ヘルマンヘッセ『シッダールタ』に学ぶ~陰陽の統合*人生が動き出す「わたしらしく在るための魂の旅」
ヘルマンヘッセ『シッダールタ』
ヘルマンヘッセに『シッダールタ』という名著があるのをご存じですか?
ヘルマンヘッセと言えば
とんでもなく暗い『車輪の下』の方が有名ですね。
(わたしは暗すぎて読めていないんだけど)
開運えみこ的な一押しは
『シッダールタ』です( -`д-´)
これは大きな意味での「自分自身へ帰る旅」の話
大いなる流れの中でただ「自分」を生きる。
自分の中の「陰と陽の統合」した時に、
「大いなる中の自分で在ることに気付く」物語。
実際の「仏陀」の生い立ちやストーリーではなく
あくまでもヘルマンヘッセの創作。
けれども彼はインド哲学に造詣が深いので
ちょっと仏教っぽくて
日本人にも「なんかわかる~」な感じ。
スピ的に解釈すれば
人が人として肉体を持ってこの世で生きる中で
大いなるものの中で自分らしく自分を生きる、
それって、実はキラキラしい、たいそうな話じゃなくて、
結構地味なんだよね、みたいな話。
世の中にある「陰と陽」を体験しつつ
その中で「清濁併せ吞む(陰陽の統合)」として
大いなるものの中で自分の中の陰陽を統合し
「ただ自分として生きる」に辿り着く
お話しの中での陰と陽は
・修行と享楽
・男と女
・お金儲けと清貧
・親と子
・生と死
そして
持つ者(と本人が思って居るだけで実は持っていない)と
持たざる者(本人が思って居るだけで、すべて持っている)
「幸せ」や悟りとは結局何なのか?
「自分らしく生きる」こととは結局何なのか?
「人」が「自分らしさ」と「大いなるもの」に気付くまで
ということが、シッダールタという名の
男性の目線で書かれている物語です。
人生の真理を探し求め、彷徨った結果
「なんだ、こんなところに・・」みたいなww
そんな男性の人生のお話。
【著者ヘルマンヘッセ】
著者のヘルマン・ヘッセは、
1877年にドイツ南西部で生まれた小説家・詩人。
20世紀前半のドイツ文学を代表する作家。
若いころ神学校やギムナジウムに入るも中退し、
書店員などの仕事をしながら独学で文学を学ぶ。
まあ、今でいう「フリーター」ですよね。
1904年に『郷愁』で注目を集め、
『車輪の下』で一躍人気作家になる。
その後も『春の嵐』『デミアン』『シッダールタ』など、
個人の内面や精神的成長を深く描く作品を発表した。
第一次世界大戦では平和主義の立場を明確にし、
戦争や近代文明への批判を作品に反映させ
第二次世界大戦期にはナチス政権から弾圧を受け
スイスに逃れ執筆を続ける。
1946年にはノーベル文学賞とゲーテ賞を受賞し、
1962年にスイスで亡くなる。
意外と最近の人です。
ヘッセはインド旅行の折に、東洋思想に深く傾きました。
その後、戦争と社会不安のなかで、
「善悪」「理性と感情」といった
二元論的な西洋的思考に限界を感じ、
より全体的で統合的な東洋的世界観になっていきます。
『シッダールタ』はその「東洋的世界観」の
集大成ともいえるお話しです。
【この本との出会い】
この本との出会いは小学校4年くらい。
なんで小学生がそんな話に手を出したのは
ちょっと覚えて無いんだけど、出会いはそこ。
家に「仏教小話」みたいな本がいっぱいあったので
(クモの糸とか牛車の話しとか)
「あ、仏さまの話しだ」くらいな感じに
手に取ったんだと思う。
読んだら「仏さま」が人間臭くてびっくりしたけど
その後もずーーっと持っていて
新興宗教への入信や結婚、引っ越しで捨ててしまったのを
離婚した20年前に買い直した。
その後は回想録的の『幸福論』。
これも買い直していまだに持っている。
※ちなみにわたしには
高橋健二氏の訳が一番しっくりくる。
良い本は何百回読んでも気付きがある。
毎年数回、歩いて菩提寺に行くのだけど
その途中に川があって、川沿いを歩くんだよね
そうすると
「ああ、川が全てを教えてくれるんだっけ」となって
毎年何度か読み返すという。
持っている本の中ではかなり読み直してる1冊
