見出し画像

「世界哲学史」は、西欧中心主義のグローバル化ではないのか?

「世界哲学史」は、西欧中心主義のグローバル化ではないのか?


 なかなか梅雨が明けないといぶかしく思いながら、アマゾンで本を探していると、『アフリカ哲学全史』というタイトルが目に飛び込んできました。これはすごいタイトルだなあ、と思いつつ、あの巨大な大陸を通底する哲学があったのだろうか、と思案していると、今度は『世界哲学史』というシリーズが画面のはしの方に映っていました。これらの本はいずれも、筑摩書房から出ているのですが、最近はこういった「広域哲学」(?)のようなものがトレンドなのかな、と思いましたが、ふと、かつてハイデガーが、『哲学とは何か』(Was ist das — die Philosophie? 1956年)の中で、「哲学」とはそもそもギリシア的なもので、それは結局、西欧哲学に他ならない、と主張していたことを思い出しました。
 こういった「哲学」における普遍主義と個別主義の問題について、以下、スペインとロシア、そして日本とルーマニアという、西ヨーロッパ(の中心部)とは異なる地域で、西ヨーロッパ文明がどう受け取られてきたのかを示す幾つかのテキストについて、少し見てみたいと思います。
 なお、このエッセイでは、わたしの意見は必要最小限に絞って、以下のテキストが読みやすいように、いくつか補足するにとどめています。
 
 この問題を考えるためには、上掲のハイデガーの著作と、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読み比べてみることをおすすめします。この書物の中で、フッサールは、かなり素朴な「ヨーロッパ中心主義」の立場に立っています。
 また、ドゥルーズ=ガタリの『哲学とは何か』、およびこの書を受けて書かれた、ガシェの『地理哲学』は、哲学と土地との不可分の結びつきを、詳細に論じています。

1 スペイン:Miguel de Unamuno (1864-1936)

まず、
Unamuno の、絶望と屈折が入り混じった感情を見てみることにしましょう。

・・・われわれほとんどすべての人が、わが国民に対して要求してきたことのすべては、次の二つの言葉に要約されるのである。すなわち「europeo」(ヨーロッパの・ヨーロッパ人)と「moderno」(近代の・近代人)というのがその二つの言葉である。「われわれは近代人でなければならない」、「われわれはヨーロッパ人でなければならない」、「近代化しなければならない」、「時代と共に歩まねばならない」、「ヨーロッパ化しなければならない」、以上のようなことがわれわれの話題であった。
・・・・・
 私は近代ヨーロッパ文化のさまざまな分野を何年間も渡り歩いた後で自分自身のところに戻ってきた。
 私は独りになって自分の良心に訊いてみる「私はヨーロッパ人だろうか、私は近代人だろうか」と。すると良心が答える「いやお前はヨーロッパ人ではない、いわゆるヨーロッパ人と呼ばれているものではない。お前は近代人ではない、いわゆる近代人と呼ばれているものではない」と。それで私は再び自問する。「私がヨーロッパ人だとも、近代人だとも感じないのは、もしかすると、私がスペイン人であることから来ているのだろうか。われわれスペイン人は、根本において、ヨーロッパ化したり、近代化したりすることが出来ないのだろうか。もしそうだとした場合、われわれには救いがないのだろうか。近代的でヨーロッパ的な生活以外には、生活はないのだろうか。それ以外の文化といったようなものはないのだろうか」と。
・・・・・

 他人を手本にして自己を形成しようとする者が非難されるのは、その人間が自分自身であることを放棄しながら、手本とした他人になることが出来ず、結局は、何者にもなりえないからである
 確かに近代ヨーロッパ文化とヨーロッパ的近代精神の中には、われわれがさまざまな動物の肉を体内に摂り入れ、それを自分の肉と化するように、われわれの肉と化すべく積極的に摂り入れた方がいいものが幾つか、いや沢山ある。(・・・)われわれは近代ヨーロッパ精神を喰べてはならないのか。いや、喰べるべきである。われわれは、栄養源としている牛や豚や魚や鳥を喰べる前に、まずそれらを殺して自分たちの支配下に置くが、それと同じように近代ヨーロッパ精神の場合も、それを喰べる前にまず殺すようにしなければならないのだ。(・・・)

 私は、深いところから行われるスペインのヨーロッパ化、すなわち、ヨーロッパ精神の中から、われわれの精神と化しうるものを消化することは、われわれが、ヨーロッパ精神の諸分野において自己を押しつけ、彼らの精神を摂り入れるのとひきかえに、紛うかたないわれわれの精神を、彼らに飲みこませるまでは、つまり、われわれが、ヨーロッパをスペイン化しようとするまでは、決して始まらないだろうという心底からの信念を持っている。

 だが私は、今日このようなことを言うことに羞恥と無力を感じる。というのは、スペイン人は心の中では、ヨーロッパに入ることを願っており、つまり文学者を例にとれば、自分の作品が翻訳されることを望んでおり、しかもその際に、彼が心していることは自分を変形すること、つまり非スペイン人化すること、外面的な言語である言葉以上のものを翻訳させないことだからである。そういうわけだから、現代スペイン小説のある翻訳が話題になったとき、フランス語訳の方がスペイン語の原書よりも良くなっている、と断言しながら語った、あるフランス人の言葉のようなことがよく耳にされるのである。つまりそのフランス人は、私に向ってこう言ったのだ。「あの作品は元の言葉にもどされた」と。

以上、Sobre la europeización, 「ヨーロッパ化について」1906
桑名一博訳『スペインの本質』法政大学出版局 pp.331-352

Ortega y Gasset (1883-1955)
 
 ウナムーノがある種、土着主義的ともいえる傾向を示す点で、ロシアにおけるスラヴ派(後記)と類比的であるのに対し、西欧派に近いのが、ウナムーノより一世代後のオルテガです。例えば、『大衆の反逆』(La rebelión de las masas, 1930) の終盤で、彼は次のように述べています。

 今日もし我々が、我々の精神内容――意見、規範、願望、想像――の決算書を作ったとすれば、それらの大部分がフランス人の場合はフランスから、スペイン人の場合はスペインからもたらされたのではなく、ヨーロッパという共通の背景から来ていることに気づくだろう。確かに、今日の我々一人一人の内においては、フランス人、スペイン人等々といった他国人と違った部分よりも、ヨーロッパ人として共通して持っている部分の方が広い場所を占めている。
 今や「ヨーロッパ人」にとってヨーロッパが国民国家的概念になりうる時期が到来している。(・・・)西欧の国民国家は自己の真の本質に忠実であればあるほど、ますますまっしぐらに巨大な大陸国家へと発展して行くだろう。

桑名一博訳『オルテガ著作集2』白水社 pp.240-241

 EUは、将来、どうなっていくのでしょうね?
では次に、ロシアとヨーロッパの関係を考えてみましょう。

2 ロシア:Fyodor Dostoyevsky (1821-1881)

『作家の日記』の本号(1880年の唯一号)の主なる内容をなす、次に掲げるプーシキン〔1799-1837〕とその意義に関する私の演説は、本年6月8日、ロシア文学愛好者協会の大会で、多数の聴衆の前でなされ、多大な印象を与えたものである。その席上、私のことを、スラヴ主義の指導者のごとく見なされていると言ったイヴァン・セルゲーエヴィチ・アクサーコフは、私の演説を「一つの事件である」と演壇から声明した。私がこのことを想起するのは自慢のためではなく、次のことを声明したいがためである。もし私の演説が「一つの事件」であるとすれば、それは後段に述べるような、ただ一つの見地からのみ言い得ることである。私がこの前書きを書くのも、それがために他ならぬ。その演説の中で、私は特に、ロシアに対するプーシキンの意義に関して、次の四か条を指摘したいと思ったのである(省略)。

