『ライプニッツの輝ける七日間』で変わったわたしのライプニッツ観
『ライプニッツの輝ける7日間』という本を読みました。正直、こんなに薄くて美しい軽やかな本で、ライプニッツという大人物に接近できるとは思いませんでした。ライプニッツって、現代人にはちょっととっつきにくいんですよね。重要な仕事をたくさん残した万能の天才にして大思想家であるにもかかわらず、いくつかの事情により、今日の目からはちょっと捉えにくい人だと思うんです。とくにわたしのような哲学素人にはまずムリ、と思っていました。
本書の著者ミヒャエル・ケンペは、ハノーファーにあるライプニッツ研究所の所長で、ライプニッツ研究の第一人者。そんなケンペさんだからこそ、一般読者向けにライプニッツを語ることの難しさを熟知しているのでしょう。ケンペさん、意表を突くアプローチを取りました。当時としてはけっして短くない70年というライプニッツの生涯から、カギとなる七日を選び出し、当時のヨーロッパの情勢やライプニッツの暮らしぶり、そして彼の頭の中を生き生きと描き出したのです。ああ、ライプニッツはこういう時代に生き、こういう生活をして、こういう問題意識を持っていたのだなぁ、としみじみしてしまいました。
わたし、ライプニッツのことはほとんど知りませんでした。もっと悪いことに、わたしがこれまでライプニッツに多少とも触れたのは、ふたつの出来事を通してだったのです。そのふたつとは、
(1)微積分法の発見の優先権をめぐってニュートン一派と演じた泥仕合。
(2)ヴォルテールによってライプニッツの最善説がこてんぱんにやっつけられた件。
です。
ニュートン一派との泥仕合は、正直言ってかなり見苦しかった。さらに、(ライプニッツの死後のことですが)ヴォルテールが最善説を笑いものにした。そのせいでライプニッツ哲学のブランドイメージは失墜してしまいました(少なくとも哲学素人にとっては失墜した)。
そこでまずはじめに、わたしがライプニッツにこれまでどんなイメージをもっていたかを簡単に書いてみます。次に、『ライプニッツの輝ける七日間』を読みながらあれこれ考えた結果、今はどう思っているかをざっくりまとめます。そして最後に、『ライプニッツの輝ける七日間』そのものについて、ちょっとだけ書き足します。
■微積分の発明をめぐる泥仕合(について、かつてわたしが思っていたこと)
微積分を最初に発明したのは誰か、という点だけに限って言えば、事実関係は明らかです。ニュートンは1665年から1666年にかけて流率法を発明し、ライプニッツはそのおよそ10年後に、彼独自の研究成果として微積分を発明した。それだけのことです。
したがって、「最初に発明」ということでいえば、ニュートンのほうが十年も早い。ただし、ニュートンはその発見を公表せず、自分の胸の中にしまっておいた。一方のライプニッツは研究成果を発表し、西洋の数学を新たなレベルに引き上げた。はっきりしているっちゃあ、はっきりしているんです。ニュートンの伝記『アイザック・ニュートン』(原題Never at Rest)の著者リチャード・S・ウェストフォールが言うように「微積分を発明した栄誉は、たっぷりふたり分あった」。それにもかかわらず、両派は歴史に残る泥仕合を演じることになってしまいました。
そうなった理由はいくつかあると思いますが、ライプニッツ側の最大の失策は(私見によれば)、彼がヨハン・ベルヌーイという、まるでピットブルのように攻撃的な人間をニュートン一派に差し向けたことだと思います。ヨハン・ベルヌーイはとにかく性格が悪い。嫉妬心と功名心に駆られて誰にでも噛み付くし、身内と繰り広げた骨肉の争いも有名です。まるでその天才的能力と引き換えに、悪魔に心を売り渡してしまったかのよう。ライプニッツはそんなヨハン・ベルヌーイを手なづけて、自分は表に出ずにニュートン一派を攻撃した。そんなわけで、わたしのライプニッツ・イメージは良くありませんでした..。
■ヴォルテールの『カンディード』の一件(について、かつてわたしが思っていたこと)
ヴォルテールはその著書『カンディード』で、ライプニッツの最善説を潰しにかかりました。この作品の破壊力はすさまじく、ライプニッツの最善説のイメージは、今日に至るも(少なくとも哲学素人のあいだでは)回復していないと思います。
