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【月に還る】信濃の国4番と木曽11宿場

月を探して(前編)


🌙

 佐伯恒一は、月に不思議な魅力を感じていた。

 それがいつから始まったのか、恒一自身にもよく分からない。

 子どもの頃から月を眺める習慣があったわけでもない。

 月にまつわる本を集めていたわけでもなければ、

 天文学に興味があるわけでもなかった。

 それでも、月を見ると、なぜか心が静かになった。

 満月……というわけでもない。

 むしろ、恒一が好きなのは、少し欠けた月だった。

 輪郭の一部だけが夜空に浮かび、残りの部分は暗闇の中に溶けている。

 細い月が、まだ明るさの残る空に浮かんでいることもある。

 そんな月を見ると、恒一はしばらく立ち止まった。

 東京に住んでいると、空を見上げること自体が少なくなる。

 ビルがある、電線がある、看板がある。

 夜になっても街は眠らない。

 それでも月は、出ていた。

 高層ビルの向こうから現れ、建物の隙間を通り抜けるようにして見える。

 恒一には、そのことが少し滑稽だった。

 人間がどれだけ街を作り変えても、月だけは昔と同じようにそこにいる。

 そんなことを考えると、仕事で凝り固まった頭が少しだけ緩んだ。


🌙

 最近、恒一は仕事に疲れていた。

 朝起きて、仕事へ行く。

 人と話し、メールを確認し、いくつもの判断をする。

 一つ終われば、また次が来る。

 仕事をしている間は、それほど疲れているとは思わない。

 ところが家に帰ると、その疲れが一気に身体に現れた。

 靴を脱いで、鞄を置く。

 スマートフォンを眺めているうちに時間だけが過ぎていく。

 そんな生活が、いつからか当たり前になっていた。

 ある夜、恒一は帰宅してからカーテンを開けた。

 窓の外に月があった。

 少しだけ雲がかかっていた。

 雲が月の前をゆっくり通り過ぎるたび、月の明るさが変わる。

 恒一は椅子に座ったまま、それを眺めていた。

 時計を見ると、かなり遅い時間になっていた。

 明日のことを考えれば、もう寝たほうがいい。

 そう分かっている。

 それでも、月を見ていた。

 不思議なものだと思う。

 月までの距離も、科学的には分かっている。

 月が地球の衛星であることも知っている。

 太陽の光を反射して輝いていることも知っている。

 それなのに、月を見ていると、

 そうした知識とは別のところで何かを感じる。

 説明できないもの。

 遠いのに近いもの。

 ずっと昔から人間が見上げてきたもの。

 恒一は、そういうものに惹かれていた。

 「……月を見に行くのも、いいかもしれないな」

 旅行に行きたいという気持ちは、以前からあった。

 遠くへ行ってみたい。

 知らない場所へ行ってみたい。

 できれば、東京の明かりから少し離れたところで、夜空を見てみたい。

 ただ、それを実際に計画するほどの余裕はなかった。

 ところが、その夜は違った。

 恒一はスマートフォンを手に取った。

 検索欄に文字を入れる。


 「月が綺麗に見える場所」


 検索結果がいくつも表示された。

 全国には、夜空を見ることを目的に訪れる場所が思っていた以上に多かった。

 いくつかのページを開いていった。


 ……長野


 長野県には、星空で知られる阿智村もある。

 写真を見る。

 暗い山あいに広がる夜空。

 都会では見ることのできないほど多くの星。

 恒一は画面を指でゆっくり動かした。

 「いいな……」

 旅行そのものが目的でもよかった。

 月を見る。

 星を見る。

 温泉に入る。

 昼間は知らない町を歩く。

 夜になったら空を見上げる。

 それくらいの旅でいい。

 そうしていくつものページを眺めているうちに、

 恒一は一つの言葉に目を止めた。

 長野県の地名らしい。

 月と関係があるらしい。

 それだけだった。

 恒一は、その言葉を検索した。


 姨捨


 おそらく「おばすて」と読むのだろう。

 だが、「姨」という字を、恒一は普段ほとんど見たことがなかった。

 何という意味なのだろう。

 どんな字なのだろう。

 そして、なぜこの場所は「姨捨」という名前なのだろう。

 月の名所を探していただけなのに、突然、奇妙な名前に出会った。

 検索欄に、

 「姨 意味」

 と入力した。

 そこから、いくつかの言葉が出てきた。

 さらに、

 「姨捨 由来」

 と検索する。

 今度も、たくさんの情報が出てきた。


 ……

 田毎の月

 姨捨伝説

 ……


 恒一は、一つずつ読んでいった。

 どうやら「姨捨」という場所は、単に月がきれいに見える場所というだけではないらしい。

 古くから月の名所として知られていた。

 そして、そこには伝説があった。

 それは、少し胸の痛くなる物語だった。

 一方で、この場所は古くから月と結びつき、歌にも詠まれてきた。


 「なんだか、不思議な場所だな」


 恒一は思った。

 美しい月と、悲しい名前。

 その二つが同じ場所にある。

 それが妙に気になった。

 さらに調べていくと、「田毎の月」という言葉が出てきた。

 棚田の一枚一枚に月が映るように見えることから生まれた言葉だという。

 写真には、山の斜面に沿って、小さな田が幾重にも並んでいた。