以下、第1-3節省略
 
4 ・・・・・
 私はあの演説の中で、自分がロシア国民を経済的、あるいは科学的栄光の方面で、西欧諸国民と比較しようとするのではないことを、特に強調したのである。私はただロシア人の魂、ロシア民衆の天才は、おそらく他のいかなる国民よりも、全人類的結合、同胞愛の理念を、最も多く内蔵する力を有している、と言っただけである。敵をゆるし、相異なるものを識別してこれを寛恕し、矛盾を除き去る冷静な見方、これがロシア民衆に最も多く見られるものである。それは経済的だとか何とかいうものではなく、単に精神上の特質にすぎないので、これがロシア民衆の中に存していないなどと否定したり、論駁したりできる者が、誰かあるだろうか?
 ロシアの民衆は、単に蒙昧な大衆であって、民衆を高みから見下ろしているわがヨーロッパ的知識階級の進歩と発達とに、経済的に奉仕する運命を担っており、彼ら自身の内部には、単に死のごとき蒙昧を蔵しているのみであるから、何一つ期待することもできなければ、全然何らの希望もかけることができないなどということを、果たして誰が断言できようか?残念ながら、多くの者はこのように断言しているが、私はそれと反対のことをあえて声明したのである。繰り返して言うが、私は自分で自ら名づけたところの「この私の空想」を、十分に委曲を尽くして論証することはできなかったけれども、それを指示しないではいられないのだ。
 経済的・公民的に西欧と肩を並べ得るようになるまでは、わが貧しい混沌たる国土が、そのような高邁な希求を持つはずがないと断言するのは、ただもうバカバカしいことというよりほかない。国民精神の根本的・道徳的な宝は、少なくとも、その基礎的本質においては、経済力などには依存しない。わが貧しい混沌とした国土〔の住民〕は、その最上層を除くほか、完全に一体をなしている。8000万の住民全部〔ヨーロッパロシアの人口〕は、もちろん、ヨーロッパのどこにもないような、またありえないような精神的結合体をなしているので、ただこの点のみから見ても、わが国土が混沌としている、とは言えないし、厳密な意味では、貧しいとさえ言えないほどである。
 
 それどころか、ヨーロッパでは、あれほど富の蓄積されているヨーロッパでは、各国の公民的基礎が完全に蝕まれて、明日にも永久に跡形なく崩壊しつくし、そのかわりに、以前のものとは似ても似つかぬ、前代未聞の何ものかがやってくるかもしれないのだ。ヨーロッパの蓄積したすべての富も、その崩壊を救うことはできないだろう。なぜなら、「一瞬にして富も消滅せん」だからである。にもかかわらず〔西欧派は〕、この蝕まれ毒された彼らの公民的組織を、わが民衆の、憧れ求むべき理想として指し示し、この理想を獲得した後に、初めてヨーロッパに向かって、何なりと自分の言葉を発することができる、とこう言うのである。ところが我々は、愛と結合の精神力を内蔵し保持することは、現在の我々の貧しい経済力でもできる、と断言するのである。否、現在どころか、もっとひどい赤貧状態でもできるほどである。この精神力はバトゥ〔抜都:チンギス=ハンの孫〕の侵入後とか、ただ民衆の結合精神のみがロシアを救った混乱時代〔1604-1613〕の、壊滅後のごとき赤貧状態でも、よくこれを保持し、内蔵することができたのである。

 また最後に、人類を愛する権利、一切結合の精神を抱く権利を有し、他民族が自分たちに似ていないからという理由で、これを憎まないだけの能力を有するためには、また、自分だけが一切を獲得して、他民族はレモンのようにただ搾取さえすればいいという目的で、おのれの国民性によって他国に対して城壁をめぐらすような野望を抱かないためには(こういった気持ちの国民は、たしかにヨーロッパに現存しているのだ!)、これら一切の目的を達成するためには、まずあらかじめ富強な国民となって、ヨーロッパ的公民制度を移植する必要があるとしても、我々は果たしてこのヨーロッパ的組織を、奴隷的に模倣しなければならないのだろうか?(しかも、この組織はヨーロッパでは、明日にも崩壊するのだ。)
 
 それでも、ロシアの公民組織は、自分自身の有機的な力によって国民的なものに発達することが許されず、是が非でも下男的態度でヨーロッパを模倣しながら、無人格にならなければならないのだろうか?それでは、ロシアの組織はいったいどこへやったらいいのだろう?果たしてこれらの諸君は、組織とは何であるかを理解しているのだろうか?それでいてなお、自然科学などを云々しているのだ!
 「そんなことは民衆が許さない」と二年ばかり前、ある人がある事柄について、一人の猛烈な西欧主義者に言ったことがある。
 「それなら、民衆を撲滅してしまえ!」と、その西欧主義者は荘重な調子で、落ち着き払って答えた。しかも、その男は誰あろう、わが知識階級の代表者の一人である。この逸話は間違いのない話である。

 私は、以上の四か条によって、我々にとってプーシキンがいかなる意義を有するかを明らかにした。そして、繰り返して言うが、私の演説は人々に印象を与えたのである。この印象は私の手柄でもなければ(この点を力説しておく)、叙述の巧妙なためでもなく(その点は、私に反対の側の人々に同意を表わして、決して自慢などしない)、ただ私の真摯さと、演説が短く不完全であったにもかかわらず、私の提出した事実が、あえて言うけれど、否みがたい真実を蔵していたことによるのである。しかし、イヴァン・セルゲエヴィチ・アクサーコフのいわゆる「事件」なるものは、果たしていかなる点に含まれているのか?
 
 他でもない。いわゆるスラヴ主義者、あるいは別名「ロシア党」(ああ、何ということか、わが国には「ロシア党」が存在するのだ!)が、西欧派との和解に向かって大きな、おそらく最終的な一歩を踏み出した点に含まれているのだ。
 なぜなら、スラヴ主義者たちは、西欧派のヨーロッパに対する憧憬が正しいものであること、彼らの最も極端な熱中や結論さえもが、まったく正当であることを声明し、その正当なるゆえんを、国民精神に合致する純ロシア民衆的な憧憬によって説明したからである。また彼ら〔西欧派〕の「熱中」にいたっては、歴史的必然性、歴史的宿命をもって〔スラヴ主義者たちも〕肯定したのであって、結局、総決算のときには(もしいつかそういうものが行われるとすれば)、西欧派はロシアの国土と、その精神的希求に奉仕したのであって、その点、真に自分たちの生まれた祖国を愛し、今まであまりに熱心に「ロシア生まれの外国人」のありとあらゆる熱中ぶりから祖国を守ろうとした純粋のロシア人たちと、まったく同一であることが、明白となるだろう。
 
 最後に、二つの党派の間におけるすべての紛擾と悪性の論争は、単に大きな誤解にすぎなかったということが宣言されたのである。つまり、これがおそらく「事件」となり得たのであろう。なぜなら、スラヴ派の代表者たちは、私の演説が終わるとすぐにその場で、その論旨の全部に完全な同意を表明したからである。私は今、次のように声明する。――否、これはすでにあの演説の中で声明したのであるが、この新しき第一歩の名誉は(もし和解が最も確実な希望となったことが名誉であるならば)、この新しき(と称したければだが)言葉の功績は、決して私一人だけでなく、スラヴ主義者全体、わが「愛」の精神と、方向全体に属するものである。これは絶えずスラヴ派の運動に注意していた人にとっては、はじめから明瞭なことであって、私が表現した思想は、たとえ口から発せられないまでも、すでに一再ならず彼らによって指示されていたのである。私はただうまく適当な機会をつかんだにすぎない。