【シッダールタ・あらずじ】
まあ、出来ればご自分で読んで感じて欲しいのですが
あらすじはこちら
主人公の名はシッダールタ
恵まれた環境と高い知性を持ちながらも満たされず、
まずは悟りを求めてバラモン僧の修行の旅に出る。
苦行や修行に身を置くものの答えは見つからず、
やがて「カマーラ」という高級娼婦のもとで世俗に戻り、
愛や欲望、お金、社会的成功といった現実を体験していく。
コンサルタントみたいな仕事をしていくんだけれど
しかしその享楽の中でも心の違和感がむくむくと起き上がり
「コレじゃない!」と「ハッ」となり・・・
彼はそのまま、手にした地位もお金も愛人も
すべて置き去りにしてそこから去って行く。
その俗世でしたことを振り返って
「悟りの道」から外れてしまった自分を恥じて
何やってんだオレは・・・
消えてなくなりたい・・・
もう死んでしまおうか・・・
そう思い詰めたその先に出会う「川」。
川の「渡し守」のヴァズテーバ。
そこで修行時代の人と会ったりいろいろあるんだけど
「ヴァステーバ」と「川」の存在が、
彼の「心の在り方」を大きく変えていきます。
その変化の最中に
自分の子どもかもしれない少年との出会い
受け入れ、拒絶され、親としての苦悩も知る
そして
流れ続ける川の姿から、人生の本質――
すべては移り変わりながらも一つであるという真理に気付く。
この物語は、正しさや知識を教えてくれるものでは無いし
こちらが正しいということを押し付けるモノでも無い。
「人がこの世で生きるとは?」
「本当の幸せとはどうゆうことか?」を
投げかける名著だと思う
悟りの初手はやらかし
この本はある意味
生きるっていろいろやらかすよね?
ということも書かれている。
その上で、「悟り」というのは案外地味なものなのよ・・・
みたいな物語だ。
実際に、人生って
恥ずかしくて忘れたいような出来事も起こるし
「馬鹿なの?」「やっちまった」と思うようなことをすることだってある
でもやらかしからの気付きで、
人生が大いに変わったりもするし、
地味なモノコトの中に奥深さに気付いたり。
悟りへの初手はあんがい「しょーもない事」だったりする。
この本の主人公のシッダールタは、
最初から悟った特別な存在としては書かれていない。
どちらかというと「頭良いけど馬鹿」的な?
世間知らずのお坊ちゃま?みたいな。
アレもやってみて
コレもやってみて
なんかどれもしっくりこない・・・
どうしたらいいんだろう・・・・みたいな
そんな人は是非『シッダールタ』を読んで欲しい
満たされない気持ち
シッダールタは、裕福なお家に生まれ、
知識・教養・瞑想、すべてにおいて優秀。
周りから見れば「すでに成功している人」だし
「生まれ持って恵まれている人」だ。
でも本人は、まったく満たされていない。
なぜかといえば
「悟った人≒すごい何者かに成りたい」と
思ってしまったからではないかな?
そしてそのために
最初は「修行すること」が大切だと修行に走る。
修行を「経験」に置き換えても良い。
経験というのは、
旅行に行くとか、何かを「体験」するだけではない。
特に「魂の経験値」って行動だけではない。
貧乏を経験してみたい
愛されない寂しさを経験したい
愛し愛される関係を経験してみたい
無一文から成り上がることを経験してみたい
それに付随した「悩み・苦悩」も経験だ
お金持ちにはお金持ちの目線と悩みがあるし
無い人には無い人なりの目線と悩みがある。
外側から見てどんなに成功した人でも
内側の「真なる満足感」がなければ不幸な人だ。
お金が無くても
仕事をし、パートナーや子どもと
日々穏やかに暮らせることが幸せであるなら、
「お金」や世の中で言われる「成功」とはなんら関係なく
その人は幸せな人だし
「悟り」というものへの道へ続くものだと思う。
『シッダールタ』にはそのことが書かれている。
・知識はある
・正しいこともしている
・でも現実が動かない停滞感
・幸せ感や充足感が感じられない
この状態の人、今の時代には多いのではないだろか?
