千の眼差し|三十三間堂、祈りを彫った人々 第三部「八百七十六」第三章「三つの仏所」
第三部 八百七十六
第三章 三つの仏所
湛慶が死んだ翌朝も、工房には人が来た。
戸が開けられ、炭が起こされ、道具が運び込まれる。
いつも湛慶が座っていた場所だけが空いていた。
広房は、そこを何度か見た。
昨日まで人のいた場所というものは不思議である。何も置かれていないのに、しばらくはそこに人の形が残っているように見える。
誰かが鑿を研ぎ始めた。
やがて、
コン。
と木を打つ音がした。
もう一つ。
コン。
少し離れたところからも音が返ってくる。
広房は仕事台の前に座った。
湛慶が死んでも、仕事は止まらない。
昨日、そのことは分かったつもりだった。
だが実際に朝が来て、昨日までとほとんど同じ音が工房を満たし始めると、奇妙な気分になった。
人が死ぬ。
仕事は残る。
言葉にすれば簡単だが、その二つの間には説明しにくい断絶がある。
広房は考えた。
湛慶が、この場所でしていたことは何だったのか。
鑿を持つ。
像を見る。
若い仏師を見る。
顔の形を決める。
他の仏所と話をつける。
中尊と千体仏を、同じ堂の中にある一つの世界としてまとめる。
一つずつ分けて考えてみると、湛慶という一人の老人が担っていたものは、驚くほど多い。
ならば問題は、
「次に誰が湛慶になるか」
ではないのかもしれない。
そもそも、一人の人間に戻す必要があるのか。
技を見る者。
人をまとめる者。
各仏所の間を調整する者。
全体を眺める者。
役割を分ければいい。
そう考えると、湛慶の死によって仕事そのものが止まらない理由も、少し見えた。
広房は師匠のところへ行った。
「師匠」
「何だ」
「法印がしていた仕事は、これから何人かに分かれるんでしょうか」
師匠が広房を見た。
「どうしてそう思う」
広房は、頭の中で考えたことをそのまま話した。
康円が慶派を見ても、院派や円派までそのまま従うとは限らない。
一人の大仏師が全部を決めるより、それぞれの仏所にそれぞれの中心があり、その間を合わせる方が現実的に思える。
師匠は黙って聞いていた。
「そうなるだろうな」
広房は頷いた。
「だったら、この仕事は一人の頭を探すことより、違う人間同士が、どこまで同じものを見られるかの方が大事ですね」
師匠はしばらく広房を見た。
「お前も少しは年を取ったな」
広房は答えなかった。
褒められたのかどうかは、よく分からない。
ただ、以前なら最初に「誰が次の頭なんです」と聞いていただろう。
そこから先を自分で考えるようになったことだけは、広房自身にも分かっていた。
三十三間堂の再興には、慶派だけが参加したのではない。
院派。
円派。
そして慶派。
当時の仏師界を代表する複数の系統が、この巨大な造仏事業へ加わった。
現在残る千体千手観音立像の鎌倉期像には、湛慶、康円をはじめ、隆円、院恵、院豪、院承、勢円、院賀、院継、昌円、栄円、院遍、院玄、院有、春慶など、多くの仏師の名が残っている。
後世の人間は、それを慶派、院派、円派という三つの言葉で整理する。
便利なものである。
歴史というものは、百年、五百年と離れて眺めると、生きている人間が必死に守っていた違いを、驚くほど簡単な箱へ入れてしまう。
だが、箱の中にいた本人たちは、そうはいかない。
誰の弟子か。
どの工房で育ったか。
どの寺から仕事を受けてきたか。
何を美しいと思うか。
同じ観音を造っても、顔は違う。
衣の線が違う。
身体の重さも違う。
仏師が仏を彫るからといって、仏師自身まで無欲になるわけではない。
腕を比べる。
評価を気にする。
師の名を誇る。
他人の仕事を見れば、良いとも悪いとも思う。
仏の世界より先に、人間の世界がある。
蓮華王院の再興は、その人間たちを一つの堂へ集める仕事でもあった。
ある日、一体の観音を前に、二人の仏師が長いこと話していた。
一人は慶派。
もう一人は院派だった。
声を荒らげているわけではない。
だが、どちらも譲る気がないことは分かった。
問題は頬のようだった。
慶派の男は、もう少し量を持たせるべきだという。
院派の男は、それでは顔が強くなりすぎると言う。
広房は少し離れたところで仕事をしながら聞いていた。
最初は、たしかに頬の話だと思った。
しかし、しばらく像を見ているうちに違う気がしてきた。