 さて今度は結論であるが、もし西欧派が我々の推論を受け入れて、それに同意するならば、もちろん、両党派の間の誤解はたちまち残らず消えてしまって、イヴァン・セルゲエヴィチ・アクサーコフの言ったとおり、「今後すべてが解明されたのであるから、西欧派とスラヴ派は何も論争することがなくなる」はずである。その観点からすれば、私の演説はもちろん「一つの事件」でもあったろう。しかし、悲しいかな、「事件」なる言葉は、ただ一方の側から真摯な熱中に駆られて発せられたものにすぎないから、もう一方の側に受け入れられるか、単なる理想としてとどまるか、これはもうまったく別個の問題である。
 演壇の上ですぐ私を抱擁し、握手したスラヴ主義者たちに続いて、私が壇を降りるやいなや、西欧主義者たちも私に近づいて握手した。しかも、それはただの有象無象と違って、ことに現在その陣営で第一流の役割を勤めている、西欧派の錚々たる代表者たちであった。彼らは、スラヴ派に劣らない激しい真摯な熱中ぶりで、私の手を握りしめ、私の演説を天才的であると讃えた。しかも、この言葉に力を入れながら幾度も、あれは天才的だと言ったのである。

 しかし、私は恐れている。あれは最初の感激に駆られて、「性急」に発せられた言葉ではないか、と心底から恐れている。おお、私が恐れているのは、彼らが私の演説を天才的だといった言葉を、撤回するかもしれないということではない。あれが天才的でないのは、私も自分で承知しており、人々の賞讃に毛頭酔ってはいないから、私が天才的だということについて、彼らの抱くべき幻滅感を、衷心から許すつもりである。
 が、それにしても、次のようなことが生ずるおそれはある。西欧派の人々が少し考えた時、次のようなことを言う恐れがある(N・B〔nota bene(ラテン語):注意せよ〕私は自分に握手してくれた人たちのことを書いているのではなく、今はただ一般に西欧派のことを言っているのだ。この点を特に力説しておく)。
 

ここまで(省略した節を含めて)の論述から明らかなように、ドストエフスキーの立場は「スラヴ派」に近いものですが、彼らの党派的で、地に足がついていない(という意味で抽象的な)姿勢を批判し、「西欧派」との「和解」を促すものです。ここで、この「和解」を可能にするものとして、「民衆」の「魂」(これは「理性」と「感情」の両者を包括します)と、ロシアの「地盤」・「土地」・「国土」などの語句が挙げられている点が重要です。ゆえに彼の立場は「土壌派」などと呼ばれます。

 「さて」とおそらく西欧派の人々は言うであろう(注意していただきたい、これはただ「おそらく」である、それだけの話である)。

ーーーここから、西欧派の論理を、ドストエフスキー自身が再演し、また、批判していく形になっています。

 諸君は長い論争と応酬の後に、ついに我々のヨーロッパに対する憧憬が正当なものであり、ノーマルなものであったと同意してくれた。諸君は我々の側にも真理があったことを認めて、自分の旗を捲いた。いや、結構、我々は諸君の承認を喜んで受け入れ、これは諸君としてなかなか悪くないことでさえあると、急いで声明する。少なくとも、これは諸君にある程度の頭脳が存することを示すものだ。もっとも、我々は諸君に頭脳のあることを、一度たりとも否定したことはない。ただし、我々の中で最も鈍感な連中は例外で、そんなのに対して我々は責任を持つことを欲しないし、またそんなことはできやしない。しかし・・・ここにまたしてもある一つの障害が現われる。で、この点を一刻も早く明白にしなければならない。というのは、我々の熱中が民衆の精神と合致して、神秘的な形でそれ〔民衆(の精神)〕に指導されていたという諸君の仮定、諸君の結論は、何といっても、我々の目には、疑わしいというより以上のものなので、したがって、諸君と我々との協定は、依然として不可能になってくる。よく承知しておいていただきたいが、我々の指導標準となったのは、ヨーロッパとその科学であり、ピョートル大帝の改革であって、わが民衆の精神などではさらさらない。なぜなら、我々は自分の道程において、そんな精神に出会わなかったし、匂いも嗅がなかったくらいである。それどころか、我々はそれを後方に見棄てて、大急ぎでそのそばを逃げ出したものだ。我々はそもそもの初めから、独立独歩に進んだのであって、全世界的共鳴とか、人類の結合とか、一言にして言えば、その他諸君が今たくさん並べ立てたものに対する、ロシア民衆の、ある種の牽引的ともいうべき本能に引きずられていたのでは決してない。
 
 もう何もかもあけすけに言ってしまう時機が来たから申し上げるが、我々はロシア民衆の中に、依然として蒙昧な大衆を見い出すばかりである。我々としては彼らに学ぶべき何ものもない。彼らは、進歩的な、より良きものに向かうロシアの発達を、むしろ阻害するくらいであるから、根本的に改造し、叩き直さなければならない。もし有機的〔つまり「教育」的〕にそれをなし得ないならば、少なくとも機械的〔暴力的〕にやらなければならない。つまり、ごく簡単に、彼らが永久に我々の言うことを聞くようにしてしまうのだ。
 ところで、民衆を聴従させるというこの目的を貫徹させるには、たった今問題になったヨーロッパ各地における公民的組織を、そっくりそのまま取り入れなければならない。実際、わが民衆は今までもそうであったように、現在でも乞食のごとく赤貧で、悪臭紛紛として、個性も思想も持つことができないのだ。
 わが民衆の歴史全体はめちゃくちゃなものであるが、諸君はその中からとんでもない結論を引っぱり出してきた。ただ我々だけが冷静な見方をしていたのである。

 わが国の民衆のごとき存在は、歴史を持つべきではないのであって、彼らが歴史と称して今まで持っていたものは、嫌悪の念をもってきれいさっぱり忘れてしまわなければならない。歴史を持つべきなのは、ただ我々インテリゲンチャの社会ばかりで、民衆は労働と力とをもって、この社会に勤めさえすればいいのだ。

 
 ああ、どうかご心配なく、そんなにがやがやわめかないでいただきたい。我々が、彼らを聴従させると言ったからといって、なにもわが民衆を奴隷的に束縛しようというのではない。おお、もちろん、そんなことはない!どうかそんな結論を引き出さないでもらいたい。我々は人道的なヨーロッパ人なので、諸君もそんなことは知りすぎるほど知っておられるはずだ。それどころか、我々は、徐々に、規則的にわが民衆を教育して、彼らを我々の程度にまで引き上げ、その教育が完了した後、自然と現われる新しい国民性へと叩き直すことによって、我々の建設を完成させようと考えているのだ。彼らの教育は、我々が自ら始めたものから始め、そこに基礎を置くつもりである。
 
 すなわち、彼らに一切の過去を否定させ、彼らに自分たちの過去を呪わせるのだ。我々は民衆に少し読み書きを教えたら、さっそく、ヨーロッパの匂いを嗅がせ、ヨーロッパを餌にして彼らを誘惑しにかかるつもりだ。まあ、早い話が、生活様式、礼儀作法、衣服、飲物、舞踏などの優美さで、誘惑するのだ。
 
