「役に立たなきゃ」が、止まらなかった|紐を外したところに、まだ誰かがいた
心に、ひと呼吸の余白を。
こんにちは、ゆきのです。
名札の紐は、今日も同じ重さで首にかかっている。
断れなかったのは、優しかったからではなかった。
役に立てなくなった瞬間、自分がここにいていい理由をひとつ失う。
長いあいだ、そんな気がしていた。
優しさという言葉を借りていただけで、正体は、もっと単純な怖さだったのだと、今は思う。
退勤の五分前に、内線が鳴ることがある。
フロアの照明は、もう半分だけ落とされている。
他の机はすでに暗く、自分の周りにだけ、蛍光灯の白さが残っている。
「悪いんだけど、これだけお願いできる?」
受話器を取る前から、答えはもう決まっている。
「はい、大丈夫です」
その「はい」が口から出るまでのあいだに、迷った記憶がない。
断る、という選択肢が浮かぶより先に、声のほうが先に動いている。
名札がわずかに揺れて、また静かに下がる。
ただそれだけの数秒の中で、返事はすでに終わっている。
あとになって、鞄を持ち直しながら思う。
今のは、本当に大丈夫だったのだろうか、と。
でも、その問いに答えが出る前に、もう次の仕事に手が伸びている。
名札は、透明なケースに入っている。
名前の下に、部署の名前が並んで印字されていて、平たい紐で首から下げるようになっている。
紐は、指でつまむと少し厚みのある、テープのような感触がある。
表面はつるりとしていて、糸のようにほつれる気配がない。
うなじのあたりに小さなプラスチックのバックルがついていて、頭から抜かなくても、そこで外せる。
外すときに軽く乾いた音がする。
ケースの表面は、蛍光灯の光を受けるたびに、白く反射する。
写真の中の自分は、今日と同じ顔で、少しだけ緊張して笑っている。
一日中、同じ場所に触れているぶんだけ、うなじのあたりに、うっすらと跡が残る。
その跡は、誰かに見せるためのものではない。
夜、湯船に浸かったときにでも、指先がふと確かめるだけの跡だ。

役に立てるかどうかと、ここにいていいかどうかを、いつから同じことにして考えていたのか、正確には思い出せない。
ただ、頼まれごとに「はい」と答えている間だけ、自分の輪郭がはっきりする感じがあった。
名前の下に並んだ部署名が、そのまま、今日ここにいる理由になっていた。
役に立てている限り、その理由は消えない。
逆に言えば、役に立てなくなった瞬間、その理由は静かに消える。
頭でそう考えたことはなくても、うなじの下では、ずっとそう感じていたのだと思う。
だから、「これだけお願い」と言われたとき、断るという選択肢は、最初から視界に入っていなかった。
断ることは、頼まれごとをひとつ減らすことではなく、その理由そのものを、自分の手で手放すことのように感じられていた。
一度だけ、断りかけたことがある。
「今日はもう」と言いかけて、言葉の途中で止まった。
その先に何と続けていいのか、わからなかったからだ。
理由もなく断る自分を、想像したことがなかった。
想像しようとすると、頭に浮かぶのは、断られた相手の顔ではなかった。
名札のない自分が、誰にも呼ばれないまま、明かりの落ちたフロアにひとり残っている、そんな景色だった。
結局、その日も「じゃあ、少しだけなら」と続けてしまった。
鞄の持ち手を握り直しながら、また同じ台詞を口にしている自分に、少しだけ疲れていた。
不思議なのは、その内線が、決まって退勤の直前に鳴ることだった。
タイムカードに手をかけようとする、まさにその一秒前。
紐を外す前に、まだ外さなくていい理由が、向こうからやってくる。
考えてみると、それは偶然ではなかったのかもしれない。
紐を外すというのは、その日の役割を、自分の手で終わらせる動作でもある。
終わらせる直前に、まだ終わらせなくていい理由を差し出されたら、それはとても魅力的に見えるものだったのだと思う。
紐がある間は、迷わなくていい。
部署名の下にいる自分のまま、一日を終えられる。
紐を外したあとに、何が残るのかを、まだ確かめたことがなかった。

ある夜、いつもより少しだけ疲れていて、内線が鳴るより先に、紐へ手をかけた。
うなじの留め具を外す。
かちり、と小さな音がした。
指先に、紐の平たい感触がまだ残っている。
名札を外して、机の上に置く。
裏返す。
文字の印字されていない、ただの白い面が、上を向く。
そのまま、しばらく手を止めていた。
いつもなら、そこで何かが鳴る。
その日は、まだ鳴らなかった。
窓の外では、最終バスの案内放送が、遠くでかすかに聞こえていた。
机の上には、名前も部署名も見えなくなった、小さな板だけがあった。
何もない。
最初は、そう思った。
長く紐を下げてきた場所に、ぽっかりと空白があるだけのように感じられた。
そう思いかけて、少しだけ違う感触に気づいた。
うなじに、紐の跡がまだ残っていた。
指で触れると、うっすらと温かかった。
名札は、もう何も語っていない。
裏返した白い面には、名前も、役に立てるかどうかも、何も書かれていなかった。
それでも、その跡を確かめている指は、そこにあった。
紐を外したところに、いなくなった誰かはいなかった。
名札が語らなくなったあとも、確かめようとする手だけは、まだそこにいた。
数日後、また内線が鳴った。
「はい、大丈夫です」と、口が動きかけた。
その一秒だけ、うなじのあたりに、あの夜の跡の記憶が触れた。
結局、その日もほとんど同じように、仕事を引き受けた。
ただ、迷った記憶がないはずだった数秒に、初めて、一秒だけの間があった。
次にまた内線が鳴ったとしても、その日のことを、指先はきっと覚えている。
ゆきの

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