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剥きだしの反逆『OXANA/裸の革命家 オクサナ』を観て

人間の割りきれない複雑な内面を描く映画は、いつだって静かな劇場の中でひっそりと上映している。わたしはそんな映画が好きで、ひとり静かに映画館へ足を運ぶことが多い。
(ただ、最近は色々と気持ちが疲れ気味なので、パッと明るい映画もいいなと思っている…)

フランスの女性監督、シャルレーヌ・ファヴィエが来日したとき、話しを聞ける機会があった。今回は、監督の話からつながる映画鑑賞について綴ってみたい。


1.映画作りに携わる女性たち

表参道にあるアニエスベーのギャラリーブティックは、様々なアーティストの展示会に使われている。

アニエスベーギャラリーブティック

もう数か月前になるが、このギャラリーで、映画作りに携わる4人の女性(ヴァレンティンヌ・カディック監督、シャルレーヌ・ファヴィエ監督、西川美和監督、福間美由紀プロデューサー)の話を直接聞くことができた。

このとき、ファヴィエ監督の『OXANA(裸の革命家、オクサナ)』は公開されたら観に行こうと決めていたのだ。

左から、福間美由紀プロデューサー、ヴァレンティンヌ・カディック監督、シャルレーヌ・ファヴィエ監督、西川美和監督

2.映画界の複雑さ

監督は、映画業界に女性監督は増えつつあるが、まだまだ男性優位の世界であり、ヒット作を出す女性監督はほぼいないと語っていた。

そもそも女性監督が描きたい、挑みたい(挑まざるを得ない)と考える作品というのは、「人間の複雑な内面」「痛みを伴うような社会的テーマ」「人間の矛盾する感情」「個人の魂の揺らぎ」などという繊細で奥深いものであることが多いという。こう考えると、やはりミニシアター系だ。
(ただ、こういう作品は女性監督に限らないとは思うけれど…)

それに対し、ヒット作をとばす監督に多い傾向としては、「派手なアクション」「勧善懲悪」「明確なストーリー」などであり、多くの観客を動員しやすいという。

おのずと、資金提供の面でも格差が出てしまうのは現実だろう。

個人的には男性女性関係なく、人の内面を深く抉った作品を好むので、どうしてもミニシアターに足を運ぶことが多くなってしまう。わたしが純文学を好むのもこういう理由から。

歴代の映画、若い監督たちの姿

監督からこのような話を聴いた上で、今回『OXANA』を鑑賞したわけだが、振り返ってみると、オクサナが男性優位の社会で闘ってきた姿は、ファヴィエ監督をはじめとする女性監督たちが、映画界で闘っている姿に重なってくるようであった。

3.オクサナ・シャチコ

案の定、『OXANA(オクサナ、裸の革命家)』は、公開規模が限られ公開期間も短かった。映画館によっては現在も公開されている。
わたしは新宿のミニシアターに足を運んだのだが、小さい劇場の中に数人の観客しかおらず、さびしいものだった。この日がたまたま少なかっただけなのだろうか…
今思えば、この感じが、これからスクリーンで観るオクサナの孤立を予感させるものだったのかもしれない。

そもそも、オクサナ・シャチコという日本人にとってはあまり馴染みのない人物を主人公としているので仕方ないことなのかもしれない。
おそらく、オクサナに共感できるという人は少数だろう。わたし自身、彼女にすべてを共感するのは難しい。しかし、彼女の勇気と孤独は理解したい。そして彼女がもたらした社会的変化は確かにあったはずなのだと信じている。

オクサナ・シャチコ本人(wikipediaより)

見ての通り、オクサナはトップレスで過激な抗議活動をする。フェミニストとして活動をする「FEMEN」の創始者であり、自らの身体を武器に社会へ反抗する。すでに彼女はこの世から去ってしまったが、「FEMEN」自体は現在も活動を続けている。

驚いたのは、演じていたアルビーナ・コルジが、オクサナとそっくりに見えたこと。ほくろの位置まで同じだったが、あのほくろは作り物だったのだろうか。

アーティストでもあるオクサナ(アルビーナ・コルジ)

4.深い理解が難しい現実

多くの日本の視聴者は、オクサナのことを「すごいな~」「よくここまでできるな~」など、遠い存在として思うだろう。深い部分で彼女を理解する人は、なかなかいない気がする。それは幸せなことなのかもしれない。

オクサナがこうなった背景には、ソ連崩壊後のウクライナ独立からだ。そこには圧倒的な男尊女卑や貧困があった。ウクライナは、外国人観光客からのセックスツーリズムの標的にされていたともいう。映画の中でも、「女性は結婚するか娼婦になるかしか選択肢がない」と言っていた。
個人の尊厳を踏みにじる環境が日常的であり、そこから彼女の地獄のような叫びが生まれた。こうして2008年、ウクライナのキーウで「FEMEN」が誕生した。

一方で、現代の日本は、様々な問題は山ほど抱えつつも、表面的な治安は安定しているので、命の危険を感じながら国家に反抗しなければならない局面とはいえないだろう。

圧倒的な土壌の違いから、わたしたちはオクサナを遠い存在の革命家としてしか受け入れることができないのではないか。
表面的であっても、平穏な日常が送れる環境にいることは幸せなことだ。

5.世界から放り出されたオクサナ

こう考えると、オクサナの苦悩や孤独は、遠くに距離を置いて見てしまうわたしたちには埋めることができない。誰も深く共感してくれないし理解してくれない。この映画でうったえたいのは、そういう部分なのかもしれない。

過激な抗議スタイルに注目を集めるが、その裏には数々の地獄の屈辱があった。その過程は小説の中のフィクションのようで誰からも理解されない。
だから、チラシに書かれているように「やがて、世界から放り出された」のかもしれない。

映画のフライヤー(チラシ)


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