 
要するに彼らをして以前の木の革靴や、クワス〔ロシア・東欧の伝統的な低アルコール飲料〕を恥じさせ、自分たちの古い歌を恥じさせるのだ。その中には立派な音楽的な歌もいくらかあるけれど、とにかく我々は、諸君がどんなに腹を立てたところで、彼らに韻を踏んだヴォードヴィル〔vaudeville:風刺的な流行歌〕を歌わせるつもりだ。一口に言えば、我々は良き目的のためには、ありとあらゆる無数の手段を用いて、我々がそうであったのと同様に、彼らの心の弱点にまず働きかける。そうすれば、民衆はもうこっちのものだ。彼らは自分の過去を恥じ呪うだろう。おのれの過去を呪う者は、すでに我々の掌中のものだ。これが我々の公式である!我々は民衆を自分たちの程度にまで引き上げにかかる時、この公式を完全に適用するだろう。もし民衆が教育に不適当であると決まったら、その時は<民衆を除外する>のだ。なぜなら、その時は、わが民衆が服従を強制されるしか能のない、取るに足らぬ野蛮な大衆であることが、もはや疑いもなく明瞭となるからである。事実、その場合は何としようがあるものか、真理はインテリゲンチャとヨーロッパにのみあるのだから。よしんばわが国に8000万の民衆がいるとしても(諸君はこれを自慢にしているようだが)、とにかく、この8000万の民衆は何よりもまず、このヨーロッパ的真理に奉仕しなければならない。それ以外のほかのものはありもせず、またあり得ないからである。何千万などという数で我々を驚かしてもらうまい。これが我々の不断の結論であるが、今はただそれが完全に露呈されただけの話で、我々はあくまでそれを固守する。

 我々は諸君の結論を採用して、「le Pravoslavié(正教)」などという奇妙なことを、諸君と一緒になって喋々(ちょうちょう)し、それに何か特別な意味があるかのように騒ぎ立てるわけにはゆかぬ。どうか諸君もせめてこれだけは、我々に要求しないようにしてもらいたい。ことに目下、ヨーロッパとその科学の最後の言葉は、文化的・人道的無神論であるというのが、一般的結論になっているのだから。我々としては、ヨーロッパの後について行かないわけにはゆかないのだ。
 かようなわけで、君が我々に賞讃を捧げた演説の半分だけは、我々もまあ、ある制限を付して頂戴してもよろしい。仕方がない。それくらいのお愛想は示さなければならない。ところで、諸君と諸君の「根本義」一切に関する演説の他の半分は、失礼ながら頂戴致しかねる・・・。
 
 こういう悲しむべき結論もあり得るのだ。繰り返して言うが、私は自分の手を握ってくれた西欧派の人々の口に、あえてこの結論を押し込もうとするのものではない。のみならず、完全にロシア人であり、最も文化的なロシアの活動家であり、その抱懐する理論にもかかわらず、尊敬すべき立派なロシア公民である彼らの多数にも、この結論をあえて擬するものではない。そのかわり大衆、中心から遊離した離反者の大衆、西欧派の有象無象、凡庸の徒、思想を引きずりまわしている街頭の徒輩、「思想的傾向」の蛆虫ども(彼らは浜の真砂と同じ〔く多数〕なのだ)、おお、彼らの間では、必ずやこれに類したことを言うに違いない。否、あるいはすでに言ったかもしれない。(N・B 例えば、宗教に関するある出版物の中で、スラヴ主義の目的はほかでもない、全ヨーロッパを正教に改宗させることに存すると、いかにも彼ららしい機知を弄して、声明したものである。)
 
 しかし、憂鬱な考えを振り捨ててしまって、我々は、わが欧化主義の尖端的代表者に期待をかけよう。もし彼らが我々の結論と、彼らに対する我々の期待のせめて半分でも認めてくれたら、それこそ彼らの徳として、名誉として、我々は衷心から歓喜に燃えながら、彼らを迎えるだろう。もしほんの半分だけでも、彼らが「ロシア精神の個性」と、「独立性」と、その「存在の正当性」と、「人間愛に満ちた、一切を結合せんとするその希求」を、せめて半分だけでも受け入れてくれるならば、つまり認めてくれるならば、その時は少なくとも、主な、根本的なものについては、もう何も論争することがなくなるだろう。その時こそ、まことに私の演説は、新しい事件の基礎として役立つだろう。
 
 最後にもう一度繰り返すが、私の演説そのものが事件なのではなく(それは、これほどの名称には値しない)、プーシキンの偉大なる祭典が、我々の結束のために――未来の最も美しい目的に向かって、すべての教養ある、誠実なロシア人が結束するために役立った、それこそが事件なのである。

(以上、「『プーシキンに関する演説』についての釈明」
米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集15』河出書房、pp.405-413、一部変更)

(*)『プーシキン演説』の最終部では、次のチュッチェフ〔Fyodor Tyutchev(ロシアの詩人・外交官:1803-73)〕の詩(1855年)の一部が引用されており、ドストエフスキーがロシアの「大地」と「正教」をいかに重要視していたかが分かります。

この哀れな村たちよ、
この貧しい自然――
長い忍従の故地、
ロシアの民の地よ!
 
異民族の驕れるまなざしは 
理解しない、気づかないだろう、
おまえのつつましい裸身の
内奥にひそかに輝くものを。
 
十字架の重荷を背負い、
故郷よ、おまえの地をすべて
奴隷姿の天帝〔キリスト〕が
祝福し、遍歴していたのだ。

訳文は次のものを用いました。
坂庭淳史『フョードル・チュッチェフ研究』マニュアルハウス p.357)

 

* ウナムーノとドストエフスキーの議論の背景には、共に戦争の影があります。ウナムーノの場合、1898年の米西戦争における敗戦(その結果、スペインは、コロンブスの新大陸(インディアス)到達以来、「日の没することのない」と言われた広大な植民地の最後の地、キューバ、プエルトリコ、フィリピン、そしてグアム島までも失いました)による深刻な国家的アイデンティティの喪失が問題となります。
 
 ドストエフスキーの場合は、1853-56年のクリミア戦争、および1877-1878年の露土戦争が背景にあります。
 後者の戦争は、トルコからの独立を求めるバルカン南部スラヴ人正教徒の暴動(1875年)に端を発し、ロシアの「汎スラヴ主義」と連動しました。  『作家の日記』中には「コンスタンチノープルはロシアのものだ」という類の主張が頻出し、ドストエフスキーの「土壌派」的立場からは理解し難い面があります。
(この問題については次の書物を参照:高野雅之『ロシア思想史』早稲田大学出版部(第13章)+アンリ・トロワイヤ『ドストエフスキー伝』村上香住子訳、中央公論社)

 「汎スラヴ」は「汎ヨーロッパ」、「汎世界」へと拡大し、トロワイヤの言う「ロシア人人類救済論」(p.366)へと発展します。これがドストエフスキーの一時的な混乱とは必ずしも言えないことは、『カラマーゾフの兄弟』の続編(著者の死により構想されたのみ)の主人公がアリョーシャとなり、「ゾシマ長老に勧められたとおりに、世の中を救済しようとする」(トロワイヤ、p.397)と推測されていることからも、かなりの程度裏づけられます。

 

3 夏目漱石 (1867-1916)

・・・・・
 日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せる度に自分がその中で食客(いそうろう)をして気兼をしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがた漸くの思いで脱却した旧い波の特質やら真相やらも弁(わきま)えるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまった。
 食膳に向って皿の数を味い尽す所か、元来どんな御馳走が出たかハッキリと眼に映じない前に、もう膳を引いて新らしいのを並べられたと同じ事であります。
 こういう開化の影響を受ける国民は、どこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかの如き顔をして、得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分らない子供のくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それを敢てしなければ立ち行かない日本人は随分悲酸な国民といわなければならない。
・・・
 既に開化というものが如何に進歩しても、案外その開化の賜(たまもの)としてわれわれの受くる安心の度は微弱なもので、競争その他からいらいらしなければならない心配を勘定に入れると、吾人の幸福は野蛮時代とそう変りはなさそうであることは、前御話しした通りである上に、今言った現代日本が置かれたる特殊な状況に因って、われわれの開化が機械的に変化を余儀なくされるために、ただ上皮(うわかわ)を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために、神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。・・・・・