まさに、魂の望みでは無い状態。
「わたしらしく在れていない」状態だ。
すべてを捨てる(リセット)
シッダールタは「すべてを捨てる」という行動をする
しかも3回もww
一度目は「実家を去り修行僧」になる時
2度目は「修行を捨て俗世」で生きる時
3度目は「俗世での成功を捨てた」時
そして、川に辿り着く。
これは「環境のリセット」とも言える。
今に当てはめて分かりやすく言えば
「転職」や「離婚」みたいなこと。
誰かとの別れ
今まで積み上げてきた
・肩書き
・人間関係
・価値観
これを一度手放すことで、
エネルギーの滞りが一気に動き始める事がある。
(いったん全てが止まる場合もあるんだけど)
転職で自分の望む仕事に付けたとか
離婚で一時は落ち込んでも大復活するとか
割と良く聞く話ではある
価値観を変える
「環境のリセット」でもあるし、視点を変えることでもあるし
価値観を変えることでもある
一つの価値観にしばられていると全体像が見えない。
シッダールタで言えば
*修行僧の苦行
*俗世での成功や快楽
コレも陰陽に当てはまる
今的に言うと「山の修行と里の修行」かなと。
苦行だけでは悟れない=山の修行だけではダメ
俗世の成功=里の修行だけでもダメ
陰と陽の両方の折り合いをつけ、
自分自身の本当に望む道を「日々の生活の中」で進めていく
陰陽の統合とは
「清濁併せ吞む」ということ
善悪や長所短所を区別して排除しない、
良い事も悪い事もまとめて受け入れる、
善人も悪人も分け隔てなく受け入れる、
きれい事だけでなく、現実の汚さも引き受ける、
自分の中にも、他人の中にも
良い面もあり、悪い面もある
コチラから見れば良い人でも
逆から見れば悪い人だったりする
それはつまり、
世の中で言う「正しさ」云々では無いということ
ひとつの価値観に縛られることは
本質(大いなるもの)の目線では無いということだ。
「正しさ」では悟れない
「正しさ」を極めても悟れないというところも書かれている。
シッダールタは苦行≒山の修行僧を最初にしている。
禁欲・断食・修行などなど。
いわゆる「ストイックな山の行」。
それが「正しい道だ」と思ってやるわけなんだけど
「これ、なんか違くね?」ってなります。
開運えみこ的に言うと、「山の修行」は
・我慢
・努力
・ストイック
・根性論 のことが多い
冬の滝行とかまさにこれ。
最近はエンタメ的に
「皆様の開運祈願に」と行う人も居るけど
まさにエンタメだと思う。
本人の説得力や波動が上がるから
それはそれで良いっちゃ良い。
正しさというのは怖いもので
「コレが正しい」という思いは
「ソレは正しくない」を生む可能性を秘めている
世の中に「コレだけが正しい」ものなんて
たいしてありはしない。
人によっては滝行もピタッとはまるし、
人によっては人の中でワチャワチャすることがハマる人も居る。
大事なのは「わたしはこうなんだ」というものだ。
自分の中の「なんか違くね?」とか
「うわ~これやってみたい」というのを
無視しないということの方が必要なことだ。
それは「正しい」とか「正しくない」とかじゃない
欲にまみれる
バラモンの修行苦行に違和感を感じたシッダールタは
その後は真逆へ振り切れる。
・恋愛(性欲)
・お金・ビジネス
・快楽やお酒
世俗の世界にどっぷり浸かる。
そして「子を作る」。
・お金のエネルギー
・人間関係の執着
・快楽の中毒性
これらは「体感」しないと、本当の意味で手放せない。
体験も体感もしない人の言うことって
説得力無いでしょ?
