「そんなに荷物増やしてどうするの」と言われて、泣きそうになった夜

明日は、5歳の長男と2歳の双子を連れて、水族館へ行く。

電車の時間を調べた。
双子ベビーカーを置ける車両も調べた。
子どもたちが食べられる昼ごはんのお店を探した。
水族館の入場時間を考えて、帰りの電車まで決めた。

三人の着替え。
母子手帳。
タオルケット。
麺カッター。
オムツ。
薬。
飲み物。
おやつ。
モバイルバッテリー。

少しずつ準備して、あとは明日を楽しむだけ。

――のはずだった。

夜になって、天気予報を見ると雨だった。

双子ベビーカーにはレインカバーがない。

「うわ、最悪じゃん」

夫が言った。

私もそう思った。

だから、池袋駅からサンシャインまで濡れずに行ける方法がないか調べた。

池袋から有楽町線で一駅、東池袋まで行けば、そこからは地下通路でサンシャインまで行ける。

それを夫に伝えた。

すると夫は、

「じゃあ東池袋まで行けばいいじゃん」

と言った。

その瞬間、なんとも言えない気持ちになった。

いや、それ、今私が調べてあなたに教えた情報なんだけど。

「そうなんだ、調べてくれたんだね」でもない。

「じゃあ他に雨対策いるかな」でもない。

私が調べて渡した情報を受け取って、数分後にはまるで自分が解決策を出したかのように、

「東池袋まで行けばいいじゃん」

と言われる。

私は、この感じがとても苦手だ。

しかも私が心配しているのは、池袋からサンシャインまでの道だけではない。

家を出たときから雨が降っていたら?

家から最寄り駅までに靴下が濡れたら?

ホームで雨が吹き込んだら?

濡れた服のまま、冷房の効いた電車に一時間乗ることになったら?

帰りにまた雨が降ったら?

だから私は、三人分の薄手の上着を入れた。

替えの靴下も増やした。

すると夫が言った。

「そんなに荷物増やしてどうするの」

そこで、急に泣きそうになった。

5歳と2歳と2歳を連れて出かけるとき、私はいつも、

「たぶん大丈夫」

だけでは準備できない。

大丈夫じゃなかったとき、どうするか。

そこまで考えている。

替えの靴下を使わなかったら、それでいい。

薄手の上着を一度も着なかったら、それもいい。

それは余計な荷物だったのではなくて、

使わずに済んだ保険だった

というだけだ。

夫はさらに、

「帰り、最寄り駅で雨だったら俺だけ濡れて家まで行って、車で迎えに来ればいいじゃん」

と言った。

その案自体が嫌なのではない。

私がつらいのは、そこに至るまでのことを何も調べず、何も準備せず、それなのに準備している私に対して、

「それでいいじゃん」

「そんなに荷物増やしてどうするの」

と言われることだ。

子連れのお出かけは、当日玄関を出たところから始まるわけではない。

何時の電車に乗るか。

ベビーカーはどこに置くか。

どこで昼ごはんを食べるか。

子どもが食べられるものはあるか。

何時に施設へ入るか。

何時に撤収するか。

オムツは足りるか。

薬は持ったか。

暑かったら。

寒かったら。

雨だったら。

疲れたら。

そういう小さな「もしも」を、誰かが事前に一つずつ拾っている。

私は夫に、完璧な旅行プランを作ってほしいわけではない。

全部調べてほしいわけでもない。

ただ、

「雨か。俺も何か調べるよ」

「他に必要なものある?」

「そこ調べてくれたんだね」

そんなふうに、同じ側に立ってほしかった。

何も調べず、何も準備せず、与えられた情報だけを使って結論を言う。

そして、準備している人の荷物には口を出す。

それは私にとって、
一緒に考えていることではない。

ただ、完成した計画を外側から論評されているだけだ。

明日、替えの靴下を一足も使わないかもしれない。

上着もバッグから出さないかもしれない。

雨すらほとんど降らないかもしれない。

そうなったら、

「持ってきすぎたね」

と笑えばいい。

でもそれは、今夜の私が心配しすぎたということではない。

何事もなく一日を終えられた、ということだ。

子ども三人とのお出かけで、私が欲しいのは「荷物の少なさ」ではない。

当日、できるだけ心配せずに、

水槽を見て目を輝かせる三人を眺めて、

その姿を写真や動画にたくさん残せる余裕だ。

そのためなら私は明日も、

少しくらい荷物の多い母でいい。


とりあえず防水スプレーをココダブルや靴、カバンにスプレーしてから行こうと思う。

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