(「現代日本の開化」1911(明治44)年、『漱石文明論集』岩波文庫 pp.33, 36、一部変更)
 


4 Karl Löwith (1897-1973)


 ロシアはピョートル大帝によって一足先に欧化の道を踏み出し、東洋全体は百年遅れてそれを追い、以後ヨーロッパの優勢を凌ぐことを目的として、その道を歩み続けた。1914年のヨーロッパ戦争は、ヨーロッパの技術及び科学を用いてヨーロッパに逆らおうとする傾向を著しく強め、ヨーロッパに対する尊敬の念は減少した。1918年に中絶した戦争が今度再び継続されたことで、西洋からの離反は更に一層強められることと思う。
 ところがヨーロッパから学び、ヨーロッパから受け継いだ進歩を、ヨーロッパに反抗する目的の手段として用いるのだから、日本人のヨーロッパに対する関係はすべて自己分裂的になり、アンビヴァレント〔ambivalent:愛憎争う傾向〕になる。西洋の文明を嘆賞し、同時に嫌悪するのである。西洋文明は「唯物論的」だという主張をよく聞くが、そういう本人は大いに「唯心論的」なつもりである。
 たいていの日本人の西洋に対する関係で聞きのがすことのできない音調は「ヨーロッパへの絶交」である。その絶交は、初めヨーロッパに期待して後に裏切られるところが大きければ大きいほど烈しい。それはヨーロッパの精神的後見、経済的搾取、政治的干渉に反抗して立ちあがる。あらゆる領域で元の自分に、真の日本的なものになろうとし、外物の影響をできるだけ減じようとする。こうして自身の本質、自身の使命に立ち返るのも、奇妙なことに、ヨーロッパ人の忠告を聞いてのことである。(・・・)
 
 前世紀〔19世紀〕の後半において日本がヨーロッパと接触し始め、ヨーロッパの「進歩」を、嘆賞すべき努力と熱っぽい速さをもって受け取った時、ヨーロッパの文化は、外的には進歩し、全世界を征服していたとはいえ、内実は既に衰退していたのである〔先のドストエフスキーの診断を想起してください〕。
 しかし19世紀のロシア人とは違って、当時の日本人は、ヨーロッパと、批判的に対決しなかった。そしてボードレールからニーチェに至るヨーロッパ最上の人物が、さすがに自己およびヨーロッパを看破して戦慄を感じたのを、日本人は初め無邪気に、無批判に、残らず受け取ってしまった。

 ニーチェは『この人を見よ』の中で、ボードレールについて「典型的なデカダン〔décadent(仏:退廃者:原意は主として、19世紀末ニヒリズムを体現する、ヴェルレーヌの言う「呪われた詩人たち」を指す〕」と評しています。(西尾幹二訳、新潮文庫、p.58)

 日本人がようやくヨーロッパ人を知った時は既に遅かった。その時はもうヨーロッパ人は、その文明を自分でも信じなくなっていた。しかもヨーロッパ人の最上のものであるこの自己批判に、日本人は少しも注意を払わなかった。人々が今日でも未だ進歩の理念を信じているのは、アメリカ、ロシア、および日本だけで、古きヨーロッパは、もう久しい前からそれを疑い始めていた。
 だから森鷗外のごとき日本人が〔彼の〕『日本に関する真相(Die Wahrheit über Nipon)』(Beilage zur Allgemeinen Zeitung,Nr.360,1886)において、ヨーロッパ的進歩を尺度にして〔日本の実情を〕測ったことや、それからの五十年間の間には事情がすっかり変わったから、鷗外に対する筆者〔レーヴィット〕の批評はもう当てはまらないと、今日の日本人が信じていることについては、我々ヨーロッパ人としては驚かざるをえない。
 しかし事実は、この東洋ではヨーロッパ的問題がほとんど片づいていないから、日本に関するヨーロッパ人の古い文献の中に見出される観察が、今日でもすっかりそのまま妥当するくらいである。
 日本の西洋化が始まった時期は、ヨーロッパがヨーロッパ自身を解決しようのない一個の問題と感じたのと、不幸にも同じ時期であった。外国人〔日本人〕にそれがどうして解決できようか。しかしいったん西洋化が始まり、取り返しがつかない事実となってしまった以上、残る問題は、(1)日本はヨーロッパ文明から何を、(2)いかに受け取ったか、である。

(1)日本が中国文化と接触した時は、宗教上・学問上・道徳上の基礎を受け容れたが、日本人がヨーロッパから受け容れたのはそれとは違って、まず第一にヨーロッパの物質文明――近代産業、および技術、資本主義、民法、軍隊の機構と、それに科学的研究方法であった。これがあれば何でもできないことはない。しかし鷗外が折角承認しようとしても、「自由と美」だけはこれによっては決して得られない。
 
 人間の本当の生活、物の感じ方、及び考え方、風習、物の評価の仕方は、その〔物質文明の〕傍らに、比較的変らずに存続している。ヨーロッパ「精神」及びその歴史――この歴史がなかったならば〔ヨーロッパ〕「精神」は今日ありえなかっただろう――は、〔日本人にとっては〕それを著しく変化せしめながら体得する以外には、受け容れられるものではないから、それは受け容れられなかった。
 
 
ヨーロッパ人なら誰にでも目につかずにはいないこの〔日本における〕西洋化の「表面性」にもかかわらず、それはまた「浸透性」を有すことも見過ごすことができない。ヨーロッパ文明は必要に応じて着たり脱いだりすることのできる着物ではなく、着た人のからだのみならず魂までも変形せしめる気味悪い力を持ったものである。
 
 日本における西洋文明と、ヨーロッパにおける固有の文明とを比べれば、ヨーロッパにおいてのみ、技術文明も、歴史的・精神的地盤を有して、そこから内面的に生ずることができたが、東洋は出来上がった結果のごとき単なる産物を受け容れただけであるから、西洋的設備の受け継ぎは、なるほど外面的で(したがって一見したところ危険はなさそうで)ある。しかし同時にこの外面性は、実は一見したよりも一層内面的なものである。
 
 事実、西洋文明の近代の業績は、任意の目的のための単なる手段では決してなく、多くの人間、多くの民族の全生活と社会生活を規定するものだからである。産業と技術――両者はいざという場合戦争に役立つ――による生活の改造がもたらす内面的結果は、何びともこれを避けることができない。古き宗教上・道徳上・社会上の基礎の分裂は必然の帰結で、どんな文明の進歩もそれをごまかしてそっとやり過ごすことはできない。
 
 「近代日本」という語は(ヨーロッパ人にとって)それ自体「生きた矛盾」である。本質的に近代的なものは日本的(日本精神的)ではないし、純粋に日本的なものは太古のものだからである。今日の日本においても依然として真の文化をなしているもの、高貴な素朴、礼節及び美は、今日のものではなくて古きを保存するものである。
 古きものと新しきものとのこの対立がうまい具合に解決を見出したり、美的・道徳的にヨーロッパ人にも受認することのできる妥協に成功したりしたこともごく稀にあったということは、かえってこの事実を裏書きするばかりである。

