🌸はなもも 第二話 周防の山
鬼火は止まらない。
それが騎馬隊の掟だった。
宵の闇のなか。
三十騎の馬が山道へ入る。

先頭を走る隊長が、腰に下げた鉄のヌンチャクを高く掲げた。
カン。
乾いた音が響く。
それは合図だった。
三十騎は一斉に前傾した。

馬の首筋へ身体を預けるような姿勢。
鬼火騎馬隊ではそれを「乗艇姿勢」と呼んでいた。
速さのため。
風を裂くため。
そして長距離を駆け抜けるため。
若き騎馬隊は皆、青年期に馬へ括り付けられ、この姿勢のまま二日かかる道を日帰りで往復する試練を課される。
隊長の合図なしに起き上がることは許されない。
止まることも許されない。
脱落した者は置いていかれる。
それが鬼火だった。
それが吉備國三十騎馬隊だった。
隊員たちの腰には、備前焼で作られた小さな灯籠が揺れていた。
巾着ほどの大きさしかない。
しかし中の火は風に消えない。
闇のなか。
三十の灯が揺れる。
まるで山々を漂う鬼火だった。
⸻
鬼火騎馬隊は周防の山へ入った。
山へ入った瞬間だった。
空気が変わる。
木々の間。
岩陰。
獣とは違う気配。
誰かに見られている。
三十騎の誰もがそれを感じていた。
副隊長が静かに口を開く。
「……山族です」
隊長が頷く。
副隊長は前を見たまま続けた。
「私が長老のもとへ先導いたします」
アサヒメも頷く。
「お願いします」
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しばらく進む。
やがて森が開けた。
巨大な焚火。
その周囲には獣の皮をまとった者たちが立っていた。
狼。
猪。
鹿。
それぞれが己の仕留めた獣を誇るように身にまとっている。
そして中央。
ひときわ大きな影。
老いた男。
肩には巨大な熊の毛皮。
周防の山で最も恐れられた熊だと、一目でわかる。
その毛皮は長年背負われ続け、もはや長老自身の一部となっていた。
⸻
副隊長が深く頭を下げた。
「吉備國の者です」
焚火が揺れる。
「今夜のうちに西へ向かいたいのです」
長老は黙っている。
副隊長は続けた。
「周防の山を通していただけませんか」

⸻
長老はゆっくりアサヒメを見る。
「吉備國か」
熊の毛皮が揺れる。
「噂には聞いたことがある」
焚火の向こうで山族たちがざわめく。
「鉄の國だな」
長老の目が細くなる。
「輝きの國がとうとう来たか」
しばし沈黙。
「逃げているのか?」
⸻
アサヒメは真っ直ぐ答えた。
「はい」
風が吹く。
「輝きの國が来ました」
長老は黙って聞いている。
「私たちは國を移動させたいのです」
「山族の皆さまと争うつもりはありません」
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長老は鼻を鳴らした。
「お前たちを逃せば、輝きの國の者たちが追ってくるぞ」
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アサヒメは静かだった。
「そうでしょう」
そして遠く東を見る。
「義王軍は必ず追ってきます」
山族たちが顔を見合わせる。
アサヒメは続けた。
「ですが私たちを差し出したところで、次に奪われるのは山族の民です」
山が静まり返った。
焚火だけが音を立てる。
長老は何も言わない。
ただ熊の毛皮を握りしめていた。
⸻
やがて。
長い沈黙のあと。
長老が口を開いた。
「……良かろう」
山族たちがざわめく。
「ただし、我らは手を貸さん」
長老は周囲の闇を見渡す。
「自力で越えろ」
そして不敵に笑った。
「周防の夜の山は危険だぞ」
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アサヒメは深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉」
鬼火が揺れる。
「我々吉備國はこれで周防を越えることができます」
隊長へ目配せする。
騎馬隊の者たちが荷を運んできた。
長老の前へ置かれる。
鉄で作られた巨大な金棒だった。
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アサヒメは微笑む。
「お礼です」
山族たちの目が見開かれる。
「山を砕き」
「道を作り」
「國を豊かにしてください」

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長老はゆっくり金棒へ手を伸ばした。
その目には先ほどまでとは違う光が宿っていた。
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鬼火騎馬隊は再び山へ消えた。
備前焼の灯籠が闇へ流れていく。
三十の鬼火。
未来を運ぶ火だった。
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数時間後。
東の空が赤く染まる。
無数の松明。
義王軍だった。

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義王は馬上から長老を見下ろした。
「山族の長か」
長老は答えない。
義王も気にしない。
その視線はすでに山の奥へ向いている。
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「吉備の者たちが通ったな」
「通った」
「どちらへ向かった」
長老は笑った。
「聞いてどうする」
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「追う」
義王は静かに答えた。
「王を討つ」
「國を手に入れる」
「鉄も手に入れる」
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長老はしばらく義王を見つめた。
やがて言う。
「山は越えてよい」
義王軍の兵たちが安堵する。
しかし。
長老は続けた。
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「二十四人置いていけ」
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兵たちが顔を見合わせる。
義王は初めて長老へ視線を戻した。
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「なぜだ」
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「周防の山を通る対価だ」
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沈黙。
そして。
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「良かろう」
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一瞬だった。
兵たちの顔色が変わる。
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「源助」
「辰三」
「伊助」
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次々と名が呼ばれる。
二十四人。
誰もが戦える兵だった。

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だが義王は振り返らない。
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「置いていけ」
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それだけだった。
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長老は静かに義王を見た。
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「お前は仲間を軽いものだと思っている」
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義王は答える。
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「目的の方が重い」
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長老は冷たく笑った。
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「そうか」
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そして命じる。
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「武器を取り上げろ」
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二十四人の兵から刀が奪われる。
弓が奪われる。
槍が奪われる。
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長老は立ち上がった。
巨大な熊の毛皮が揺れる。
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「夜明けまで生き残れ」
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「それが周防の掟だ」
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二十四人は闇の山へ放たれた。
武器も持たず。
灯も持たず。
ただ身ひとつで。
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義王は振り返らない。
ただ西を見ていた。
鬼火が消えた方角を。
長老だけが呟く。
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「娘は國を背負っていた」
「お前は野心を背負っている」
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焚火が揺れる。
山族の若者が長老へ尋ねた。
「なぜ二十四人だったのですか」
長老はしばらく答えなかった。
やがて周防の山を見上げる。
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「昔」
「大雪が降った」
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風が木々を鳴らす。
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「周防の山で冬を越せず死んだ者は二十四人だった」
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山族たちは黙る。
その名を皆知っていた。
兄を失った者。
友を失った者。
父を失った者。
誰も忘れていない。
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長老は静かに続ける。
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「山は命を奪う」
「だが山は命を選ぶ」
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そして武器を持たぬ二十四人が消えた闇を見る。
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「夜明けまで生き残れ」
「それが周防の掟だ」
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焚火が揺れる。
長老は遠く西を見る。
鬼火の灯は、もう見えなかった。
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「さて」
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「どちらが西へ辿り着くかな」

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周防の山は何も答えなかった。
ただ静かに。
未来を背負う者たちを見つめていた。🌙🔥
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