頬だけではない。
眼の開き。
顎の幅。
首から肩へ落ちる線。
一つ一つは小さな違いである。
だが、それらをつなげて考えると、二人が本当に争っているものが見えてきた。
慶派の男は、像の内側にある力を、少し外へ出したいのではないか。
院派の男は、その力を表へ出しすぎず、静けさの中へ収めたい。
そう考えれば、
二人は頬について話しているようで、
実際には、
観音をどのような存在として人の前に立たせるか
について話している。
広房は作業の手を止めた。
「一度、古い像を見ませんか」
二人がこちらを向いた。
創建時から残った百二十四体。
そのうち一体が近くにあった。
三人で、その前に立つ。
八十五年前の観音である。
頬。
眼。
口。
肩。
衣。
広房は一つずつ見た。
慶派の像とも違う。
院派の像とも違う。
だが、どちらとも完全に無関係ではない。
「昔の仏師も、同じところで迷ったんでしょうか」
広房が言った。
院派の男が聞く。
「同じところ?」
「人に近づければ、生きた顔になる。でも、人に近づけすぎれば仏ではなくなる。離せば静かになる。でも遠すぎれば、祈る人間からも遠くなる」
二人は古仏を見た。
答えはない。
ただ八十五年前の仏師も、木から一つの顔を出すために、似たようなところで手を止めたのではないか。
広房にはそう思えた。
慶派の男が言った。
「では、これを真似るか」
広房は首を振った。
「それも違うと思います」
古仏をそのまま写せば、昔と同じになるわけではない。
木も違う。
彫る手も違う。
見る人間も違う。
まして、八十五年という時間そのものが違う。
広房は古仏を見ながら考えた。
これは答えではない。
もっと手前にあるものだ。
「基準なんじゃないでしょうか」
二人が広房を見る。
「何を残せば観音でいられるのか。それを確かめるための」
それ以上、誰も話さなかった。
三人はしばらく、名の分からない平安時代の仏師の仕事を見ていた。
そのころ、慶派では康円の存在が重くなっていた。
運慶の孫にあたり、湛慶とともに蓮華王院中尊の造像にも関わった仏師である。
ある日、広房は先ほどの一件を康円に話した。
康円は何も言わず、数体の観音を順に見た。
慶派。
院派。
円派。
そして少し離れたところにある創建時の古仏。
広房も見る。
一体ずつ見れば、違いはいくらでもある。
ところが十体ほど並んだところから数歩下がると、違いよりも共通するものが先に見える。
それなら揃えるべきなのは、顔そのものではない。
もっと大きな単位なのかもしれない。
広房はさらに数歩下がった。
「一体ずつの形を揃えるというより、堂全体の調子を揃えるということですか」
康円が広房を見る。
「どういう意味だ」
今度は広房が説明した。
「近くから見れば違う。でも離れると一つの列になる。なら、同じ顔にする必要はない。ただ、一体だけ別の世界の仏に見えたら、それは違う」
康円は観音の列を見た。
「それでいい」
短かった。
それ以上、何も言わない。
広房も続きを求めなかった。
どこからが違いすぎるのか。
そこに数字の境目などないことは、もう分かっている。
頬を何分。
眼を何分。
肩を何度。
そう決めれば形は揃う。
だが、それで千体の観音が一つの世界になるわけではない。
広房は少し考えた。
「もう一つだけ」
康円が見る。
「仏師の癖は残っていい。でも、その癖の方が観音より前へ出たら駄目だ。そう考えていいですか」
康円がわずかに笑った。
「湛慶殿なら、少しは見るようになったと言っただろうな」
広房は黙って観音を見た。
いなくなってからも、老人の言葉は妙なところに残っている。
三つの仏所をまとめるという問題は、最初、広房にはひどく複雑に見えた。
流派が違う。
技が違う。
美意識が違う。
人間関係もある。
誰が上かという問題まである。
しかし一つずつ分けてみると、大きな問題は二つしかないように思えてきた。
一つは、
何を共通させるか。
もう一つは、
何を違ったまま残すか。
全部を揃えれば、個々の仏師の手は死ぬ。
全部を自由にすれば、千体としての世界が壊れる。
ならば、
共通させるものと、
違ってよいものを見つければいい。
複雑に見える問題というものは、絡まったまま眺めているから複雑なのかもしれない。
紐を一本ずつ分ける。