 
 それにしても、我々ヨーロッパ人には結合しがたく見える事物を、このようにして結合せしめるのは大いに問題のあることと思われるが、これに対する一般の反応は、日本では非常にのんきである。日本的なもののうち最上のものを保存し、ヨーロッパの最上のものを採り、かくして「日本の完全」に「ヨーロッパの完全」を継ぎ足そうとする(鷗外)。
 まるで文化と文化が任意に組み合わせられ、よいところを引き取って悪いところを返し、かようにしてヨーロッパを凌駕することができるといった風である。
 日本人は最上のものを受容する心の用意を、いかなる場合にも心の寛(ひろ)さだと解釈することが好きである。しかしこの心の寛さには、市井生活における日本人の有利な特徴として謙譲の美徳があるにもかかわらず、虚栄のみならず不遜が含まれていないとは決していえないのである。(市井生活というのは政治的・国家的生活に対する意味であり、後者においてはそんなに「謙譲」ではない)。ここで日本の商品の多くに「improved」〔改良済〕と書かれてあるのを思い出さずにはいられない。実際それは十中八九まで欧米物を安価にし、粗悪にした模造品にすぎないのである。
 
 しかし商品だけではなく、精神的なものをよく改良したがる。
 まずヨーロッパの思考方法を受け取り、次に批判的に限定し、最後に事柄を何とかして「いささか深く」かつ「より複雑に」理解する、という結構な結論に達する、といった風である。
 これが心理学の理論でも歴史や哲学の問題でも、何でもそうである。ヨーロッパからすでに何もかも学んでしまって、今度はそれを改善し、もうそれを凌駕していると思っている。少なくとも、日本人がドイツ語で書いて私のところへ添削を頼んでくる論文の最後は決ってそんな文句になっている。自己の優越をこのように無邪気に信ずることの、より深い根拠は、正義は「神国日本」が体現していると信ずる日本的自愛である。

(2)たいていの日本人がヨーロッパ的思惟を受け取る方法は、それが我々には本当の意味での体得とは見ることができないという意味で、おぼつかないものだと思われる。何か他のもの、知らないものを体得するには、あらかじめ自分を自分から隔離すること、すなわち遠ざけることができ、それからそのようにして自分から離れたところにいて、他のものを知らないものとして我が物にする、ということが必要であろう〔この方法を最も自覚的に行使するのが「(文化)人類学」だといえます〕。

 体得という精神的作業は一種の加工でなければならない。その加工をやっているうちに我々の作業の対象たる「知らないもの」は「知らないもの」でなくなる。このようにしてギリシア人は異国に根を持った世界を自分の故郷にした。

 彼らはもちろん彼らの宗教、文化、社会的結合の実質上の起源を多かれ少なかれアジア、シリア、エジプトから受け取りはした。しかしこの起源の異国的なところを非常にうまく除去し、改変し、加工して、それを別物にしてしまったので、その中で彼らが今日の我々と同じく価値を置いたり、認めたり愛したりするものは、まるで本質的に彼らのものになっている。

* レーヴィットは触れていませんが、日本文化の中にも、この指摘に相当するものが仏教思想のうちにあります。彼の日本文化理解がどの程度のものだったかは不明ですが、いずれにせよこの論文の書かれた時代状況が影響したことは考えられます。

 すなわちこの意味で、彼らは他の中にあって「我が家にある」がごとく「自由」だったのである。知るということ自体は、ギリシア人よりも遥か昔からあった。
 東洋古代の高い文化においては、それは最高の段階に達していた。しかし自己の外にあんなに自由に歩み出ること、そしてその結果生れる体得の力、自己及び世界に対する自由な態度から生ずる体得の力はかつてなかった。ギリシア人のみが、最初に生れたヨーロッパ人として、ブルクハルト〔Jacob Burckhardt (1818-97) スイスの歴史家、ニーチェの(年長の)友人としても有名〕の言を借りるならば〔四方八方を自由に眺めることのできる〕「パノラマ式」の眼、世界と自己自身を観る客観的・即物的な眼差し、比較し区別することができ、自己を他において認識する眼差しを有していた。ギリシア人の探検家や学者が初めて、見知らぬものといわず、自分自身といわず、ありとあらゆるものに関心を有して、他物の特性に対するその鋭く明晰な認識を、自分自身に対する認識と共に行っていた。――
 
 日本では、この自由な体得という特性が、たいていの場合欠けているように、私には思われる。もちろん学生は、懸命にヨーロッパの書籍を研究し、事実またその知性の力で理解している。しかし彼らはその研究から、自分たち自身の「日本的自我」を肥やすべきいかなる結果をも引き出さない。彼らは「ヨーロッパ的概念」――例えば「意志」とか「自由」とか「精神」とか――について、自分たち自身の生活〔に根ざした〕思惟〔に伴う〕言語によって、それらの概念に対応するものと、食い違うものとの相互を区別しないし、比較もしない。
 〔ヘーゲル的に言えば〕即自的〔それ自体の存在として〕他なるものを、対自的〔自己に対する存在として〕学ぶことをしないのである。ヨーロッパの哲学者のテキストに分け入って行く際に、その哲学者の概念を、本来の異国的な相のままにして、「自分たち自身の〔固有な〕概念」と突き合わせてみることなく、自明ででもあるかのように取りかかる。だからその「異物」を自分のものに作り変えようとする衝動も全然起らない。彼らは「他」から「自分自身」へと立ち帰らない、つまり自由ではないのである。(・・・)
 
 二階建ての家に住んでいるようなもので、階下では「日本的に考えたり感じたりする」し、二階にはプラトンからハイデガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐に通したように並べてある。そしてヨーロッパ人の教師〔レーヴィット〕としては、これで二階と階下とを行き来する〔諸概念を作り変えるための〕梯子はどこにあるのだろうかと疑問に思う。本当のところ、彼らは〔諸概念を作り変えることなく〕あるがままの自分でいることを愛しているのだ。〔旧約聖書のいう〕認識〔善悪の知識〕の木の実をまだ食べていないので、純潔さを喪失していない。自分の中から「人間」〔的要素〕を取り出し、その「人間」〔的要素〕を、自分に対して批判的なもの〔対自的なもの〕にする、あの〔相互理解可能性の〕喪失〔という苦い経験〕を舐(な)めていないのである。・・・・・

 柴田治三郎訳『ヨーロッパのニヒリズム』筑摩書房、pp.119-135、1948年:レーヴィットは、1936(昭和11)年から5年間、東北帝国大学教授として、ドイツ文学の講座を担当しました。その背後には、マールブルクのハイデガーのゼミで出会った九鬼周造の尽力があったようです。

 
* 上記文中に森鷗外 (1862-1922)に対する批判がありますが、これは鷗外がドイツ留学中に地質学者ナウマン(Edmund Naumann:日本に十年間 (1875-85) 滞在し、「ナウマン象」の化石の研究などで有名)とドイツの新聞紙上で行なった論争 (1886-87) における二編の論文(の最初のもの)を指します。なお、ナウマンとの論争の端緒は、1886年3月6日にドレスデンで開かれた地学協会主催の講演会でのナウマンの講演に由来し、鷗外の『独逸日記』には、不平が高じて料理を味わうこともできなかった旨記されています。
 加藤周一氏の簡潔な記述によりますと(「日本文学史序説(下)」in『加藤周一著作集5』平凡社 pp.392-394、詳細については、小堀桂一郎『若き日の森鷗外』東京大学出版会、を参照)

 ナウマンの議論の要点は、第一に、日本社会の後進性(貧困、不潔、伝染病、若干の風俗など)を指摘し、第二に、西洋化を批判して、無差別の西洋化がかえって日本の力を弱めるだろうといい、第三に、日本の伝統文化を評価しながら、日本人による自国の過去の軽視を批判するものであった。
 鷗外にとって、ナウマンの日本の後進性の誇張を、事実をあげて反駁することは、比較的容易であったにちがいない。しかしナウマンの第二、および第三の点、すなわち選択的に何を西洋化し、日本の伝統文化のどんな部分を評価するかという問題は、きわめて複雑で、西洋の技術・学問・文化を学ぼうとして身構えていた青年の手には余ったらしい。(・・・)したがって反論は、要点を外れるか、積極的主張において弱いものであった。
 しかし鷗外は、相手を完全に理解すると同時に、自己の弱点を見抜いたにちがいない。西洋人と競争するためには、単純な「西洋化」の立場では足りず、どうしても日本の伝統文化の理解と評価において相手に優越しなければならない。すなわち日本の再発見が必要であり、それが必要であったから鷗外は「日本を発見した」のである。

