死語
ときどき10代の知り合いに、「本を読んでいて分からない言葉が出てきたら、毎回辞書を引くべきですか?」という質問をされる。
「当然、引くべきだね」と断言するのが、教育的には良いのかもしれない。ただ、私自身が実践できていない以上、他人にそれを勧めるわけにはいかない。
読書には、波がある。今気持ちよく、滑らかに本が読めている、と思える瞬間がある。波に乗れている、という感覚。この状態をキープするために、分からない言葉が出てきても、あえてスルーすることは少なくない。もちろん、その言葉の意味が分からなければ、ストーリーが把握できなくなるというのであれば話は別だ。ただその場合、本の側で脚注をつけてくれていることが多い。
一方、こういう場合は必ず辞書を引く、と決めていることもある。それは、未知の魅力的な言葉に出会ったときである。「未知」の中には、まったく見たことも聞いたこともなかったものに加え、見覚えはあるが意味は知らない、というものも含む。
魅力的な言葉に出会ったときは、辞書を引くだけでなく、何らかの形でメモをとるようにしている。そういった言葉だけを集めたマイデータベースを作っていくのだ。定期的に見返すと、色々と発見があって面白い。
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「死んだ言葉のことを「死語」というでしょう。みんなが使わなくなって、滅びていく言葉がたくさんあって、もったいないと思っています。昔からそういう言葉を助けたい気持ちがあって、歌詞に使ってきました。
たとえば「はいから」という言葉は、はっぴいえんどの「はいからはくち」という詞にしました。あと「小麦色のマーメイド」の「小麦色」とか、「薄荷キャンディー」の「薄荷」とか。」
(松本隆:述、延江浩『松本隆 言葉の教室』ちくま文庫、P103)
引いたのは、作詞家・松本隆の言葉だが、私が冒頭で書いてきたことは、この松本のような創作者としての姿勢に呼応したものであると言えるかもしれない。
あるストーリー、あるメロディーの上に言葉を乗せる。その仕方によっては、これまで内には秘めていたものの、外に表れていなかった言葉の魅力が可視化される。
滅びそうになっている言葉を救いたい、という創作者の態度は、昨今の言葉の扱われ方を見回したとき、とくに重要になっていると思われる。
特定の言葉が、内実を伴わず連呼されることによって、消耗されていく。悪いイメージが付着して、口にするのが憚られるようになる。こういう流れを目にする機会が多くなった。
消え行こうとしている言葉を救おうーーそういう意思を持った創作者がいる以上、受け手の側もそれに応えたい。その一つの方法として、辞書を引く、できればメモをとる、があると思っている。
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