石岡から日立、そして美浦へと黒坂命
黒坂命(くろさかのみこと)という人が
その昔、茨城県のあたりで
活躍していたと言われています。
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』
という書物にしか出てこない謎の人物。
奈良時代よりさらに前の人です。
その正体は、あまりよく分かっていない。
しかし、茨城県の各地に
黒坂命の事績が残っているんですよ。
断片的に。
そこで本記事ではこの謎多き黒坂命の事績を
3つの市町村を巡りつつ考えてみます。
◆石岡市(いしおかし)
◆日立市(ひたちし)
◆美浦村(みほむら)
場所を確認します。
石岡市は茨城県のほぼ中央部。
日立市は茨城県の北部、
海と山がある県北(けんぽく)の市です。
美浦村は霞ヶ浦の南岸にある村なので、
茨城県の南部ですね。
「中央、県北、県南…。
まさに茨城県を北上して
南に戻っていく感じですね!」
そう、黒坂命の事績が、まさに
昔の常陸国、今のほぼ茨城県域を
縦断する形で残っているんです。
では、どのように彼は活躍したのか?
奈良時代の『常陸国風土記』には
以下のような話が載っています。
石岡市の歴史案内の看板にも載っていました。
現代語訳&超訳で紹介しましょう。
(ここから超訳)
『古くから生きているおじいさんの話によると、
その昔、このあたりに
朝廷の命に従わない民たちがいたそうです。
その者たちは、山や野に穴を掘って住んでいた。
人がやって来ると隠れて、
いなくなると外に出て遊んでいました。
しかし、時には人の物を盗んだり
乱暴なことをしたりしました。
土地の人からとても嫌われていたのです。
そこで、黒坂命が朝廷から
彼らを退治するために派遣されてきました。
彼は、この民たちが穴から外に出ている間に
穴の出入り口を「茨の枝」で塞ぎ、
兵士たちに奇襲させました。
彼らはすぐ穴に逃げ帰りましたが、
あわてて進んだので茨が体中に突き刺さり、
傷ついたり亡くなったりしたそうです。
彼らは散り散りになり、
ついに土地からいなくなりました。
黒坂命が悪党を「茨」によって退治した。
このことから、このあたりの地名を
「茨城」という名称にしたそうです』
(超訳終わり)

…何と、茨城(いばらき)の地名は、
元をたどると、この黒坂命の
事績から生まれた、とも言われる。
「それ、本当ですか…?」
いえ、実は茨城という地名の
由来には諸説があります。
この「黒坂命の茨」説もあれば、
「小原(おばら)」という地名が
「いばら」になったという説もある。
他にも説があり明確ではありません。
常陸国風土記という書籍は
「朝廷が支配を正当化するためにつくらせた」
という一面がありますので、
割り引いて読まなければいけないでしょう。
そもそも、元から住んでいた民を
「山や野に穴を掘って住んでいた」として、
野蛮な悪党と表現すること自体が、何だか
西の朝廷勢力のプロパガンダ的な匂いがする。
まつろわぬ野蛮な民だった。だから
滅ぼされて、朝廷の支配下に入ったのだ…と。
そもそも『常陸国風土記』には
茨城の地名について2つの説が載っています。
1つは先ほど紹介した「茨で退治した」説。
もう1つは「彼らと戦うために
茨をもって城をつくった」説。
いずれにしても、黒坂命=正義、
元々住んでいた人たち=悪、とする説ですね。
歴史は勝者がつくる、とも言いますので、
奈良時代の国家形成期、
朝廷の支配が広がっていった際に
このような話が「創作された」のではないか…
とも思えます。
「茨城」という漢字だけを考えてみても、
茨=トゲのある草、と捉え、
城=戦いが絶えない場所、と考える時、
関西地方の都から見て「辺境」、東の果て、
陸奥の入口の「地方」というニュアンスの
ネーミングであるようにも思うのです。
では、2つ目の日立市の事績に行きましょう。
この黒坂命はさらに陸奥の
蝦夷征討に向けて北に進軍していったそうです。
その征討から帰ってきた途中で、
現在の日立市にある
「つのがれ山」という山で亡くなった。
そこでこの山に黒前神社をつくったので
「黒前山(くろさきのやま)」と
呼ぶようになったそうです。
さらに、平安時代には
源氏の八幡太郎義家がこの山に寄って、
岩を真っ二つに斬ったという伝説が生まれる。
これを聞いた江戸時代の徳川光圀、
いわゆる水戸黄門様がこの岩を
太刀割石(たちわれいし)と名付けて、
今では堅破山(たつわれさん)と言われます。
◆つのがれ山
◆黒坂命:黒前山(黒前神社)
◆源義家・徳川光圀:太刀割石・堅破山
「何だか武士の有名人まで出てきて、
由緒がありそうな山ですね…」
もともとこの山は巨石がごろごろあり
自然信仰・巨石信仰の山だったんです。
ただものではない山。
その由緒が黒坂命や源義家の
伝説とともに語られていき、
歴史と領内漫遊大好きの水戸黄門様が
ネーミングしていったのでしょう。


さて、最後の3つ目、県南の霞ヶ浦の南岸、
美浦村についてです。
何とここにはそのものずばり、
「黒坂命の古墳」がある。
江戸時代の国学者である
色川三中(いろかわみなか)の説では、
この古墳はまさに黒坂命の本人の
墓ではないか…?と推測されています。
『常陸国風土記』の記載によると、
黒坂命が黒前山(現堅破山)で病死した際、
霞ヶ浦の南岸にそのなきがらが
運ばれていったそうなんです。
その葬列の飾り物は誠に美しく、
赤や青の旗が入り乱れて輝いていた。
そこでこの葬列が通っていった国のことを
「幡垂(はたしで)の国」と呼び、
それが略されて「信太(しだ)の国」と
呼ばれるようになった…と。
確かに、旧常陸国の霞ヶ浦南岸のあたりは
「信太郡」と呼ばれていました。
昔は霞ヶ浦は海であり、
古い和歌に詠われた「信太の浮島」は
本当に海に浮かぶ島でした。
ちなみに今では干拓されて陸続きになり、
霞ヶ浦周辺の湿地帯はレンコン畑として
日本有数のレンコンの産地になっています。
そこに眠っている(であろう)黒坂命…。
信太と呼ばれる前、このあたりは
「日高見の国」と呼ばれていたそうです。
古墳は小高い丘になっており、
そこからは伸びやかな霞ヶ浦の風景が
一面に広がっています。
茨城から陸奥へと
霞ヶ浦、関東平野から北の山々で戦い、
その途中で亡くなった黒坂命は、
自身の眠る地をこの美浦の古墳のある地、
美しい水の景色が広がる地に
定めていたのかもしれません。
日高見とは、日の昇る国、日本そのもの、
あるいは朝廷の威光が
徐々に東に移るにつれて
その最前線を指した言葉だとも言われます。
※注:諸説あります。
常陸国(ひたちのくに)の名前も、
日高見道(ひたかみみち)がなまった
言葉ではないか、という説もある…。

最後にまとめます。
本記事では黒坂命の事績をたどりつつ、
茨城(いばらき)や信太(しだ)、
常陸(ひたち)の地名の由来などを
探っていきました。
謎多き黒坂命。
その事績は茨城県の各地に残り、語られ、
ひそかに今に生きる私たちにも
謎を投げかけ続けているのです。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければサポートいただけますと、とても嬉しいです。クリエイター活動のために使わせていただきます!