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普通のなかにある普通じゃないを見よう

突然ですがみなさん、ご自分のことを「普通の人」だと思っていますか?

自分を「フツーの人」って言う時、少しネガティブ寄りの気持ちがこもっていることが多い気がしています。

私が中学生だった頃、漠然と自分のことを「普通中のザ・普通人間」だと思っていました。

成績、運動神経、容姿、育った環境…
全てが良くも悪くも目立つことのない範囲で収まっていると。

そして、そのことに心から安心感を覚えていました。幸せだなぁとも感じていました。

他人との違いに敏感になるお年頃特有の考えだったのでしょうか。
しかし、なんと夢のないことよと今では思います。

その後、私立の高校へ進んだ私は一層(成績、家庭の経済的状況について)多様性の少ない環境ですくすくと成長し、大学に至るまで、「自分は普通、そして普通がいちばん。このまま普通に生きていきたい。」との思いを強くしながら進んでいきました。

しかし、大学に進んで1年ほど経った頃、高校の同級生のKちゃんと遊んでいて、こう言われたのです。
「普通?私の周りにはいちまんまいるみたいに、めっちゃ勉強してる人、1人もいないよ!全然普通じゃないよ!」

生まれて初めて「普通じゃない」と人から言われ、私が自分の狭すぎるほと狭い視野に気が付かされた瞬間でした。

高校で自分の夢に目覚めた私は、がむしゃらに勉強し、自分としては背伸びした大学に入学し、卒業後の資格取得のために勉強していました。

しかしそれも、周りに付いていくのがやっとで、もっと努力していたり、ずっと能力の高い人が周りにたくさんいました。

だから、やっぱり自分は凡人で普通だと思っていたんです。

私の普通は、自分の狭い世界の狭い常識の中の普通だった。

井の中の蛙大海を知らず。
私は当時の女性の大学進学率も、平均年収も、世界のことも、何も知らない愚かな蛙でした。


なぜこんな恥ずかしい昔話をするかと言うと、息子の不登校により、再び「普通」について考える日々がはじまったから。

不登校35万人(2024年度)

中学生ならクラスに2人、小学生ならクラスに1人いるかいないかくらい。

これは普通か、普通じゃないか。

左利きはおよそ10人に1人らしい。
ドラマとかで左利きの俳優さんを見かけたら、あ、左利きなんだって反射的に考えてしまう。

反射的に、あっ、この人「違う」んだって思ってしまうことが「普通ではない」と感覚的に定義するなら、左利きも、不登校も、普通ではない。
(かく言う我が家の長女も義母も左利き。)

しかし、だ。
少し周りを見渡してみれば、10人に1人よりレアな人間などいくらでもいる。

何かがちょっと珍しい状況、と考えれば、皆さんの周りにもすぐに思い浮かぶことと思う。

私の周りに実際にいる人を少し考えただけでも
 シングルファーザーのご家庭
 ダウン症のお子さんを持つ人
 お祖父様が華道家
 希少がんを患う人
 お子さんを7人生んだ人
 オリンピック出場経験者

おそらく確率的にはひとクラスに1人もいないはずだと思う。

職業や持っている資格などで考えればひとクラスに1人2人くらいのものなんて、ざらにある。
上に挙げたような個人的な体験や状況まで考えれば、もはや「普通」が何を意味するのかさえわからなくなってしまう。

息苦しさを覚えていたはずの日本社会が、思いの外多様性を抱えていることに、今更ながら気がつく。

不登校など、レアですらなくなっている。だからこそ社会問題化しているとも言える。

それでも、不登校の親が「普通でなくなってしまった我が子」に悩み苦しむのは何故だろうか。


左利きの話に戻る。
一昔前は左利きを右利きに矯正することが当たり前であった。
右利きを前提に作られている社会、文化的なものに、身体の方を変えて合わせていくという考え方である。

不登校も同じ構造にあるのではないか。

3,40人の子どもたちを一斉に教育するためには、現在の教室のあり方が効率的だった。
保護者に子どもへの就学義務を課して、一定レベルの知識能力を付けさせる。
現在の日本のどこにいても同じように教育が受けられる状態は、素晴らしいことである。
しかしそれが可能になった時、教室で起こったことは何だったか。

一斉に物事が進み、ついていけない子ども、はみ出してしまう子どもは、無理矢理その枠にはめられようとした。
そして合わせられない子どもは「罪人」として糾弾されることになった。

大袈裟な表現だろうか。
まだ自己の確立の半ばである当事者の子どもとしては、その位の苦痛であろうと、私は思う。

右利きの中の左利きの子ども。
学校へ行く子どもの中の不登校の子ども。

多数になる方の性質が、均一であればあるほど少数の違いが引き立つ。

社会が多様な人間で構成されるように、学び方、学校のあり方そのものも多様であれば、不登校など目立たない。
それどころか「不登校」という定義そのものが消えてしまうだろう。

学校へ行くか、行かないか。
それだけで線が引かれる学校のあり方は、もっと変わっていかなければならない。


2024年度の不登校児童生徒のうち、新規不登校者数は減少傾向にある。

フリースクールなどへの登校が出席日数としてカウントされることや、オンラインフリースクールの増加などが影響しているのかも知れない。

文科省によって「多様な学びの場」の一つとして設置が進められている「校内支援センター(昔の適応指導教室)」が全国で増加していることも要因だろうと推測する。
(ただし、これについては教室に入れない子どもを学校に来させるだけの装置になってしまい、「見かけ上の」新規不登校者数減少の立役者になっていないか、その運用にはかなり注意深く見守る必要があると思っている)

学校が、社会へ出て行くための準備の場であるとするならば、学校こそが社会以上に多様であるべきだろうと思う。

少なくとも、「みんな同じ」「みんな一緒に」が学校目標のように学ばされることの窮屈さを、「普通」ラインのこちらから苦しい思いで見ている人間がいることを、どうかわかって欲しい。


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