エルダーフラワー・コーディアル
ねえ、ルシア。わたしが幼かった日のことをおぼえていて。
ニワトコの花が白く散る。甘い香りは薄らいだ。
季節がひとつめぐるごとに、わたしをかたちづくるものは失われていく。
新しい朝は希望に満ちているはずなのに。
そうして名前のない空白をおそれるとき、ルシアはいつも泉の話をした。
遠い昔の記憶だけれど、昨日のことのように憶えている。
――泉の底にはね、どこまでもあおく静かな世界があるの。私、いつかそこへ行きたいのよ。
幼いわたしは、なぜルシアが泉の底について知っているのかわからなかった。
当然そのようにあるものなのだと――朝がきた小鳥は鳴くことや、水をやらなかった花が枯れてしまうことと同じように――憂いを帯びた横顔が語る。
わたしはそれを神妙な顔できいているだけだった。
きっと、そんなわたしにルシアは気がついていたはずだ。
だから、ちょっとだけ微笑んで、ちいさな唇を三日月のかたちにふちどって、大丈夫よと彼女は言う。
決まって同じように。
大丈夫、いつかわかる日がくるはずだから。
それはわたしにとって魔法の言葉だった。
祈師(きし)さまのお説教(はなし)よりも、かあさまの言いつけよりも絶対的な、世界の真理だった。
朝のおつとめが終わる頃、わたしはようやくひとりになることを許される。
歳の近い子たちが学校へいく声がさざめきのように遠くで響く。
わたしはいつも光のあたる床に本を広げて寝そべっていた。
もっと以前は座って読みなさいと叱られたものだけど、そうするとお昼になる前に疲れて眠ってしまうから、いつの頃からか、指摘されることはなくなった。
自由に外へ出ることができなくても寂しいとは思わなかった。
必要なことはすべて本に書いてある。
かあさまは厳しい方だけれど、読める文字が多くなったときだけは、たくさんほめてくださった。
「あなたは世界の真実だからね」
折に触れてかあさまはそうおっしゃった。
けれど、ルシアの話はどれも本に書いていないものばかり。
知らない世界で旅をするように彼女の言葉をきいていると、どこへでも行けるのだという気持ちになる。
昼食をすませてわたしはルシアに会いにいく。
見咎められないように、こっそりと。
細い道を歩くとすぐに息が上がる。
木漏れ陽が静かに地面を温めて、もうじきモッコウバラの花も咲くでしょう。
いまだひやりと吹く風に当たらないように、外套の襟を合わせる。
あとすこし、この木々がひらけたころに……ああ、ルシアがひだまりのなかで花冠を編んでいる。
まっすぐにさす光の粒子、やさしいコルク色の髪が揺れる。
本で読んだ、神様の住まう園に流れる川をうつしとったみたいな、繊細な流線形。
それを梳(くしけず)るときの幸福さは、ほかの何にもかえられない。
このままずっと彼女の横顔を眺めていることができたならよかったのに。
窮屈な部屋を抜け出して。
風の向きが変わった。
ルシアは顔をあげ、わたしを見つけて手招きをした。
ひらり、白い指先が泳ぐ。
「木立の間にすてきなお伽話が隠れていると思ったら、あなただったのね」
笑みを含んだ声。
けして大きな声ではないのに心地よく鼓膜を震わせる響き。
このまま溺れてしまえたら、わたしは自由になれるだろうか。
「座ったら? ここはあたたかいわよ」
ルシアは瞬きをして言った。
心もちを見透かされた気がしてどきりとした。
けれどそれ以上は問われなかったので、こっそり安堵の息をつく。
示されたところへ腰をおろすと、ふわりとした草の感触と、ぬくもりに包まれる。
「ありがとう、ルシア。歩いてきたら少し疲れてしまったみたい。ねえ、なんの花を編んでいるの?」
「かすみ草よ。小さくて可愛いらしい、あなたにぴったりの花ね」
そう言って、彼女はわたしの頭上に完成したばかりの花冠をそっと載せる。
戴冠式のティアラのように恭(うやうや)しく。
束ねられた花の重さ、摘み取られたばかりの草の香り。
どんな彫刻より教会のタペストリーより、ずっときれいなルシアの瞳にわたしが映る。
ルシアと過ごす時間は、砂糖漬けの薬草のように甘くやさしいひとときだった。
ままならない日々のこと、冷たい泉に身を沈める朝のおつとめや、陽のある間しか外出を許されないことを、忘れてしまえるほどに。
天頂の太陽がずいぶん傾いて小道は薄闇に溶けている。
秘密の場所はあんなにもあたたかいのに、また明日と言った瞬間から急に寒くなるみたい。
おいとまを告げてから、わたしは後ろを振り返らない。
ルシアははじめからそこに居なくて、からっぽの草地が広がっているだけなのではないか。
そんな想像をして世界が足下から崩れていくような気持ちになるから。
また、明日。
きっと光の梯子をつたって、やさしい天使が特別な日を教えてくれる。
雨が降っていた。
うっすらと遠い地表のちかくが光を帯びて、空は一面に雲が覆っている。
つめたい雨なのだということは、窓辺の空気からうかがい知れる。
光のあたる床も今日ばかりは疼痛(とうつう)のような寒気を呼び起こす。
起き上がることができなくて、わたしはベッドに体をあずけていた。
かあさまは心配なさって、今日は朝のおつとめをしなくてもよいと言ってくださった。
窓をたたく雨音と風の音。
世界が無彩色に染まっていくのは、ルシアの隣にいないから。
彼女に出会ってはじめて世界は色をとりもどした。あなたを失いたくないと言ったら彼女はなんと答えてくれるのだろう。
結末はわかっているけれど、たずねておけばよかった。
わたしはこの部屋を出なかった。ルシアと過ごす刹那より、永遠を選んだから。
――私たちはみんな、どこか遠くへ旅をするのよ。ひとの一生は短いけれど、死はおしまいという意味ではないの。
脳裏にいつかのルシアの声が響く。
ルシアはどこへ旅するの、とわたしは問うた。
――それはわからない。でもね、泉の底にある世界に雨は降らないの。かわりに、おひさまの光がずっと高くでゆらゆら揺れる。よく澄んだ水は鏡のようにものを映すでしょう? だから、泉の底はわたしたちの真実を描いているのよ。私たちの旅の行く先を。
そう言って、ルシアはまた微笑んだ。
すべてが世界のことわりであるように。
雨上がり、大気は甘く透明をはらむ。光のつぶて。
世界のすべてが輝いて、なにもかもが新しい日。
木々の枝が水を吸い込む音がする。
花びらがほころぶ前には、みずみずしい香りが漂う。
今日がおしまいで、はじまりの日だ。
わたしはそれを理解した。
まだ身体は重かったけれど、部屋を飛び出して森の小道を走る。
お別れをするために。
雨を含んだ地面に靴が濡れて、喉の奥で錆のにおいがした。
心臓が痛くなる頃、森を抜けた先にはなだらかな下り坂がある。
坂の途中で振り返ったルシアは弾けるような笑顔を浮かべていた。
ねえ、ルシア。わたし、あなたのことを憶えている。
何百年、何千年が過ぎても、ずっと。
大きくひとつ振られた手は光を泳ぐ魚のよう。
きこえないはずの声が響いて、わたしたちの旅がはじまる。
さようなら、マリア! さようなら!
あなたの旅が、すばらしい永遠でありますように!