 

一部変更

 1911年の『妄想』には、留学時代をメランコリックに振り返った記述があります(また帰国後に読んだ哲学書、特にニーチェなどに関する興味深い感想も記されています)。

 故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。併(しか)し自分の研究しなくてはならないことになっている学術を真に研究するには、その学術の新しい田地を開墾して行くには、まだ種々(いろいろ)の要約〔条件のこと〕の闕(か)けている国に帰るのは残惜しい。敢(あえ)て「まだ」と云う。日本に長くいて日本を底から知り抜いたと云われている独逸人某〔ナウマン〕は、此〔の〕要約は今欠けているばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宣告した。東洋には自然科学を育てて行く雰囲気は無いのだと宣告した。果してそうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に欧羅巴(ヨーロッパ)の学術の結論丈(だけ)を取り続(つ)ぐ場所たるに過ぎない筈(はず)である。(・・・)併し自分は日本人を、そう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思わないから、敢えて「まだ」と云う。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時もいつかは来るだろうと、其(そ)の時から思っていたのである。
 

 自然科学について言えば(鷗外は医学を学ぶために留学した点で、英文学者の漱石とは事情が根本的に異なっています)、21世紀の現在から見て、鷗外の予見は正しかったのだとも言えます。ですが、帰国直後は「まだ」そうは言えませんでした。鷗外は軍医(陸軍医学校校長)という立場に就いたため、研究から離れなければなりませんでしたが、

 只(ただ)奮闘している友達には気の毒である。依然として雰囲気の無い處(ところ)で、高圧の下に働く潜水夫のように喘ぎ苦しんでいる。雰囲気の無い証拠には、まだForschung〔(科学的)研究〕という日本語も出来ていない。そんな概念を明確に言い現す必要をば、社会が感じていないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽(すいばん〔おしすすめること〕)」とか云うような造語を、自分が自然科学に置土産にして来たが、まだForschungという意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんというぼんやりした語(ことば)は、実際役に立たない。載籍〔書物〕調べも研究ではないか。 

 したがって日本の近代化という問題に真に直面したのは、漱石というより鷗外だと言う方が正しいと思います。

憲法公布〔1889〕の前年にヨーロッパから帰ってただちに文筆活動を開始してから、関東大震災(1923)の前年、病に倒れるまで、その三十年余の仕事のなかには、近代日本の文化のほとんどすべての問題が含まれている。その意味で、鷗外は時代の人格化であった。

加藤、前掲書p.390

 ただ、日本の近代化の問題をとことん考え抜いたという点ではやはり漱石を挙げなければなりません(江藤淳氏は、「鷗外の古典性に対する漱石の近代性」を指摘し、前者を「最後の人」、後者を「最初の人」と呼んでいます。(『決定版 夏目漱石』新潮文庫 pp.338, 348)。

 
 先に引用した漱石の講演「現代日本の開化」が行われたのが『妄想』発表と同じ1911年であるというのも興味深い符合です。漱石は既に1908年の『三四郎』の中で、日露戦争に勝利した日本について楽観的発展を予想する三四郎に対して、広田先生に「亡びるね」と言わせています。
 また、1914年の講演「私の個人主義」(前掲『漱石文明論集』pp.97-138)には『妄想』と同様、留学についての回顧が含まれていますが、留学前の大学時代(1890-93年)から既に「英文学」ないし「文学」とは何か、という疑問に伴う不安にさいなまれていたことが述べられています(自らのことを「霧の中に閉じ込められた孤独の人間」と称しています)。

 したがって文部省から英国留学(1900-03)の内談があった際、

 私はその時留学を断わろうかと思いました。それは私のようなものが、何の目的も有(も)たずに、外国へ行ったからといって、別に国家のために役に立つ訳もなかろうと考えたからです。

ということになるのです。留学先では、ロンドン中探しても答えは見つからず、下宿に引きこもって懊悩の日々を送ることになります(当時、漱石が発狂したという噂が流れました)。

 そして、

 この時、私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるより外(ほか)に、私を救う途はないのだと悟った。・・・
たとえば、西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとかいっても、それはその西洋人の見る所で、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、到底受売〔り〕をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢でない以上は、これ位の見識は、国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な「正直」という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。

一部変更

 これがいわゆる漱石の「他人本位」から「自己本位」への転回であり、日本の近代化に対する知識人の最初の回答だと思います。


5 Cioran:ルーマニアの失敗とは何か?

「運命についての小論」(E. M. Cioran (1911-95) 『実存〔存在〕の誘惑 ( La tentation d’ exister ) 』1956 (篠田知和基訳、国文社、1975)訳文は一部変更・補足しました。

・・・・・
 国によっては、ある種の至福や恩寵のようなものを享楽しているところがある。どんなことでも成功する。不幸であっても、破滅であっても、それらの国では成功する。それに対してどうしても成功できない国がある。それらの国では、勝利でさえ失敗に等しい。
 
そういった国は自己主張をしようとし、一気に前進しようとしても、外的な宿命が介入して、その跳躍を打ちくだき、出発点に引き戻してしまう。あらゆる機会が遠のいてゆく。滑稽さの機会でさえもが〔後述「ドン・キホーテ」の滑稽さのこと〕。
 
 フランス人であるということはひとつの明証性〔この言葉は、もちろんデカルトを想起させます〕だ。そのことで苦しむ人もいないし、それを喜ぶにもあたらない。「いかにしてペルシア人たりうるか?」〔モンテスキュー『ペルシア人の手紙』〕という、あの古い問いを〔フランス人としては〕当然の疑問である、とするような確信をフランス人は持っている。
 〔他方、ペルシア人にとっては〕ペルシア人であるという〔自明性と疑問符との〕パラドックス〔逆説:矛盾した事態〕(場合によってはルーマニア人でもいい)は、十分に活用しなければならない苦悩であり、利用すべき欠陥なのだ。
 
 昔、私は、白状すれば、特定の国民、それについてはいかなる幻想も抱くことが許されないとするような起源を持った「敗者の集団」〔ルーマニア人〕に属していることを、恥のように思っていた。私たちは蛮族の残りかすの出であり、大侵攻の落ち穂、<西>への歩みを続けるのに無力なために、カルパチア山脈とドナウ河に沿ったあたりに倒れ、そこにしがみついて眠りにおちた部族、ローマ帝国の境界にいた脱走者の集団、ラテン社会のぼろ屑で装った賤民の出であるように思っていた。それはおそらくまちがってはいないだろう。この過去にしてこの現在ありだ。ついでにこの未来か。それは私の尊大な若さにとって、何という試練だったろう。
 
 「いかにしてルーマニア人たりうるか?」それは、たえ間ない憤懣を覚えずには答えられない問いだった。自分の一族を、自分の国を、あの無気力にとりつかれ、鈍麻ではちきれそうになった永遠の農民たちを嫌い、彼らの出であることに顔を赤らめ、彼らを否認し、彼らの半・永遠性を拒否し、彼らの化石化したうじ虫としての確信と、彼らの地質学〔石〕的な夢を拒否した。彼らの表情に生気か、せめて反逆のふりだけでもないかと思って捜してみても無駄だった。猿は、彼らのうちで死んでしまっていた。本当に、彼らは鉱物から出来ているのではないか?どうやって彼らをせきたて、愛してやれるかわからず、私は皆殺しを夢に見た。石ころは虐殺するわけにはいかない。彼らが見せてくれていた光景は、私のヒステリーを正当化すると共に、当惑させ、それに糧を与えるとともに、むかつかせた。そして彼らのうちに生まれたという偶然を私はたえず呪った。
 
 彼らにはひとつの大きな観念が取りついていた。運命の観念がそれだった。私はそれを払いのけるのに全力をかたむけた。私はそこに臆病者の言い抜けと、あらゆる放棄の言いわけ、ひとつの良識〔生活の知恵〕と、陰気な哲学の表現しか見なかった。何にすがったらいいのか?

