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ネオンテトラの水槽


◆◆◆

それは夏の日だった。
それは薄い雲が浮かぶ夏の日だった。
それは薄い雲が浮かぶ空の下、蜃気楼の中を歩いた夏の日だった。
入道雲の陽のあたらないところのようなぼくらは、光をうけた空の彼方に夢を見た。
そう、あれは薄い雲が遠くの空に浮かぶ夏、蜃気楼の中を歩いた日の出来事だ。

夏の終わり、あの群青は答えを教えてくれるだろうか。

   ネオンテトラの水槽

わたしが「わたし」で在ることの是非を問うとき
(わたしはそれを憶えている)
アスファルトを冷やす雨滴の感触がよみがえる。
あたたかな手にふれている。
(わたしはそれを憶えている)
夜風が躰をなぞる。街灯が顕す薄い影、剥がれた横断歩道、
ネオンテトラの水槽が落ちる。
(わたしはそれを憶えている)

相対性の黒、あるいは宇宙のゆらぎ、いにしえのトロイメライ。
夢を見る青海波。液晶が反射する面影に、わたしはとらわれている。
(あなたはそれを憶えている?)
失っている。失っている。
ひとつ、ひとつ、わたしを象るものが消えている。
輪郭だと思っていた線はページの端についた折り目だった。
可変の偶像。カセットテープに吹き込んだ祈りの言葉、
(わたしはそれを憶えている)
まだ絶えないでと誰かが言う。鍵穴の向うには深淵が回遊する。
うねる波音にわたしはそれを失って憶えているあなた、
床の継ぎ目を象る旋律、脳核の奥底でわたしが囁くなら、
いつか失う朝までわたしはそれを憶えている。
あなたは白いヴェールで覆う。褪せないでトルマリン、唯一無二のかがやき。

あたたかな血潮が定義する真実(あなたはそれを失っている)、わたしの
真実をあなたにあげる。やがて憶えてそれはあなた、輪郭を象る
ページのはじまり、部屋の隅に置いた割れない花瓶はわたし。
青く色のついたカスミソウは偽りと夢想とやすらぎのあかし。

◆◆◆

海鳴りが遠く近く響いている。白く波の砕ける音。水際をなぞる透明。傾きはじめた陽光が水面に反射する。どこまでも歩いていけるかもしれなかった。どこまでも歩いていきたかった。どこまでも遠くへ歩いて、生きたかった。

「あの青の向うにこたえがあるのだろうか」
「完璧な答えなんて存在はしないさ」
「それじゃあ、ぼくらは何をめざして生きていけばいいのだろう」
「めざす場所を探すために生きていけば見つかるんじゃないかな」

「鳥はいいよな。どこまでも自由にいけるんだから」
「そうかもしれないな」
「比べて人間ときたら、いつまでも生き急いで、自由なんて言葉はまるで忘れてしまった
みたいだ」
「自由は与えられるものではなくて手に入れるものなんだ。だから、鳥がどこへも居場所
を持たないことを自由と呼ぶなら、それは自由ではなく孤独なんだよ」
「この社会で孤独でない人間などどこにいるっていうんだよ。誰もが孤独で、自らの孤独
を隠して生きている」
「知らなければ望みも生まれないものだ。知ることの不幸、知らないことの幸。結局の
ところ人間が原初に犯した罪は『知りたいと願ったこと』なのかもしれない」
「それでも、知らないことは不幸せだ。そうだろ」
「幸か不幸かを決めるのは個人だ。もっといえば、個人の刹那的な感情であり、長い年月
を経て得た結論は当初の感情とかけ離れていることだってある。きみは、そうだね、
たとえ傷つくとしても真実らしきものの断片を得ることを望むんだ。それがきみの
自由だから」
「傷つく、って表現は避けるようにしているんだ。まるで心に形があって、一定の形状を
成していなければならないようにきこえるから」
「さては、きみ、いじめに遭っていながらそれをやり過ごしていることを『強い』と言わ
れたくないたちだろう。あるいは、窮地に立たされている状態をして『つらい』だとか『苦しんでいる』だとか、その類の言葉で形容されることを拒む」
「当たり前だろ。他人から自分の心境を定義され、分類されることほど不快なことはない。
言ってしまえば放っておいてほしいんだよ。それは、例えば思春期特有の根拠なく顕在化したエゴによる個人主義とは違うもので、個の境界を維持するためにはある一定の心理的なパーソナルスペースが不可欠なんだ」