 昼間の写真、夕暮れの写真、そして夜の写真もあった。

 月が田に映っている。

 一枚の田に月がある。

 その隣の田にも月がある。

 さらにその向こうにも月がある。

 もちろん、実際に一つの月がいくつにも分かれているわけではない。

 田の水面が鏡のように月を映しているだけだ。

 けれど、それを「田毎の月」と呼んだ人の感覚が、恒一には面白かった。

 その人には田んぼ一枚一枚に月があるように見えたのだ。

 そう考えると、風景の見え方まで変わってくる。

 恒一は、もう一度写真が並ぶ画面を見た。

 その一枚に駅が映っているものがあった。

 小さい字で駅名が書いてあった。


 姨捨駅


 「駅があるんだ」

 今度は駅について調べた。

 鉄道の写真が出てきた。

 山の斜面にある駅。

 ホームから見える広い景色。

 その向こうに広がる善光寺平。

 そして、列車が通常の駅とは少し違った動きをすることも知った。

 スイッチバックと言うらしい。

 列車がそのまま進むのではなく、

 いったん進んだ方向から戻るようにして進路を変える。

 「へえ……」

 鉄道が特別好きだったわけではない。

 だが、なんとなく面白くなってきた。

 月を見に行きたいと思って調べていた。

 その途中で、たまたま「姨捨」という地名を見つけ、

 その漢字が気になって、由来を調べて、

 棚田のことを知って、駅のことまで調べている。

 いつの間にか、恒一は旅行先を探しているというより、一つの土地について知ろうとしていた。


🌙


 時計を見る。

 かなり遅くなっていた。

 スマートフォンを置こうと思ったが、指はまだ画面を動かしていた。

 恒一は窓の外を見た。

 月が、まだ見えていた。

 同じ月なのだろう。

 東京から見ても、姨捨から見ても。

 月そのものは変わらない。

 だが……

 やはり、旅に出よう。


🌙


 翌日、会社でいつもの仕事をしながらも、

「姨捨」という二文字が頭の片隅に残っていた。

 昼休みに、また検索した。

 歴史をたどるほど、

 この場所が単純な観光地ではないことも分かってきた。

 古くから人が歩いてきた土地には、歌が詠まれてきた。

 田が作られ、人がそこで暮らしてきた。

 その上を、今は列車が走っている。

 自分が普段暮らしている東京にも、

 同じように長い時間が積み重なっている。

 ただ、東京では建物が多すぎて、それを意識することが少ない。

 新しい建物が建ち、古い建物がなくなる。

 道路が変わり、駅が変わる。

 姨捨のスイッチバックも、いつかはなくなってしまうのだろうか。

 数日後、恒一は会社の休暇予定を確認した。

 それほど長い休みは取れない。

 だから、最初は一泊か二泊でいいと思った。

 姨捨へ行って月を見る、それだけでいい、

 そう思っていた。

 だが、行き先を調べているうちに、

 地図の上に長野県の輪郭が見えてきた。

 松本……

 その文字を見たとき、恒一の手が止まった。

 「……松本」

 何かを思い出しそうになった。

 ただ、はっきりした記憶もなかった。

 しばらく画面を見つめていた。

 そして、ふと、自分の母親から昔聞いた話を思い出した。

 そうだ、自分は松本で生まれたんだった。

 正確には、浅間温泉。

 だが、それ以上のことは、ほとんど知らない。

 自分が生まれた場所。

 それだけだった。

 幼い頃から記憶は、東京のほうがずっと多い。

 幼稚園も、学校も、仕事も、東京だった。

 生活のほとんどは東京にあった。

 だから、松本は故郷と呼ぶには少し遠く、

 かといって完全な他人の土地とも言えなかった。

 自分が生まれた場所なのに、自分の中にほとんど記憶がないことを

 恒一は今まであまり深く考えたことがなかった。

 地図を見ると、線でつながっている。


 「……行ってみようか」


 まだ旅の全体像は考えていなかった。

 姨捨を見て、それから松本へ行ってみよう。


🌙


 その夜、

 恒一はもう一度、窓の外を見た。

 月が出ていた。

 いつもと同じ月だった。

 違う月が見てみたい。

 旅に出る理由としては、それで十分な気がした。


 🌙


 数週間後、

 恒一は東京駅のホームに立っていた。

 大きな荷物は持っていなかった。

 着替えと、財布と、スマートフォン。

 そして、少しだけ旅をするための時間。

 東京駅の構内には、いつものように人が多かった。

 それぞれが、それぞれの目的地へ向かっている。

 恒一も、その中の一人だった。

 数週間前までは、知らなかった土地、

 それが今、自分の旅の最初の目的地になっている。

 新幹線が入ってくる。

 恒一は乗り込んだ。

 座席に腰を下ろし、窓の外を見る。

 東京の街が動き始める。

 ビルが流れていく。

 道路が流れていく。

 やがて東京の景色が少しずつ遠ざかっていく。

 恒一は、窓に頭を預けた。

 月を見るために探し始めた旅だった。

 だが、この旅で自分が見ることになるのは、月だけではないだろう、

 そんな予感がしていた。

 山も、川も、町も、森も、人の暮らしも。

 そして、自分自身がこれまで知らなかった「故郷」も。


 列車は、長野へ向かって走っていた。


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