違う名前
酔った男が、違う女の名前を呼んだ。
私は黙っていた。
たぶん、普通の人なら、そこで何か言うのだと思う。
「誰、それ」とか。
「誰と間違えてるの」とか。
あるいは、笑ってごまかすとか。
私は何もしなかった。
問い詰めるほどのことでもないと思った。
そもそも、彼は彼ではない。
いや、彼ではあるのだけれど、私の彼ではない。
私のものでもないし、
私が彼の生活の全部を知る必要もない。
そういう関係なのだから。
それは最初から分かっていた。
分かっていたはずなのに、
その名前だけが、変に残った。
名前そのものが嫌だったわけじゃない。
知らない女の名前だったから嫌だったわけでもない。
ただ、その名前を彼が、
あまりにも自然に呼んだこと。
まるでそこに、その女がいることが、
彼の身体の中では何の不思議でもないみたいに。
ああ、と思った。
この人の中には、
私の知らない女たちが、ちゃんといるんだな。
当たり前のことだった。
当たり前すぎて、
普段は考えもしないことだった。
私は彼の人生の一部しか知らない。
彼も私の人生の一部しか知らない。
私たちは、お互いの都合のいいところだけを、
少しずつ持ち寄っている。
それでいいと思っていた。
独占したいわけじゃない。
約束が欲しいわけでもない。
彼の一番になりたいわけでもない。
そもそも、そんなことを言えるような関係ではない。
長く続けようとも思っていない。
長く続くとも思っていない。
なのに。
あの名前を聞いた瞬間、
ほんの少しだけ思った。
私も、この人にとっては、
そういう名前のひとつなんだろうな、と。
名前。
女の名前。
呼び間違えることのできる名前。
そのことが、なんだか可笑しかった。
私は、怒らなかったし、傷ついたとも思わなかった。
ただ、
少しだけ興味がなくなった。
人間って、こういうふうに冷めるのかもしれない。
嫌いになるわけでもない。
泣くわけでもない。
相手に何かを請求するわけでもない。
ただ、
昨日まであったものが、
ほんの少しだけどうでもよくなる。
たぶん私は、そのうち彼を切る。
突然に。
彼が私を切るより先に。
何の前触れもなく、
昨日まで普通に話していた女が、
ある日すっといなくなる。
彼からすれば、突然だろう。
こういうことは、ある日いきなり起こるのではなくて、
小さな違和感がいつまでもそこにいる。
靴の中に入った小さな石みたいに。
別に嫌いになったわけじゃない。
決定的な理由なんて、いらない。
むしろ、
決定的な理由があるほうが、
こういう関係ではおかしいのかもしれない。
そんなことを理由にするほど、
私は彼に執着してはいけない。
私はたぶん、
驚くほど普通の顔をして、「じゃあね」 と言うのだと思う。