 私の生国〔ルーマニア〕の存在は、明らかに、何の意味も持たなかった。それは、私には虚無の要約か、不可解性の物質化のようにしか見えなかった。ちょうど、一種の「黄金の世紀」も、「コンキスタ」も、「狂気」も、我らの苦しみの「ドン・キホーテ」も持たないスペインのように思えたものだ。 
 そこ〔ルーマニア〕に属しているということは、何という屈辱と嘲弄の学習だったことだろう。何という災い、何というレプラ!

「lepra」はギリシア語で、現在では「ハンセン病」と一般に呼ばれますが、病因が特定されるまでは、ユダヤ・キリスト教圏において「宗教的穢れ」という意味を含んでいました(cf. 旧約「レビ記」(13・14章)、新約「マルコによる福音書」(1.40-))。
 シオランはこの語を「(被造)世界における伝染性の悪」というような意味で用いています。ex.『悪しき造物主』金井裕訳、法政大学出版局 p.14.

・・・・・
 ドイツ人〔ex.ヘーゲル〕も運命に敏感ではあるが、それを外部から介入してくる原理とは見ず、自分の意志から生れ、やがて外へぬけ出し、彼らを押し潰しに戻ってくる力〔疎外〕として考えている。シックザ-ル(Schicksal:運命)は、彼らのデミウルゴス〔造物主〕的な食欲に結びついて、「世界の内側」というよりは「自我の内面」に宿命の機能を仮定する。ある点までそれ〔運命〕は彼らに依存していると言ってもいい。
 
 宿命を、われわれの外側にある、万能で崇高なものと考えるには、きわめて長い破産の過程が必要だ。その条件を私の国は完全に満たしている。ルーマニアにとって、努力や行為の有効性を信ずるということは、ふさわしくないだろう。
 したがってルーマニアはそれらを信じないし、事を荒だてまいとして不可避なものに忍従する。
「絶望の体系」とともに、この「生活の知恵」や、「必然性を前にしたときの落ちつき」や、「無数の困難さ」と、「それに服従する方法」を贈与してくれたことを、私はルーマニアに感謝している。  ルーマニアは、私の失意をただちに永続させ、それを維持する秘密を、怠惰な私に教えてくれたばかりか、私を外見にこだわるのらくらものにしようと努め、それほど身を汚さずに堕落する方法まで指示してくれたのだ。
 私はルーマニアのおかげで、いままでに一番見事で、一番確実な失敗をしたばかりか、私の怠惰をごまかし、悔恨を蓄える能力さえも獲得したのだ。ほかにも何と多くの利点を、私は自分の国に負っていることだろう!どんなに恩になっているかはほんとうのところ、あまりに多様であって、それを列挙するのは退屈にちがいない。
 
 私自身がどんなにがんばってみたところで、ルーマニアなしには、かつての日々をあれほど見事に無駄にすることがはたしてできただろうか?ルーマニアはそれを助け、あと押しし、力づけてくれた。

 生をやりそこなうということは、すぐに忘れられがちだが・・・そんなに生やさしいことではない。それには長い伝統と長い訓練、数世代にわたる作業が必要なのだ。その作業さえ終れば、あとはおもしろいように進む。そして無用であることの確信が、民族の遺産としてわれわれに与えられる。それは祖先が額に汗し、数限りない屈辱のはてにわれわれのために獲得したものなのだ。
 運のいい事だ。われわれはそれを享楽し、誇示している。屈辱の方はいつでも美化し、ごまかすことができるし、優雅な出来損ないのふりをし、立派に最低の人間になることができる。不幸の<慣例>である礼節は、破産者として生まれ、人生を最後〔ないし「最低」〕のところから始めたものの特典なのだ。かつて一度も〔歴史の表舞台に〕存在したことのない種族の一人であると知ることは、なにがしかの快楽と、官能のよろこびさえともなう苦しみだ。

  誰もが、何でもないときに使う「運命」という言葉に対して、昔、私が覚えた激昂は、今になって見れば子供じみたことのように思える。そのころは、いつか私も〔大人たちと〕同じように発言するだろうとは思いもしなかった。その言葉をかさに着て、運、不運も、また、どんなに些細な幸、不幸もそのせいにし、そればかりか、溺れるものの恍惚をもって<宿命>にとりすがり、日々の恐怖に立ち向かう前に、まず、そのこと〔運命〕を考えようとは。
「空に消え去るだろう、おおわがロシアよ」、とチュッチェフ〔ロシアの詩人:1803-73年〕は前世紀の終りに叫んだ。その言葉は、私の国に一層ぴったり当てはまるように思えた。
 が、それは消え去るために特別に作られ、〔歴史の中に〕飲みこまれるように見事に構成され、理想的な「無名の犠牲者」の特質をすべて備えた国だった。終りもなければ、理由もない苦しみの習慣、災禍に満ちみちて、押し潰される部族の、何という学習だったのだろう!ルーマニアの最も古い歴史家は、次のようにその年代記を始めている。「人間が時を支配するのではない。時が人間を支配するのだ。」
 
 
そっけない言葉ではあるが、それがヨーロッパの片隅のプログラムであり、墓碑銘であった。〔ヨーロッパの〕南東の国の民衆の感受性の調子を知るには、ギリシア悲劇のコーラスの詠嘆〔この点については、ニーチェの『悲劇の誕生』(中公文庫など)を参照〕を思い出せばいい。意識されない伝統によって、その社会の全員がその影響を受けている。ため息と不運の慣習、大国の残忍性を前にした小国の民衆の嘆き節!
 
 しかしもう泣き事はよそう。混乱した世界に対して、つねに変わらぬ悲惨と敗北を持っているということは、力強いことではなかろうか?
 それに私達には、世界中がディレッタンティスム(dilettantisme)〔道楽〕に陥っているときに、悲しみの分野において、皮を剥がれたもの〔生体標本〕と、博学者〔観察者〕の権威とをあわせ持っているという慰めがありはしないだろうか?

 

 こういったシオランのテキストもまた、「世界哲学」なるものの一部へと、普遍主義的に包摂されるべきなのでしょうか?

 このテキストがはらむ熱量は、ドストエフスキーのそれを想起させますが、ドストエフスキーの「誇り」が、完全に反転して「民族的自虐」に沈潜しているところが、シオランの特異な文体の、ある種のグルーブを形成しているように思います。
 なお、シオランはルーマニア出身ですが、1937年以降パリに在住し、フランス語で著作活動を行いました。ここでの「ルーマニア」は、東欧のいわゆる「民主化革命」(1989年)以前のものであることに留意しておく必要があります。

 これらのテキストの魅力は、そのすべてが、与えられた土地の記憶と強烈に結びついている点にあると思います。だとすれば、そうしたテキストを「世界哲学」の陳列棚に収納することによって、その土地とのつながりが切断され、結果的にテキストの意味が西欧中心主義的に変容してしまうのではないか、という危惧がどうしても拭えないのです。


いいなと思ったら応援しよう!