そして最後の方に出て来るんだけど
彼はここで「高級娼婦カマーラ」との間の
たぶん自分の子どもとの確執も体験する。
どん底で見つけたもの
世俗の快楽に溺れてはみたものの
シッダールタはここでも「違和感」を感じ
結局すべてを捨て去ってしまう。
ふらふらと川のほとりに辿り着き
「もう終わりにしよう」と思う。
でも、その瞬間に
「オーム(宇宙の響き)」を思い出し、踏みとどまる。
人は「完全に詰んだとき」には、次の扉が開く、というヤツ。
火事場の馬鹿力とか
窮鼠猫を嚙むとか言われる
「このままではもうダメだ」
「この先に何もない」
「どうしたって良くなると思えない」
そう思った時、「天啓」的なものに出会う。
良く聞くのが「交通事故で九死に一生」の人は
大成しやすかったり、
出産で命を落としかえけると
スピリチュアル能力が開いたり、とか。
貯金が2500円になってからの復活・・とか
良く聞くよね。
だからといって、
「人生が詰む」のが良いと言っているわけじゃない。
人によってはそうゆう場合に「何か開く」場合もあるし
人によっては「日々淡々と暮らす中で」芽生えることもある。
「日々淡々と暮らす中で芽生えた人」は
「こんな時にこんなふうになってーー!」とか
声高に言わないで幸せに暮らしているだけだ。
なんなら「起業」とか「成功」なんていう言葉が
安っぽく独り歩きしているから
派手さが必要なんじゃないか?とか思う。
マーケティング的には
「ディズニーモデル」と言われる成功ストーリーで
これって結局「見せ方」の一つなだけで
実際は普通の人の方が幸せだったりする
命として日々生きること
最終的にシッダールタは
川のそばで「ヴァステーバ」という渡し守の男性と
静かに暮らし始める。
なにをするのかというと
ただただ「川の流れを観る」だけだ
そして向こう岸に渡りたい人が来た時には
渡し船を出す。
これがつまり
・頑張らない
・コントロールしない
・評価しない
・過剰にならない
根性論でも頑張るでも無い
ただ、命を命として「生きること」を生きる
日々、自分の出来ることをして過ごす、と言うこと。
そこでその淡々とした日々の中でシッダールタは気づく。
すべては同時に存在している(陰陽統合)ということに。
・成功も失敗も
・善も悪も
・過去も未来も
・修行も快楽も
全部、同じ流れの中にあるということに。
わたしは常々言っているけれど
「普通の主婦」の方が「悟り」に近い人たちだ。
何者かに成ろうとしない。
成績を上げなければならないとかもない。
子を産み・育てる
夫が、娘が、息子が
「がんばれるため」「幸せになるため」に自分も動く
年老いた自分の親や舅姑が
心穏やかに最後の時を過ごす
それを差配するのは「その家の主婦」
けして
ビジネスで大成功した人でも無いし
世界を股にかけた人たちでも無い
それでも、
未来の世界に貢献(子育て)しているし
地球のマイナスのカルマを減らしている。
親や舅姑の最後のわがままを聞くとか
心残りを解消していくとか。
その生活は「夫」ありきで成り立つものでもあるから
「普通の人」の方が「悟り」に近いとも言える
日々、生きることを生きる。
それがどれほどに素晴らしいことなのか。
わたし達は「世間の価値観」に踊らされることなく
それに気が付くべきだと思う。
陰陽とは
陰陽とは何か(スピリチュアル的解釈)
陰と陽というと
・良い/悪い
・光/闇
・正しい/間違い
と分けるのが普通だし、
三次元的解釈ではその通りなんだけど
本質は違う
陽(イザナミ・男性性)
・実現化
・成長
・根性
陰(イザナミ・女性性)
・イメージ
・停滞
・休息
どちらかを排除したり、偏ったりすれば
結局人生は歪む
運が止まる人の共通点としては
・いい人でいようとする
・ネガティブを否定する
・スピリチュアルだけに寄る
これ全部は 「陽に偏りすぎ」だし
逆に
・被害者意識から抜け出せない
・卑屈
・感情優先
これは「陰に偏りすぎ」
どちらからに偏っても人生は上手く行かないし
偏っている自分を客観的に見れなけば運は詰まる。
運が開く人の特徴としては
「どちらもOK」で
「自分の出来なさ具合、自分の出来る具合」を
自覚できている人だ。
人間は
欲もあるし、迷いもあるし、弱さもある生き物。
