朱い夏の日 | #4 「でもきれいな心を持っている」

向日葵の花を昔から好きになれなかった。黄色い花弁も、中央にぎっしり種が詰まっているのも、大きく育ちすぎるところも。枯れたあと妖怪みたいに居座る姿も好きではなかった。もしかしたら自分が冬生まれということも少なからず関係があるのかもしれない。もともと夏という季節が好きではないのだ。夏を象徴するようなその花を好きになれないのも無理はなかった。
だから向日葵畑と書かれた立て札を見つけたときも特に心は引かれなかった。でも日も暮れはじめて今日はこれから向かう場所も思いつかなかったので、宿に向かう道すがらにあるのならば立ち寄ってみてもいいかもしれないと思った。
畑の前まで行くとあたり一面の向日葵に迎えられた。おそらく見頃のピークを過ぎた向日葵は頭を垂れていたが、花は2メートルを超えるほど大きく育っていた。畑の広さも僕が今まで見たどの向日葵畑より広大だった。野球場がふたつかみっつくらいは作れそうに思った。畑の入り口に「ひまわり村」と書かれたアーチがあって、アーチの先は迷路になっていた。
アーチを抜けて迷路に入ると、頭上の橙色の空は細く切り取られて巨大な向日葵の壁に閉じ込められた。頭を垂れた向日葵に見下ろされて、見上げると向日葵がじっとこちらの様子を睨んでいるように思えて気味が悪かった。遠くに聞こえる蝉の声がやけに煩くこだまして、夏そのものが僕に警笛を鳴らしているような気さえした。
迷路はことのほか本格的に設計されていて十字路や二手や三手に分かれた道を選んで進むと、行き止まりにぶつかったり、来た道をぐるっと何度も回らされる羽目にもなった。その度に何度も若い男女や子どもたちとすれ違って若干気まずい思いをさせられた。大人の男が一人で楽しむような場所ではなさそうだったし、早く迷路を抜けてしまおうと早足に進んだ。
迷路を進んだ先に少女が一人で踞っているのを見つけた。向日葵の影に紛れて膝を抱えた少女は、道端で見かける地蔵と似ていて一瞬だけ冷ややかな気持ちになった。目を凝らしてみると少女は赤の花柄のワンピースを身につけており、小学生かそれよりも下くらいに思えた。少女を横切って先に進みかけたところで、少女が不安げな表情をして僕の顔を覗き込んでいることに気が付く。僕は少女に声をかけた。
「こんにちは。一人なの?」
「うん」
少女は声をかけられていくらか警戒を含んだ返事をした。
「お父さんとお母さんは?」
「わかんない」
きっと迷子なのだろう。ここの迷路は無駄に本格的だったし、何よりも広すぎた。子どもが迷子になってしまうのも無理はなかった。日も落ちかかっていたし少女を一人残しておくわけにはいかなかった。
「一緒にお父さんとお母さんを探してみよう」
少女の目線までしゃがんで話しかけるも、少女の警戒心を解けないまま聞き取れないほどの小さな声で何かを言っていた。さて、どうしたものか。
「おじさん、ちいかわ好きなの?」
おじさん。反射的に質問より先におじさんという言葉に引っかかった。確かに自分の年齢はおじさんと呼ばれるに相応しい年齢に差し掛かっていたが、小柄な体格のせいもあって実年齢よりも下に見られることが多かった。おじさん、と呼ばれたことはこれまでに一度もなかった。髭のせいかもしれないと僕は思った。旅に出てから一度も髭を剃っていない。そこまで髭が濃いわけではなかったけれど、髭面のおじさんに声をかけられたら少女が警戒するのも無理がないように思った。それにこの年代の子どもにとっては、髭があろうとなかろうと僕は立派なおじさんなのだろう。
「ティーシャツの絵」
少女は僕のティーシャツを指さして言った。
「ああ、これはね、コジコジだよ。ちいかわじゃないんだ」
僕はさくらももこの漫画に登場するコジコジの絵がプリントされたティーシャツを着ていた。実家に置いてあったそのティーシャツを今ではほとんど着ていなかったけど、室内着として旅の荷物に加えていた。そして昼に汗で濡れたシャツを脱いで、向日葵畑に来る前にコジコジティーシャツに着替えていた。言われてみればコジコジはちいかわと似ていなくもない。
「それ、かわいい」
「君が生まれるずっと前のキャラクターだけどね」
「どんなキャラなの?」
「そうだな。コジコジは悪い子じゃないんだけど、たまに口が悪くなるしなまけ者かな。でもきれいな心を持っている」
「ちいかわにもそんな子がいるよ」
