化」などと言うのと同じように、ただの誤魔化しである。
©Hiroya Shimoyama. All rights reserved. 2025年2月16日