大事なのはそれを否定しないことだし
そんな自分を愛しむことだ。
人それぞれ、
「ドコが出来ていないか」というのは違うし
「ドコが見えていないか」も違う、
ここが重要なことで
いきなり「すべてを受け入れる」、
なんてことは出来っこない。
この作品のシッダールタも
①修行(陽)
②堕落(陰)
を両方やりきって
③「川で統合」に至る。
つまり何が言いたのかというと
「苦しむことも必要」だし
「偏ることも必要」だということだ。
悟りとは
最終的にシッダールタが到達したのは
あるものをあるがままにすべて受け入れる境地、だ
・苦しみもOKだし
・欲もOKだし
・迷いもOKだし
・子どものための悩みもそのまま、あるがまま
様々な出来事を体験したからこそ、
すべてを否定せずに受け入れられるようになったのだと思う。
スピリチュアル的なことは置いといて、
わたし達の人生もそうだと思う
こうじゃない、ああじゃない、と悩んで迷って。
順風満帆な人生の中で
「あれ?このままで良いのかな?」となったり。
そこで一念発起するのも良いし
その中で過ごすのも良い。
正解なんて何一つないということは
不正解も何一つとして無いのだから。
わたし達はとにかく
「正解・不正解」を決めたくなりがちだけど
「それもありだよね」ということだ
まとめ
この物語が教えているのは
「正しさ」に囚われない、ということだと思う。
正しい生き方では、運は開かない
正しさだけでは真理には辿り着かない、
正しさとは人の数だけ主張があるということ。
・苦しむこと
・迷うこと
・間違えること
この「マイナス」と言われる部分が
すべて「開運プロセス」だし、真理への道。
そして最後にたどり着くのは
だれもが「自分で在ること」だ。
2026年は最初から、時代がぐわんぐわん大きく揺れていて
戦争、経済不安、情報の氾濫。
まさに「人の言う正しさ」が通用しない世界になってきた。
こういう時代に必要なのは、
「どちらが正しいか」ではなく
自分の中に受け入れ「わたしはこう思う」という力だ。
この本は、その本質を描いている。
ヘルマンヘッセもきっと「わかってる人」だったのだろう
実際この作品では
精神と物質、悟りと世俗は
対立ではなく補完関係として描かれている
「良い」「悪い」を超えた世界
シッダールタの最後の気づきは
・欲望も
・苦しみも
・愛も
・愚かさも
すべてが「一つ」である、というところだ。
川の流れの中でシッダールタは
あらゆる「道(オーム)」の声を聞く。
善も悪も、喜びも悲しみも
すべてが一つの音として響いている。
すべてが、自分の中の陰陽の統合なのだと。
『シッダールタ』で象徴的なのが「川」
川は
・流れている
・止まらない
・すべてを含む
人生も同じ。
良いことも悪いことも全部流れている
だからこそ
抗うのではなく
乗る
これが「開運の本質」なのだと思う。
「運を育てる」という生き方
わたしは、「運を育てる専門家」と名乗っています。
運命は自分で選び、
その「運」は自分で育てる。
運を育てる方法は
ドラマティックな奇跡でも、瞬間的な魔法でもない。
毎日の暮らしの中で、
息をするように少しずつ整えていくもの。
本当に地味で、目立たなくて、
でも確実にあなたの中で芽が育っていく。
「運命」をどう選んで
「運」をどう育てるのかというのは
結局は「知識」と「積み重ね」。
自分を知り、学び続け、行動を重ねることが大事
開運えみこの「開運法」とは、まさにそういうことです。
誰かに「運命」を決められる人生ではなく、
誰かとの「ご縁」に振り回される生き方でもなく、
日常の中のほんの小さな一コマに、
「幸せ」を見出す力を育てることからスタート。
晴れた空の色、
雨上がりのアスファルト、
朝のコーヒーの香り、
ふと届いた優しい言葉……。
それらを「ありがたい」と気づけた瞬間、
運は静かにあなたの中で芽吹きます。
「運を育てる」とは、奇跡を待つことではなく、
毎日の中で幸せを見抜く眼差しを鍛えていくこと。
その眼差しこそが、
人生の新しい「運命」をつかみ取る力になっていくのです。
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