何と何が結ばれているのかを見る。
関係の薄いものを外す。
すると、何が本当に難しいのかが見えてくる。
広房は、この考え方を仕事以外でも使うようになっていった。
もっとも、
人間の心だけは、
木ほど素直に分かれてはくれなかった。
湛慶の死からしばらくすると、広房のところへ若い仏師が仕事を見せに来ることが増えた。
最初は偶然だと思っていた。
一人。
二人。
三人。
いつしか、ほとんど毎日のように誰かが来る。
ある日、一人の若者が観音の頭部を持ってきた。
「見ていただけますか」
広房は受け取った。
何かがおかしい。
だが、すぐに直す場所は見つからない。
眼を見る。
口を見る。
頬を見る。
どれも、それだけなら悪くない。
少し離れる。
そこで分かった。
強い。
以前、湛慶と中尊を見た日のことを思い出した。
だが、
「強すぎる」
とだけ言っても、この若者には何も残らない。
広房は像を返した。
「自分では、どう見える?」
若者が困った顔をした。
「悪いところが分からなくて」
「悪いところを探さなくていい」
「では?」
「この観音の前に立ったら、どう感じる」
若者は像を見た。
長いこと黙っている。
「……少し近寄りにくいです」
「俺もそう思う」
「どこを直せばいいでしょう」
広房は答えようとして、やめた。
頬を削れば変わる。
眼を少し伏せても変わる。
口元でも変えられる。
だが、「ここを削れ」と言えば、この若者は次も同じ場所だけを見るかもしれない。
昔の師匠たちが、なぜすぐ答えを言わなかったのか。
ようやく、その理由の一つが分かった気がした。
「古い像を三体見てきて」
若者が広房を見る。
「何を見るんです」
広房は少し考えた。
昔の師匠なら、
「見れば分かる」
とだけ言ったかもしれない。
自分はそこまで突き放したくなかった。
「顔だけじゃなくて、少し離れて立ってみろ。自分が何かを失って、どうにもならなくなった人間だと思って、その仏の前に立てるか考えてみて」
若者は頷いた。
「それでも分からなかったら?」
「戻ってきて。一緒に考えよう」
若者は頭を下げ、歩いていった。
広房は、その背中を見送った。
教えるということについて、また一つ分かった。
答えを渡さないことと、
放っておくことは違う。
そして、
問いを渡すということもある。
それが、昔の自分にはまだ分からなかった。
その夜、広房は綾に言った。
「最近、若い奴が俺のところに来るんだ」
綾は衣を畳んでいた。
「知ってる」
「どうして」
「帰ってくるのが遅くなったから」
広房は少し黙った。
自分では気づいていなかった。
「今日は一人に、古い観音を見てこいって言った」
「うん」
「昔、俺も同じことを言われた」
綾が手を止めた。
「そのころは嫌だった?」
広房は考えた。
嫌だった、というのとは違う。
知りたかったのだ。
なぜそうするのか。
どこが違うのか。
どうすればいいのか。
分からないことがあると、まず知っている人間へ聞いた。
それは今も変わらない。
ただ、いつからか、聞く前に自分の中でかなり遠くまで考えるようになっていた。
「昔は、答えがどこかにあると思ってたのかもしれない」
広房が言った。
「どこかに?」
「師匠が知ってるとか、法印が知ってるとか。古い像を見れば分かるとか」
「今は違うの?」
広房はすぐには答えなかった。
今日の二人の仏師を思い出した。
頬。
眼。
顎。
首。
衣。
一つずつ見ているうちは、違いばかりが増えていった。
慶派と院派と円派。
技も違えば、人も違う。
誰のやり方を採るのか。
どこまで揃えるのか。
どこまで違ってよいのか。
最初は、問題がいくつあるのかさえ分からなかった。
けれど、一つずつほどいてみれば、
結局は二つだった。
何を共通させるか。
何を違ったまま残すか。
そこまで整理できれば、
あとは目の前の像を見ればよかった。
「答えが最初からあるものばかりじゃないんだと思う」
広房は言った。
「考えてるうちに、自分で形にするものもある」
綾は黙って聞いていた。
「複雑に見えるものって、たぶん全部を一度に見ようとするから複雑なんだ」
「どういうこと?」
「分けるんだよ」
広房は自分の指を見た。
「何が起きているのか。何が関係しているのか。どれとどれが同じ問題で、どれは別なのか」
少し考えた。
