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シオラン&シモーヌ・ブエ:死の意味

五人の死の意味 第1回

シオランとシモーヌ・ブエ


最近、ふとしたことで、シモーヌ・ブエ(Simone Boué, 1915-1997)
が亡くなっていたことを知りました。

彼女の名前は、シオランの著書で時折見られる「隠されたパートナー」
として記憶に残っていましたが、実像はほとんど知りませんでした。
少し調べてみると、驚くような事実が次々と明らかになってきました。

エミール・シオラン(1911-1995)は、ルーマニアの小さな山村ラシナリ(Rășinari)で生まれました。 人口数千人のほんとうの田舎で、
父親は正教会の司祭。 幼い頃から重度の不眠症に悩まされ、村の風景を語る際には、牛のふんの匂いや泥だらけの道の話ばかりが出てくるほど、田舎臭が染みついていました。 彼自身、後年になっても
「私は牛のふんの中で育った」と自嘲気味に語ることがありました。

母親は伝統的な価値観からかなりずれている人で、シオランが苦しみを訴えると、
「それほど苦しいのなら、産まなかったのに」
と言ったそうです。
この言葉に幼いシオランは呆然としましたが、後に振り返ってみると、
「この一言が、私の人生で最も役に立った」
と語っています。
母子ともに、伝統的な「家族の幸福」や「生きる意味」を素直に受け入れ
られないところがあったのでしょう。
シオランは生涯、この母親を慕い続けました。

この点は、どこか、タデウシュ・ボロフスキや
ミラン・クンデラの
周辺と似ている気がします。
伝統的価値観からずれながらも、母への慕情を終生持ち続け、
家族の「幸福」を素直に信じられなかったところなど。
そういえば、ロラン・バルトにも似ているかもしれません。
バルトが、最愛の母を看取った際の『喪の日記』
で描かれる母子関係の微妙な距離感——母を愛して
いるが、言葉では説明できない、理解しきれない、
という矛盾を抱えた慕情が、
シオランの母親への思いとどこか重なるように思います。

ブカレスト大学で哲学を学んだ後、1935-1936年頃にドイツへ留学しました。 当時勃興しつつあったナチスに一時共鳴した時期があり、
ヒトラーの演説に感動したこともあったそうです。
後にこれを激しく後悔し、
「私は一瞬だけ狂気に触れた」と自らを断罪しています。
この経験が、権威や全体主義に対する根深い嫌悪を育てたのかもしれません。
シオランは基本的に反権威主義的で、どんな権力・イデオロギーをも信じず、スペインやロシアといったヨーロッパの「辺境」を好みました。
また、ローマ時代の「背教者たち」(ユリアヌス帝など)に共感し、
国教であるキリスト教や帝国の権威に反抗した異端者たちを、
密かに自分の鏡像のように見ていたようです。

1937年にフランス政府の奨学金を得てパリへ移住します。
ルーマニア語はラテン語と同系統で、フランス語と語彙・文法がかなり
近いため、言語の転換は意外とスムーズだったといいます。
それでも貧困と孤独は極限的で、学生食堂や奇妙なアルバイトで食いつなぎ、精神的にも経済的にも本当に危うい状況でした。
もしこの時期に支えとなる人間がいなければ、シオランがパリで生き延び、フランス語で哲学を書き続けられたかどうかは、かなり怪しいと思います。

そんな1942年、彼はシモーヌ・ブエと出会いました。 当時31歳のシオランに対して、シモーヌは27歳頃。 英語教師で、金髪のフランス人女性でした。 出会いはパリの左岸、カフェや書店街をうろつくような日常的な場所だったようです。 二人はすぐに意気投合し、自転車で一緒にパリを走るのが習慣になりました。 シオランは自転車を走らせながら、ルーマニアの田舎話や不眠の苦しみを語り、 シモーヌはそんな彼の話に耳を傾け、時には一緒に黙って並走していたそうです。

以後、50年以上にわたって事実上の生涯のパートナーとして
一緒に暮らしました。 主な住まいはパリ6区、
オデオン通りのかなり高層階の小さなアパートです。
(シオランは高所恐怖症ではなかったようで、窓からパリの街を見下ろしながら思索にふけるのが好きだったと言われています。)

シモーヌは英語教師として働きながら経済面を支え、
原稿のタイプ打ち、校正、生活のすべてを管理しました。
彼女がいなければ、シオランの隠遁生活や執筆はかなり違う形になっていたでしょう。

そして、ここに最大の皮肉があります。

シオランは生涯にわたって自殺をテーマに語り続け、「自殺するのは楽観主義者だけだ」と言って、人生を徹底的に仮りのものとして笑い飛ばしました。 しかし彼とシモーヌは、「心中の契約」を結んでいたのです。
アルツハイマーなどで廃人になる前に、一緒に死のうという約束でした。

結局、シオランは1995年、84歳でアルツハイマーにより意識を徐々に失い、Broca 病院で、静かに意識が「自然消滅」しました。
彼が最も恐れていた「意識の地獄」から、自分で何も決定せずに、
しかし、逃走した形になったのです。
シモーヌは、シオラン没後 2 年目、
1997年に、Vendée、あるいは、Dieppe の海岸で溺死しました。
事故か自殺かは今もはっきりしませんが、
「後を追った」と見る人が多いようです
(cf. Jason Weiss, Cioran, University of Chicago Press, 2003)。

虚無と自殺を語り続けた人物が、ルーマニアの片田舎から出てきた異邦人
として、50年以上にわたって一人のフランス人女性に深く依存し、
「心中の約束」まで交わしていた——
これほどシオランの哲学を根底からくつがえす結末はないと思います。

最後のシオランは、果たして幸せだったのでしょうか。

虚無を語り、自殺を「楽観主義者の行為」と切り捨て、人生を仮りの劇場と嘲笑い続けた彼が、 84歳まで生き延び、意識が自然に消滅し、傍らには50年以上連れ添った女性がいた。
「心中の約束」は失敗に終わりましたが、彼女は後を追うように
死んでいった。
これを果たして「幸せ」と呼べるかどうかは、
それ自体として一つの哲学的な問題ですが、
シオラン自身は「幸せ」などという言葉を嫌ったでしょう。
それでも、孤独を極めることはできず、
依存と支え合いの中で死んだという事実は、
彼の哲学を静かに裏切っています。
「虚無」は、結局一人では、完結させることができないもの
だったのかもしれません。
あるいは、この「非ー徹底性」こそが、
彼が、ニーチェと自分自身とを区別した、
「世の只中で人生を生きる」ことなのかもしれません。

次回は、デカルトとフロイトについて、その終末を検討してみたいと思います。
その後、放哉、山頭火へと続きます。

(全4回)


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