僕らはコジコジとちいかわのおかげでいくらか打ち解けることができた。もう少し進むと展望台があるはずだからそこまで行ってみようと少女に言うと、少女は立ち上がって僕の隣を歩いた。
「おじさんも迷子なの?」
「僕は迷子じゃないよ」
「でも一人なんでしょ?」
「ずっと一人だから考えたことがなかったけど、たぶん迷子じゃないと思う」
「ふうん」
それから僕たちは二人で何度か迷路の行き止まりにぶつかり、同じところをぐるぐる回り、ようやく展望台に着いたときには太陽がちょうど地平線に落ちるころだった。いつの間にか少女の小さな手は僕の手を握っていた。少女に引かれて鉄パイプで簡易的に作られた展望台に登ると、女子高生や若い女性たちが携帯電話で向日葵畑を照らす夕焼けを撮影していた。
僕は少女に手を引かれたまま、そこにいた女性たちをかき分けて展望台の先にある夕焼けを眺めた。きれい、と少女はひと言言った。黄昏時に浮かぶ向日葵は夕日に照らされて黄金色の花弁を光らせていた。
「向日葵のことをきれいだと思ったのは初めてだよ」
僕は少女に言った。
「わたしはひまわりって好き。見ていると元気がでない?」
そうだね、と僕は返事をした。周りの何人かの女性はこちらにひと目向けたが、もしかしたら僕らは親子に見えたかもしれない。僕と少女の年齢差を考えると自分の子どもに見られていてもおかしくはなかった。
「お父さんとお母さんはいない?」
少女に訊いてみると、周りを見まわしてから頷いた。少女の表情はまるでさっきまで自分が迷子になっていたことを忘れていたような素朴なものから、再び不安げなものに戻っていった。
「入り口まで戻ってみよう。もしかしたらそっちにいるかもしれない」
展望台を降りると、「出口近道はこちら」と書かれた看板があった。案内に従って進むと畑の外周に出ることができ、外回りで一直線に入り口まで戻ることができた。
「ひまわり村」のアーチのところに女性が立っていた。少女は「ママ!」と大きな声で言いながら女性のところまで駆けて行った。
「もう、どこにいたのよ。心配したじゃない」
ごめんなさいと少女は俯きながら謝っていた。叱責されていることと母親を見つけられた安堵の気持ちで少女は今にも泣きそうな声になっていた。パパは? と少女が母親に尋ねると、父親はまだ迷路の中で少女を探しているようだった。
「見つかってよかった」と僕は少女と母親に言った。
「ここまで連れてきてくれたんですか? 本当にご面倒かけました」
母親は僕に何度も頭を下げて感謝を伝えた。「そんなに謝らないでください。楽しかったです」僕は本心からそう答えた。
「ねえ、また会える?」
少女は僕の近くに来てから寂しそうな表情で言った。
「どうだろう。僕は遠くに住んでるから」
そう返事をすると、少女はまた不安げな顔をみせた。
「僕は東京って街に住んでいるから、東京に来たときはまた一緒に遊ぼう」
「ディズニーランドがあるところ?」
ディズニーランドは千葉だけど、と思ったがそれは言わなかった。
「またね、お兄さん」
少女が言った。
「またね」
僕は言った。
僕は少女と母親と別れ、車に乗って向日葵畑をあとにした。車で向日葵畑の入り口の前を走るときに窓を開けて二人に手を振った。
「また遊ぼうねー!」
少女の声が無邪気に響いた。もしかしたら向日葵畑の奥にいる父親もその声を聞くことができたかもしれない。
少女はいつの間にか、僕のことをおじさんからお兄さんと呼んでいたことに車の中で気がついて頬が緩んだ。まったく。子どもは調子が良いのだ。つい数分前までおじさんと呼んでいたくせに。
しかし幼い子どもたちが感じている時間は、きっと僕らの何倍にも相当する時間なのだ。迷子になって僕と歩いた数分の出来ごとは、少女の中ではきっと長い間過ごしたものとして認識されているのかもしれない。そして近い将来に少女は僕のことも忘れてしまう。幼き日のひと夏の思い出として。
僕は車を運転しながら自分の顔を撫でてみた。それから頬の肉を軽くつまんだり、顎の髭を触った。ルームミラーで自分の顔を角度を変えながら何度か点検もした。
僕はまだおじさんじゃない、お兄さんだ。たぶん。
『朱い夏の日』
目次
|はじめに「連載始めました。」
|#1 「帰る場所」
|#2 「手の中の機械が自分の手足のように思えること」
|#3 「深い死の影を含んだ夜の森」
|#4 「でもきれいな心を持っている」
|#5 「何百年後も生き続けていくもの」
|#6 「と、羊男は考える」
※不定期更新です。