「一度、自分なりに答えを置く。でも、それが違うかもしれないとも考える。反対から見る。別の立場から見る。それでも残るものがあれば、たぶんそこが大事なんだと思う」
綾はしばらく何も言わなかった。
「ずいぶん考えてるんだね」
「そうかな」
「そうだよ」
広房は少し笑った。
考えているという自覚は、あまりなかった。
ただ、気になるものがあると、頭の中で勝手に動き始める。
一つの見方を置く。
崩す。
別の見方を置く。
離れて見る。
近づいて見る。
それを繰り返すうち、
急に余計なものが落ちる瞬間がある。
複雑だったものが、思いのほか簡単な形になる。
広房は、あの瞬間が好きだった。
「でも」
綾が言った。
「答えが出ないこともあるでしょう」
「あるよ」
広房はすぐ答えた。
「たぶん、そっちの方が多い」
「それでも考えるの?」
「うん」
「どうして?」
広房は少し考えた。
「答えがないことと、考えても意味がないことは違うから」
綾は広房を見た。
「一つの正しい答えがなくても、前より分かることはある。何が違うのか。何を大事にしたいのか。何を選べば、何を失うのか」
それに、
答えがないと決めてしまうことほど簡単なこともない。
人それぞれ。
分からない。
仕方がない。
そう言えば、そこで考える必要はなくなる。
だが、正解が一つでないことと、
何を選んでも同じであることは違う。
少なくとも広房は、そう思っていた。
「だから考えるんだと思う」
綾が小さく頷いた。
「広房らしいね」
「そう?」
「うん」
それだけだった。
広房も、それ以上説明しなかった。
綾はまた衣を畳み始めた。
広房はその横に座っていた。
話さなくても、頭の中ではまだ思考がゆっくり動いている。
その隣に綾がいる。
以前は、考えている途中で誰かに話したくなることが多かった。
今は、まだ言葉にならないものを自分の中に置いておくこともある。
それは答えを待っているのではない。
まだ形のないものを、
いろいろな方向から眺めているだけだった。
やがて必要なら言葉にする。
必要がなければ、
そのまま消えていくものもある。
それでよかった。
歳月が進んだ。
建長から康元へ。
康元から正嘉へ。
正嘉から正元へ。
さらに文応、弘長へと年号が変わっていく。
大きな仕事の途中にいる人間は、案外その長さを実感しない。
今日の一体がある。
明日の仕事がある。
季節が変わる。
また冬が来る。
そうして気づけば、火事から十年が過ぎている。
二十四歳だった広房は、三十代半ばになった。
若い仏師たちから、
「広房さん」
ではなく、
「師匠」
と呼ばれることも出てきた。
最初のころは振り向くのが少し遅れた。
自分のことだと思わなかったからである。
そのうち慣れた。
人間は、呼ばれ方にも慣れる。
時間というものは、本人が承知するより先に、その人の立場を変えてしまうらしい。
ある日、若い仏師が広房へ尋ねた。
「慶派と院派と円派なら、どこが一番優れているんでしょう」
広房はすぐには答えなかった。
質問が悪いわけではない。
若いころの自分も、似たようなことを考えただろう。
「何を知りたい?」
「どこのやり方を学べば、一番うまくなれるのかと思って」
広房は、それなら話を整理できると思った。
若者を堂へ連れていった。
観音が並んでいる。
「上手くなりたいのと、どこかの流派を一番にしたいのは別だな」
若者は黙った。
「慶派に良いものがあれば見る。院派にも円派にもあれば見る」
「自分のところと違っても?」
「違うから見るんだ」
若者は観音の列へ目を向けた。
「でも、全部やったら自分の形がなくなりませんか」
広房は、その問いを面白いと思った。
そこまで考えたなら、
答えの半分はもう持っている。
「真似しただけなら、なくなるかもしれない」
「では」
「なぜそれがいいのかまで考える」
広房は一体の観音を指した。
「頬がいいと思ったら、頬の形だけ盗まない。なぜこの頬だとこの顔になるのかを見る。眼との関係。首との関係。身体との関係」
若者は聞いている。
「そうすると、真似するものが形じゃなくなる」
「何になるんです」
広房は少し考えた。
「考え方かな」
言ってから、自分でも納得した。
湛慶から受け取ったものも、おそらくそれだった。
鑿の動かし方だけではない。
目の前のものを、
どう見るか。
何を疑い、