たとえば、ライプニッツの最善説を表すOptimismという言葉は(ここでは英語のスペルで書いておきます。ライプニッツはフランス語で著述しました)、ラテン語にさかのぼればすぐわかるように、もとはそのものズバリ、最善説とか最善主義とかいう意味でした。ライプニッツの時代はそうだったのです。ところが、ヴォルテールの『カンディード』以降、この言葉は、「悲惨な現実にちゃんと向き合おうともしない、能天気でおめでたいやつ」みたいな意味になってしまったのです。
ヴォルテールがライプニッツの最善説をあそこまで攻撃したのは、わからないではありません。ライプニッツは最善説について緻密な議論をしているのですが、その議論の構造をみていくと、結局のところ、「この世界が最善なのは、神が最善を望むから」というところに行き着いてしまいます。その先はない。そこが思考停止地点なのです。これにはがっかりしましたね。「まじっすか。結局そこですか。神様ですか。あなた、自分の頭で考えてますか?」と言いたくなりましたよ。そんな最善説を、あのヴォルテールが激烈に攻撃したのもムリはないでしょう。
しかし、このたび『ライプニッツの輝ける7日間』を読んであれこれ考え、調べたりするうちに、わたしの見方はだいぶ変わりました。
●微積分をめぐる泥仕合の深層(今のわたしが思うこと)
ライプニッツがヨハン・ベルヌーイとタッグを組んだのは失策だったと思っていました。ヤクザもんを雇ったようなものです。でも、ハタと気づいたんです。誰彼かまわず食って掛かるヨハン・ベルヌーイが心から尊敬し、心酔した相手は、ヨーロッパ広しといえどもライプニッツただひとりだったということに。これにはハッとしましたね。天才ヨハン・ベルヌーイを心酔させたという一点だけをとっても、ライプニッツは第一級の、いや特級クラスの数学者だったはずだからです。
しかも、ライプニッツに心酔したのはヨハン・ベルヌーイひとりではありません。ヨハンの兄のヤーコプ・ベルヌーイもそうだったのです。初期にはこのふたりが、ライプニッツの微積分法を磨き上げたと言っても過言ではありません。ヤーコプとヨハンという兄弟が力を合わせてライプニッツの方法を発展させた、というのではありませんよ。ともに性格に問題のあるこの兄弟が、そんなことをするわけがない。ふたりはそれぞれライプニッツ・ソード(微積分)を振りまわして真剣勝負の喧嘩をしているうちに、結果としてライプニッツの方法を発展させることになったのです。(ライプニッツは父のようなまなざしでこの二人の喧嘩を見守っていたようです。)
兄のヤーコプ・ベルヌーイは、ニュートン一派との泥仕合が本格化する前に亡くなったため、その後はヨハンひとりが下劣に戦い抜いたわけです。でもとにかく、ベルヌーイ兄弟が心酔したライプニッツの方法はたしかにすごかった。なにがすごいといって、それを使うためには、ニュートンの驚異的な物理学的洞察力はいらなかったのです(と、わたしは思います)。システマティックで体系的な方法論になっていた。
そのすごさを端的に伝える手紙を、前述のニュートン伝を書いたウェストフォールが紹介しています。ヨハン・ベルヌーイとライプニッツの業績について、同時代のフランス人数学者レモン・ド・モンモールが書いた手紙です。(モンモールがここで「彼ら」というのはヨハン・ベルヌーイとライプニッツを指しています。)
われわれに微分と積分の規則を教え、諸々の曲線に関して、その接線、変曲・反転の生ずる点、極値、縮鎖線、反射と屈折による火線を見出したり、曲線の求積、重心、重心、振動中心、衝突中心や逆接線法の問題、たとえば一六九三年にホイヘンスのもとで大いなる賞賛を呼び起こした接線の接戦影に対する比が与えられたときその曲線を見出すといった問題が、こういった諸問題にこの計算法を用いるやり方を教えたのは彼らであり彼らだけなのです。彼らこそ、力学上の曲線を初めて方程式によって表現したのであり、微分方程式のなかの未知の項を分離し、その冪指数を減じ、それらの対数や、あるいは可能であれば曲線の求長法を用いて表すこと教えたのです、最後になりましたが、彼らこそ、力学の最も難解な問題、たとえば懸垂線、帆走力、ばね、最速降下そして向遠心運動といった問題に、この計算を数多くそしてみごとに応用することによって、われわれとわれわれの子孫を、このうえなく深遠な諸問題へと通ずる道に置いたのです。
これを読めば、数学と物理に多少とも通じた人なら、ライプニッツとヨハン・ベルヌーイの偉業に「ああ、そうだったのか、彼らだったのか」と感服するに違いありません。ライプニッツの微積分なら、ニュートンのようなすさまじい物理的洞察力をもたない人(たとえばわたしとか)でも、計算の手続きを踏むだけで問題を解くことができるんです。
