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家の前の一平方キロメートル――朝の風景

はじめに

最近、中国のオンライン講座「文学と旅行」を受講しています。第1回の課題のテーマは「家の前の1平方キロメートル」でした。私にとって、家の前の1平方キロメートルの中で最も身近なのは、やはり家の近くの公園です。そこで、この課題ではその公園について書いてみました。


日本の名古屋市に住む私にとって、家から南へ三百メートル足らずのところにある都市公園は、私の「一平方キロメートルの朝」です。

細長い形をした市営の総合公園で、南北に約八百メートル延びています。道路によって北エリアと南エリアに分かれています。私はほぼ毎朝、北エリアに出かけ、速歩きや太極拳を一時間ほどします。一日はいつも、ここから始まります。

何年もの間、私は健康のためにこの公園へ通ってきました。いつの間にか、朝の陽射しの中にある草木の一本一本を覚え、毎朝姿を見せる人たちのことも覚え、そして四季の移ろいの中で絶えず動いていく生命の姿も、少しずつ目にするようになりました。

ラジオ体操をする人、犬を連れて散歩する人

毎朝六時半になると、近所に住むお年寄りたちが集まってラジオ体操をします。犬を連れて散歩に来るのも、たいてい中、高年の人たちです。ラジオ体操が終わると、用意してきたドッグフードを取り出して犬をかまう人もいます。そうして、もともとは互いに知らなかった二つのグループが自然に一つになり、公園の朝でいちばんにぎやかな光景になります。

一年、また一年と過ぎるうちに、彼らの顔には皺が増え、体の動きも鈍くなってきました。犬たちも年を取りました。

歩くことが難しくなった犬をペットカートに乗せて、公園の朝の空気を味わわせている飼い主もいます。

なかには、すっかり年老いた小さな犬もいて、飼い主のそばをよろよろと、一歩ずつゆっくり進んでいきます。そして最後には、飼い主に抱かれて家へ帰っていきます。

しばらくすると、今度は飼い主だけが散歩に来るようになります。

数年前、毎朝、かわいい小型犬を二匹連れて公園に来る若い女性がいました。あるとき、二匹のうち一匹が病気になったと話してくれました。その後、彼女の姿を見かけることはなくなりました。きっと病気になった犬は天国へ旅立ち、彼女はまだ悲しみから抜け出せずにいるのだろうと思っています。

私たちのマンションにも、以前はほとんど毎日のように公園で会うおばあさんがいました。ところが、次第に歩くのが遅くなり、やがて姿を見かけなくなりました。

ある日、マンションの集会室で偶然会ったので、「最近、公園でお見かけしませんね」と声をかけました。

すると、少し驚いたような、でもうれしそうな顔をして、

「覚えていてくれてありがとう。腰を痛めてしまって、公園には行けなくなったの。今日はここで催しに参加して、みなさんとおしゃべりできるから、少しにぎやかな気持ちになれるわ」

と言いました。

その言葉を聞いて、私は思いました。

同じ場所で毎日のように顔を合わせる人は、たとえ「おはようございます」と軽く挨拶を交わすだけでも、いつの間にか互いの暮らしの中に小さな痕跡を残しているのだ、と。

池辺の老人

公園には、曲がりくねった小川と池があり、その周りには背の高いラクウショウが植えられています。春から夏にかけては緑に包まれ、秋には黄色や赤褐色に染まり、冬になると、すっと伸びた幹と枝が姿を現します。水辺の景色と水面に映る木々が重なり合い、どの季節も美しい自然の絵のようです。

毎朝八時ごろになると、いつも一人の老人が池のそばの石に腰を下ろし、パンを小さくちぎって、何度も水面に投げます。

このカモたちはいったいどこから飛んでくるのだろうと思うのですが、毎朝、老人がやって来るより先に、カモたちは水面に集まり、静かに待っています。

冬になると、カモが一羽もいないことがあります。

老人は少し寂しそうにそこに座り、集まってきたスズメにパンを与え、横取りしようとするハトを追い払います。ときにはパンを空中に投げ、木の枝に止まっていた小鳥が急降下して、空中で見事に受け取ります。

聞くところによると、老人はもう十数年ここでカモに餌をやっているそうです。以前は自転車で来ていましたが、今では自転車を押しながら、ゆっくり歩いてやって来ます。自転車には大きな袋いっぱいのパンが載っています。

老人は年々年を重ねていきますが、カモたちは毎年、いつものように飛んできます。

生まれたばかりのカモの子

毎年五月になると、小川や池に突然、母ガモと、孵化したばかりのカモの子たちが姿を現します。公園で一年を通して最も心温まる光景の一つです。

偶然その姿を見つけた人は、きっと興奮して、通りかかった人に「今年もカモの子が出てきましたよ」と教えます。

散歩をしている人も、走っている人も、思わず足を止め、ふわふわした小さな命が母ガモの後ろにぴったりついて、水面を泳いでいく姿を眺めます。

この公園で生まれたカモの子たちですが、ここで大きくなるわけではありません。ほどなくして母ガモは子どもたちを連れて公園を離れ、川に沿って、もっと広い世界へ向かっていきます。

毎年この光景に出会えること自体が、幸運なのだと、みんな知っています。

たくましいハクモクレン

ラジオ体操をする人たちが帰ったあと、私はその空き地で太極拳をします。公園全体を見ても、太極拳をしているのはたぶん私一人です。最初のころは、人に見られるのが少し恥ずかしかったのですが、やがて気にならなくなりました。

太極拳をする場所の片隅に、一本のハクモクレンがあります。毎年春になると、私は花が咲くのを待ちます。

去年は、ふわふわした花芽から白い花びらが少しずつ顔を出すところを撮影していました。ところが、咲き始めたばかりの花が鳥に啄まれ、あちこちが無残に傷ついてしまいました。その木は、見るのもつらいような姿のまま、花の季節を終えました。

「花芽/啄まれた枝」
「傷ついた花」

その後、私はついに「犯人」を目にしました。二羽のヒヨドリが枝に止まり、花を啄んでいたのです。

私が近づいても、飛び去ろうとする様子がありません。よほど花が気に入ったのでしょう。私は腕を振って、追い払いました。

家へ帰る途中、ふと考えました。

この鳥たちにとっては、今にも咲こうとしているハクモクレンの花が、春の何より大切な食べ物なのかもしれない。ハクモクレンも小鳥たちも、みな生きるために懸命なのだ、と。

今年、ハクモクレンは花を咲かせました。

白い花は変わらず美しく、その姿を眺めながら去年のことを思い出し、そのたくましい生命力に感嘆しました。

公園には専門の清掃・管理スタッフがいて、定期的に手入れをしています。芝生を整えたり、池を掃除したり、木の剪定をしたりします。

木陰の地面には、ときどき枯れ枝が落ちています。大雨や強風のあとは、道に太い折れ枝があちこちに横たわっていることもあります。

朝、公園に来た人たちは、それを見つけると自分から拾い、道端にまとめて置きます。

定期的に来る清掃車が公園を一周すると、枯れ枝は回収され、公園はまたいつものきれいな姿に戻ります。

毎朝、私はこの公園に足を運びます。

誰かが少しずつ年を取り、どこかで新しい生命が生まれる。
一年に一度しか出会えないものもあれば、いつまでも続いているように見える光景もあります。

この公園は決して大きくありません。でも、そこには四季の移ろいと、さまざまな生命の営みが収まっています。

この一平方キロメートルを毎日のように歩きながら、私は草木の栄枯を見つめ、その中で一つひとつの小さな生命が出会う瞬間を見つめてきました。


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