  朝のオリオン

水彩に落ちる水の色には、手の届かない最果てが溶けている。
一度きりの色彩。重ねるほどに取り戻せなくなる色。
(むかし聴いた物語を再現できなくなってしまった)
(非現実の断片)
(永久的に創出される整合性のない空想)
それでも、わたしはそこに生きていた。

細胞に記銘した電子信号。記憶のなかであなたが生きる。
(生きていたのだと錯覚する。)
現実と真実と事実のはざま。虚実皮膜のナラトロジー。群像劇の幕間に
有終を飾るシソーラス。覚めないで。
明晰夢のなかで息をする、うつくしいものをかぞえた。水面のきらめき、
夕陽をかたどる稜線。列をなす雁。やわらかなマーガレットメリルの薄く色づく花弁。
(投影された虚像に支配される感性)
かぎりなく自己を見据えるまなざしが、正しく在ってほしいと祈る。
この、祈りは、届くでしょうか。
たしかにそこにあるもの。明滅する真昼の電灯、正午の星あかり。
コンコースを渡る風の色、地面に反射する光の温度、わたし。
(あなたはそれを認知しない)
遠ざかる踏切の警告音、ビル群に切り取られる架線。
海のかおりがあなたの髪を揺らす。真昼の道を歩く。
夢とおなじ浮遊感。ここが現実だなんて、誰が定義するのだろう。
サイレンが世界を断絶する。言葉が消えてゆかないように
記して徴して標して、世界に意味を見つけようとしている。

(意味:世界 ネオンブルーの空の果て/六等星と朝のオリオン)

◆◆◆

「だから、人間はどこまでいっても個でしかない。どれだけ大衆が増大しても、
蝟集・充満という現象が加速しても、無数の個が構成する集団以上にはなり得ない」
「孤独と孤独との距離の問題で、それが遠いか近いかの差でしかない。いずれにせよ人間
はひとりで生きていくものだ」
「その孤独の堆積の果てに、あるいは」
「他者の力なくして生きられないことは、孤独であることと両立する概念さ。孤独であっ
ても扶助は叶う」
「たましい、などと呼ぶものの存在があるとするなら」
「社会というものは人間が作り出した欠陥品の最たるものだ。幾重にも枷をかけて煩雑な
システムに同化できない存在を取り残して続く永久機関。永久だと信じていたかったんだろう。でなければ死を迎えるのみだから」
「あの青の向うにこたえがあるのだろうか」

「教えてくれよ、群青」

◆◆◆

「行こうとさえ思えるなら、きっとどこまででも行けるはずさ」

   白亜の街

軋む音が鼓膜をつんざく、喚くレール、扉からしのぶ冷気。
見ている、暗い窓の向こうでわたしを射抜く。それはわたし。
それは夜。それは永遠。あるいは刹那。鎖骨が軋む。
倫理の壁が叫びをあげている。天使はきよらかであり、
穢れを知らない魂だと。その翅が散る前に翔べたなら、
このふたつの棒は枷にならなかっただろうか。
偽りの温度と塗装の剥がれた理想郷。
柵の向こうの現実から逃げられない。
活字の波間に息をする。明かりの消えたビル群に穿つ明星、
交錯する「誰か」の道標。明滅する警告灯、無意識の告解。
(釈明せよ、その罪に名はなく、免罪符はとうに失われている)
双翼と連理の枝、物語のいしずえ。アンモナイトが眠る
海底の名もなき夢。薄い宇宙の色をした空、白亜の街。
どこか遠くにきっとあるもの。
架空の化石はアパタイトのきらめき。あるいは連鎖するネメシス。
わたしは記憶する。些末な事象を書き連ねた叙景詩に
感情のすべてをゆだねている。
映写機の回る音。投影する一度限りの夜。

◆◆◆

残夏。陽射しは傾き、あたりを染める。
遠く海鳴りの低い音が響く。
白く砕ける波が水際を凪へとさそう。

あの青の向うへ。あの青の向うへ。



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