(わたしは『チャンドラセカールのプリンキピア講義』という本に、訳者のひとりとして参加させていただいたことがあるので、ニュートンの恐るべき洞察力を垣間見た経験があります。)
ライプニッツは間違いなく、数学史上も一等星ですね。
●ヴォルテールの『カンディード』
ヴォルテールの『カンディード』はライプニッツの最善説のイメージをぶち壊し、ほとんど修復不可能なぐらいまで(少なくとも哲学素人にとっては)歪めてしまいました。なぜヴォルテールはあそこまで激しくライプニッツを攻撃したのでしょうか.....。
ヴォルテールの場合、リアルタイムでライプニッツその人を攻撃したというのとはだいぶ事情が違うんですね。ヴォルテールの時代は、ライプニッツの思想は単なる一哲学者の考えではありませんでした。ライプニッツ亡きあと、その哲学は後継者であるヴォルフにより展開され、知的・宗教的エスタブリッシュメントの公式見解のような重みを持つに至ってました。とくにフランスでは、ライプニッツの最善説はカトリック教会の教義と相性が良かったこともあり、学問というよりもファッショナブルでトレンディーな知識人階級の教養みたいになっていた。それがヴォルテールがあそこまで激しく攻撃した理由だったと思います。
ライプニッツが「神は最善を望むから」で思考停止しているからといって、彼の哲学をお払い箱にするのは(わたしはかつてそれをやった)間違っています。なにしろデカルトだって、神の完全性を基礎に据えているんです(『方法序説』の「我思う、ゆえに我あり」のすぐ後ぐらいに出てきます。わたしはかつてデカルトに対しても、「なんだよ、結局そこかよ」と思った哲学的センスのない人間です...)
こういう場合(デカルトやライプニッツのような場合)、基礎をどう設定するかではなく(ふたりとも、神の完全性や善性に基礎を置いたわけですが)、その上に作り上げられた体系に意味があるんだろう、と今は思っています。
◆モナド論について少しだけ
以上、微積分と最善説を例に挙げました。どちらについても、その内容を具体的に展開することはできません(分量がすごくなるし、わたしにそれをやりきる力はない...)。ライプニッツの仕事はあまりにも多岐にわたるため、わたしが多少ともなじみのあるこのふたつにしか触れることはできませんでしたが、最後にもうひとつ、モナドロジーについてひとこと書いておきたいと思います。
わたしは『ライプニッツの輝ける7日間』を読んでいる途中、「あれ、モナドロジーって、現代物理学のホログラフィー原理に似ているんじゃ?」と思ったのです。すぐに調べてみると、どうやらそう思ったのはわたしだけでなく、その観点からライプニッツのモナドロジーを論じている人もいるようです。ここではモナドロジーについてもホログラフィー原理についても説明することはできませんが、ただ、モナドを(ジョルダーノ・ブルーノのそれのように)原子のようなものとイメージするのではなく、ホログラフィーのようなものとイメージすることは、ライプニッツの思想に接近するには役に立つかもしれないと思います。彼の思想にはつねに、システムや関係性、パースペクティヴや連続性といった問題意識が見え隠れしているように思うからです。
◆◆『ライプニッツの輝ける7日間』のこと
本の内容そのものについては、ライプニッツの第一人者の離れ業をじっさいに読んで感じてもらうしかないと思うのですが(わたしにとっては繰り返し読んでみたい本です)、ひとつ、どうしても言っておきたいことがあります。
それは、この本の日本語版の装丁が美しいということです。
ハエまでも美しい! 表紙カバーにもハエが二匹描かれていますが、じつは本文中にもハエがいて、ふらりと舞い降りてはそのへんに止まるのです! ライプニッツが見つめたであろうハエ、ハエが見つめたであろうライプニッツ。ハエはその複眼で、ライプニッツをどう見ていたのでしょうか?
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この記事のトップ画像は、ロバート・フックの『ミクログラフィア』に掲載されたハエの図です。(自分がもっている本をスマホで撮影しました。)このハエのスケッチは、『ライプニッツの輝ける七日間』にも出てきます!
ライプニッツとフックはロンドンで会っているんですよね。顕微鏡も開発された、そんな時代です。
