アラフィフ|ADHD|ホップの気づき|完璧だった頃の自分
自己肯定の根を揺るがす、はじめての挫折を見つめて
秋が深まり、空気が澄んでくると、人の心の輪郭もはっきりと見えてくる気がする。今日は少し重いテーマかもしれないけれど、私の周りで起きた出来事をきっかけに考えたことを、静かに書いてみたいと思う。
優等生の影
知り合いの会社の子が、ある日突然会社に来なくなった。
理由は「適応障害」だと後から聞いた。彼女は入社以来、ずっと成績優秀で、上司からの評価も高く、誰もが認める「できる人」だった。そんな彼女が、あるプロジェクトでの小さなミスをきっかけに、みるみる様子がおかしくなっていった。最初は些細な報告漏れだった。それが次第に大きな判断ミスへと広がり、やがて彼女は出社できなくなった。
私はその様子を少し離れた位置から見ていて、ある違和感に気づいた。彼女が崩れていく様子は、まるで最初からそこに亀裂があったかのように、あまりにもあっけなかったのだ。

もう一人、大学時代の友人も似たような経緯で心を病んだ。彼は高校時代から学年トップで、有名大学に現役合格し、就職も一流企業に決まった。けれど入社3年目、会社の都合で転籍したとき、彼は立ち上がれなくなった。「自分は本当は何もできない人間だったんだ」と、電話口で繰り返していた声を、今でも覚えている。
二人に共通していたのは、若い頃からずっと「成功」しか知らなかったということだった。
失敗のない人生
勉強ができる子は、周囲から褒められる。テストで良い点を取れば親が喜び、先生が認め、友人が羨む。その積み重ねが、いつしか「自分は優秀だ」という自己認識を作り上げる。
けれどそれは、本当の意味での自己肯定だっただろうか。
私が見てきた彼らの姿を思い返すと、むしろそれは「条件付きの承認」だったように思える。良い成績を取るから認められる。ミスをしないから褒められる。その構造の中で育った自己像は、実はとても脆い。なぜなら、それは「できる自分」にしか価値を見出していないからだ。
そして人生には、どうしても「できない瞬間」が訪れる。
完璧に準備しても、予期せぬトラブルは起きる。努力しても、結果が出ないこともある。他人と比較されて、劣っていると感じる場面も避けられない。そのとき、「できる自分」しか受け入れてこなかった人は、自分の存在そのものを否定してしまう。まるで今まで積み上げてきたものが、一瞬で崩れ落ちるかのように。
それは過大評価されてきた自分と、現実の自分との、激しいギャップでもある。
挫折という名の現実
初めての大きな失敗は、人によって訪れる時期が違う。
小学生のうちに経験する子もいれば、社会に出てから初めて直面する人もいる。けれど、遅ければ遅いほど、その衝撃は大きくなる。なぜなら、「失敗しない自分」でいた期間が長ければ長いほど、その自己像は強固になり、崩れたときの喪失感も深くなるからだ。
私の周りでメンタルの不調に陥った人たちを振り返ると、皆、はじめての挫折に耐えられなかったように見える。それまでの人生があまりにも順調すぎたから、「うまくいかないこと」が異常事態に思えてしまったのではないか。

けれど現実には、人生は「いいことばかり」ではない。
失敗もするし、期待を裏切られることもある。自分が思うほど評価されないことも、理不尽な扱いを受けることもある。それが普通で、誰もが経験していることなのだと、頭では理解できても、心が追いつかない。
そして何より厄介なのは、「考え方を変えればいい」と言われても、その切り替えがうまくいかないことだ。周囲は励ます。「そんなに深刻に考えなくていい」「誰にでもミスはある」と。けれど当人にとっては、それは自分の存在価値を揺るがす一大事なのだ。その温度差が、さらに孤立感を深める。
根にあるもの
では、なぜ彼らはそこまで追い詰められてしまうのか。
私はそこに、もっと根本的な何かがあるのではないかと感じている。それは「尊厳が成果に紐づいていた」ということだ。
自分の価値が、できること・達成することに依存している状態。それは、自分を「人として」ではなく、「機能として」見ている状態に近い。機能が果たせなくなったとき、自分には価値がないと感じてしまう。それは、あまりにも過酷な自己認識だ。
本来、人の尊厳は、何かを成し遂げたから得られるものではない。ただそこに存在しているだけで、すでに持っているものだ。けれど、褒められ、評価され、比較され続けてきた環境の中では、その感覚を育てる余地がなかったのかもしれない。
「できない自分」を受け入れる力――それは、もしかしたら幼い頃からの小さな失敗の積み重ねの中で、少しずつ育つものなのかもしれない。
転んで痛い思いをする。テストで思うような点が取れない。友達と喧嘩して仲直りする。そういう「うまくいかない経験」が、実は自分を守る免疫のようなものを作っていたのではないか。失敗しても、自分は消えない。価値がなくなるわけでもない。その感覚を、体で覚えていく過程。
それを経ずに大人になった人は、初めての大きな挫折に対して、心の準備ができていない。だから、一度のミスが致命傷のように感じられてしまう。
不完全な私たち
では、どうすればいいのか。
正直に言えば、私にも明確な答えはない。けれど少なくとも言えるのは、「完璧でなくていい」という感覚を、もっと日常の中に馴染ませていく必要があるということだ。
「見守り」という距離感も、ここでは大切になる。誰かが失敗したとき、すぐに助けるのではなく、少し見守る。本人が自分で立ち上がるのを待つ。その余白が、「失敗しても大丈夫」という体験を生む。
そしてもう一つ、「受容」の境界を知ることも必要だと思う。自分が完璧でないことを認める。他人も完璧ではないと受け入れる。その上で、それでも関係は続いていくという安心感を持つこと。
私の知人たちも、今はゆっくりと回復に向かっている。時間はかかるけれど、彼らは少しずつ「できない自分」とも向き合い始めている。それは苦しいプロセスだけれど、同時に、新しい自分と出会う過程でもあるのだと思う。

完璧だった頃の自分を手放すことは、喪失ではなく、本当の自己肯定への第一歩なのかもしれない。できてもできなくても、自分は自分。その感覚を、静かに育てていくこと。
それが、挫折から立ち上がるための、もっとも根本的な力になるのではないかと、私は思っている。
ここに書いたのは、私のひとつの考え方です。
違っていても大丈夫。小さな気づきがあれば十分。
今日もどうか、あなたらしく、自分をかわいがってください。
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過大評価
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