亀岡の「石棚古墳」(第八回)
丹波の古墳時代後期(西暦500年代)を考えるとき、『日本書紀』に記される「倭彦王(やまとひこのおおきみ)」に関する記述が重要である。その話とは次のようなものである。
武烈(ぶれつ)天皇が亡くなったが、後継者がいなかった。そこで大伴金村大連(おおとものかなむらのおおむらじ)は、丹波国桑田郡に仲哀天皇の五世孫である「倭彦王」がいるので、新たな天皇として迎えてはどうかと提案した。群臣たちもこれに賛同し、倭彦王を迎えることとなった。
そして迎えの使者たちが丹波へと派遣された。しかし、使者たちが亀岡近くまで来たところ、倭彦王は何を勘違いしたのか、遠くに見えた使者たちの姿に恐れおののき、顔色を失って山や谷を越え、命からがら逃げ出してしまった。ついには行方不明になってしまったという。
「亀岡を治めていた王は、なんとも情けない人物だったのか」と思ってしまう話であるが、視点を変えてみると、この時期の桑田郡、すなわち現在の亀岡には、皇位を継承する資格を持つ王が存在したと考えることができる。
では、この時期の古墳で「南丹波の王」にふさわしい古墳はどれであろうか。史跡千歳車塚古墳(写真上)は全長約80メートルを誇り、古墳時代後期に築かれた前方後円墳としては、南丹波だけでなく福知山盆地や篠山盆地を含めた丹波全域で最大である。
最近の調査では、古墳の周囲を巡る濠が二重であることも確認されており、その規模と内容は、まさに王墓にふさわしいものといえる。三段に築かれた墳丘には葺石(ふきいし)が施され、埴輪(はにわ)が立て並べられていた。さらに、この埴輪は、宮内庁が治定する陵墓とは別に、継体天皇陵と考えられている今城塚古墳(高槻市)と同様に、新池埴輪窯から供給されたものと推定されている。
ちなみに、今城塚古墳に葬られたとされる継体天皇は、倭彦王が行方不明となった後、越前から迎えられて即位した人物である。
今城塚古墳と千歳車塚古墳の埴輪が、ともに新池埴輪窯で焼かれたものであるならば、それはどのような関係を物語っているのであろうか。
そこからは、継体天皇と丹波、さらには千歳車塚古墳の被葬者との関係を考えるうえで、さまざまな可能性が浮かび上がってくる。
その点については、次回考えてみたい。

【2004年(平成16)9月11日土曜日第967号亀岡市民新聞掲載】 2026年(令和8)6月26日加筆修正