何を残し、
何を捨てるか。
それを受け取ったのだ。
三つの仏所から生まれた観音たちは、
堂へ入ると一つの列になった。
近くで見れば違う。
離れれば一つになる。
その二つは矛盾しているようで、矛盾していなかった。
一体一体が違うからといって、全体が壊れるわけではない。
全体を一つにするからといって、一体一体の違いを消す必要もない。
広房には、それが少しずつ美しく思えるようになった。
人間の集まりも、本来はそうなのかもしれない。
違うものを、
同じにするのではない。
違うものが、
同じ方向を向けるようにする。
その方が、千体を一つの型に押し込むより、ずっと難しい。
だが、
出来上がったものは強い。
歳月はさらに流れた。
観音は増えた。
一体。
また一体。
漆が塗られ、
箔が押され、
堂へ運ばれる。
空いていた場所が少しずつ埋まっていった。
現在の三十三間堂には、創建時の平安期像百二十四体と、鎌倉再興期に約十六年をかけて造られた像が並んでいる。
鎌倉期像の約五百体には作者名が残る。
だが広房たちにとって、それは後世の「史料」ではない。
ただの日々だった。
暑い日がある。
寒い日がある。
弟子になる者がいる。
工房を去る者がいる。
子供が生まれる。
親が死ぬ。
腕を痛め、鑿を置く者もいる。
その間にも、
観音は増える。
建長。
康元。
正嘉。
正元。
文応。
弘長。
そして文永。
年号だけを並べれば、歴史は簡単である。
人間にとっては、
その一つ一つに春と夏と秋と冬があった。
文永三年。
一二六六年が近づいていた。
火事から十七年。
二十四歳だった広房は、四十を越えていた。
ある夕方。
広房は一人で堂の中を歩いた。
まだすべての仕事が終わったわけではない。
だが、空いている場所は以前とは比べものにならないほど少ない。
百二十四しか残らなかった観音が、
再び千へ近づいている。
広房は立ち止まった。
一体を見る。
その隣。
そのまた隣。
どれが誰の仕事か、すべてを知ることはできない。
慶派。
院派。
円派。
平安。
鎌倉。
すでに死んだ者。
いま生きている者。
すべてが同じ壇上に並んでいる。
広房は、十七年前の自分を思い出した。
あのころは、
「元に戻す」のだと思っていた。
焼けたものを造り直す。
失った数を取り戻す。
百二十四を、
また千へ戻す。
だが今は、
違うと思う。
失ったものは戻らない。
焼けた八百七十六体は二度と戻らない。
八十五年前の仏師も戻らない。
湛慶も戻らない。
火事の前の師匠も、
綾も、
自分も、
もういない。
人間は生きている限り、
以前と同じ人間ではいられない。
では、
この十七年間に自分たちは何をしてきたのか。
広房は観音の列を見た。
残った百二十四体を捨てなかった。
その隣へ、新しい像を置いた。
古いものだけに戻ろうとはしなかった。
新しいものだけにも置き換えなかった。
異なる時代を、
同じ壇上に並べた。
それなら、
再建とは過去へ戻ることではないのだろう。
残ったものを抱えたまま、
そこへ新しいものを足し、
前とは違う形で先へ進むことなのかもしれない。
広房は、その考えをいくつか別の方向から眺めてみた。
火事がなければ生まれなかった像がある。
湛慶がいなければ生まれなかった顔がある。
院派がいなければ、
円派がいなければ、
今ここにある千体の姿にはならなかった。
失ったことを良かったとは思わない。
そんなものは欺瞞である。
焼けなければ、それに越したことはない。
だが、
失ったあとに何をするかは、
残った人間が決めることができる。
そこまで考えて、
広房はもう一度、観音を見た。
今の自分には、
それが一番矛盾の少ない答えに思えた。
誰かに確かめる必要はなかった。
正しいと証明できるわけでもない。
十年後には、
また違うことを考えるかもしれない。
それでも、
今はこれでいい。
堂の外では、
夕日が長い屋根を照らしていた。
十七年前、
同じ場所で見たのは火の色だった。
今は、
同じ赤でも違う。
広房はしばらくその光を見ていた。
完成まで、
あとわずかだった。
――第三部「八百七十六」第三章 了
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あなたの想いが、この旅の続きを綴る灯となります。