PERCHの聖月曜日 171日目
「開講にあたって」で紹介した『広辞苑』の「無条件的な自由は人間ではない」という、「自由」の不断の追求など愚かしく無謀だと警告するかのような断言も、「所詮、この世はままならぬものだ」という、あのお馴染みの「大人の議論」を思わせます。
そして、日本の最高裁判所も、様々な「自由」を尊重すべきだと述べながら、一方で、「しかし憲法二一条は絶対無制限の言論の自由を保障しているのではなく、公共の福祉のためにその時、所、方法等につき合理的制限のおのずから存することは、これを容認するものである(後略)」、「閲読の自由は、生活のさまざまな場面にわたり、極めて広い範囲に及ぶものであつて(中略)それぞれの場面において、これに優越する公共の利益のための必要から、一定の合理的制限を受けることがある」等と述べて、簡単に基本的な自由の制限を容認したことがあります。
そのため、日本の最高裁は、「「何でもできる自由」とでもいったものをまず想定し、「人は何でもしてよいわけではない」という論理によっていわばひき算をすることによって「自由の限界」の線を引くやり方」をとる傾向があると指摘されています(樋口陽一『憲法(第4版)』勁草書房、2021年)。この時の最高裁判事も、「「自由」とは、「心のままのやりたい放題」のことであり、したがって、当然にある程度は制限されるべきものだ」と考えていたのかもしれません。
つまり、『広辞苑』のこれまでの執筆者も、以上の判決をした最高裁判事たちも、翻訳語としての「自由」を、かなりの程度、旧来の日本語の意味で理解しているのではないでしょうか。
「自由」という日本語には、元来の意味が今もなお生きていること、それはliberty・freedomと意味の重なりはあるものの、根本的な発想を異にする語であることーーその自覚が必要だと思います。その自覚がないと、「自由でなければ生きている意味がない、なんて大げさだ」などと感じることにもなります。さらに、「どうせ人生は何かと不自由なものだ。そうであるのに、自由、自由と騒ぐのは、いい大人の態度ではなかろう」、「あまりに自由を良いことのように言うから、身勝手な奴が増えるのだ」、「自由なんて、それほど良いものなの?」と言うようにさえなります。それは、日本語で考えているからでしょう。Freedomの話をしているわけでは、おそらくない(奴隷になりたい人がそういるとは思えません)。
勿論、日本語の意味で「自由」という語を使うべきでないなどと言うつもりはありません。ただ、「自由」と口にし、書く時に、それが日本語の「自由」なのか、それともliberty・freedomなのか、意識していただければと思います。日本人が「自由」に懐疑的だとしても、奴隷になってもよいと思っているわけではないでしょう。そして西洋人が「Freeでなければ生きている意味がない」と言っても、身勝手であるわけではありません。おそらく別の話をしているのです。
ーーー渡辺浩『たとえば「自由」はリバティかーー西洋の基礎概念とその翻訳語をめぐる6つの講義』岩波書店,2025年,p41-43

Fulbe
late 19th century
