ジョン中濱万次郎と労働組合
労働組合の源流を辿っていくとジョン中濱万次郎に辿り着く
1.労働運動の源流を辿っていくと
今の連合運動、労働組合の歴史を辿っていくと、最後にはジョン万次郎(ジョン中濱萬次郎、以降、万次郎)に辿り着く、という話を寄付講座や様々な場で披瀝させていただいてきた。自ら一次資料をあたって体系的に深く研究したわけでもない。何冊かの書籍やウェブサイトに頼って自分なりに知ったかぶりをしているといった方がいいだろう。しかしながら何よりも歴史の妙ともいうべき、先祖先輩たちが紡いできた糸がずっとつながっていると思えた瞬間、自分なりにこれは語り継いでいくべき労働運動のロマンであると確信し、この話を披瀝せずにはいられなかった。学生時代に伝記本などを読んだことはあったものの、遠い昔の話としてそれまでそれほど意識していなかった万次郎が急に近しく思え、関連する書籍をみつけては読み漁った。彼はそれほど表舞台に立ったわけではない。しかし、日本の近代化に果たした役割というのは、小さくはなかったと思えるようになった。
万次郎を顕彰・研究する団体「中浜万次郎の会」などもあり、万次郎の研究者は少なくない。その中の一人、元参議院議員の平野貞夫先生には、ご本人に仕事の関係で度々お会いし、ご自身の著書「ジョン万次郎に学ぶ~『自立と共生』の理念に生きた男」を紹介され、講演録を収録した万次郎に関する小冊子もいただいたことで、万次郎と労働組合の不思議なつながりを知るきっかけになった。先生の前述の著書で万次郎がもたらしたものが労働組合につながっているという指摘をしているのだが、なんとそれは連合事務局長、会長代行を務めた逢見直人氏(UAゼンセン同盟出身、現富士社会教育センター理事長)から教わったという。労働組合の源流を辿れば万次郎に辿り着くというのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」といった類のこじつけの与太話ではなく、れっきとした史実にもとづいた事実であるということを素人ながらに述べてみたい。
2.万次郎本
漁民仲間と土佐沖で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、やがて日本に帰国を果たすくらいのエピソードは広く知られるところであるが、明治維新前後、あるいは明治時代をどう生きたかというのは、それほど知られているわけではない。万次郎は、米国においてもJohn Munnとして知られており、エミリー・V・ウォリナーが資料や取材をもとに書き上げた「ジョン万次郎漂流記」が1956年に発表され、その後日本語訳も出ているが、米国でも知る人ぞ知る存在となっている。特に児童文学作家マーギー・プロイスが書いた「ジョン万次郎 海を渡ったサムライ魂」は広くアメリカの子供たちに読まれていることが過去、テレビ報道もされたことがある。
日本では、1937年に直木賞を受賞した井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」にはじまり、津本陽の「椿と花水木~万次郎の生涯」、山本一力の「ジョン・マン」シリーズはよく読まれている。万次郎の孫の中濱明の「中浜万次郎の生涯」(1970年)、曾孫の中濱博が著した「中濱万次郎~アメリカを初めて伝えた日本人」(2005年)は、三代目、四代目の子孫にしか知りえない書簡や日記も含め豊富な資料で書き上げられたもので、きわめて興味深い。「漂巽紀畧(ひょうそんきらく)全現代語訳」~ジョン万次郎述/河田小龍記~はジョン万次郎が帰国後、開明派の土佐藩主山内容堂に引き取られた際、日本語を教えていた世話係の日本画家、河田小龍に万次郎が語ったものを河田小龍がさし絵とともにまとめたものである。これが幕末に活躍した坂本龍馬が読み、河田小龍から直接国際情勢について話を聞いたことが大政奉還、明治維新につながっていく。
平野貞夫先生の前述の著書は、労働運動に身を置いてきた者にとって極めて興味深いものであった。筆者は連合本部役員を退任し、労働教育事業に5年ほど携わり、今もそのお手伝いをする身であり、いまだに労働運動のほんの片隅に引っかかっているが、いまだに万次郎がもたらしたものの中に労働運動の思想的遺伝子が受け継がれていると信じて疑わず、その思いは強まるばかりである。その理由は後述するとして、話は前後するかもしれないが、まずは日本の労働運動の始まりについて見てみたい。
3.日本労働運動のはじまり
日本の労働運動の始まりを調べれば、1897年に片山潜、高野房太郎、城常太郎、澤田半之助といった、米国に渡って帰国した人たちが結成した「労働組合期成会」が初めて日本で結成された労働組合であるというのが、いわばわが労働界では定説になっている。
当時の労働事情はどうであっただろうか。明治維新の地租改正(1873年)などの改革の影響もあり、特に地方ではますます貧困に拍車がかかった。農村部の若者は職を求めて、故郷を捨て、新天地の米国、ハワイやカルフォルニアへ渡っていった。日系移民の始まりである。1860年代から始まり、日本人排斥が強まった1925年頃まで続く。最初の一世移民たちは鉄道建設や缶詰工場、製材所や農場で労働者として過酷な労働を強いられた。留学生は、官費留学生や資産家の子弟は主に東部の大学に留学し、帰国して要職を得た。そうでない者は、農場労働、あるいはレストランの食器洗いや住み込みの家事手伝いなどをしながら「スクールボーイ」となって無料の学校に通った。学業を成就できず挫折した若者も少なくなかった。
そのような中、片山潜はサンフランシスコで働きながら苦学し、キリスト教を学び、会衆派教会(プロテスタント、組合教会ともいう)に入信、イエール大学に学んで学位を得た。高野房太郎はサンフランシスコやシアトルなどで職を転々としながら労働運動を知る。城常太郎(評伝に彼の子孫が書いた「日本で初めて労働組合をつくった男 評伝・城常太郎 牧民雄著 同時代社」がある)は靴職人としてサンフランシスコへ渡り、高野らと知り合う。澤田半之助はサンフランシスコで日本人として初めて洋服店を開業した仕立て職人であり、同じく高野らと知り合った。
米国で労働組合結成のための準備・研究機関としての職工義勇会を1897年、城常太郎、高野房太郎、澤田半之助らが立ち上げた。この組織は日本人が立ち上げた最初の労働団体ということになる。
職工義友会の思想は、1886年に結成されたAFL、アメリカ労働総同盟にならい、職業別労働組合の設立によって改良主義的労働運動を行うべきであるという点にあり、急進主義、政治的行動を否定していた。
余談であるが、オバマ大統領の選挙参謀を務め、黒人初の米国大統領誕生に貢献したとも云われているハーバード大学ケネディスクールのマーシャル・ガンツ博士を連合大学院設立直前のプレイベントとしてコミュニティ・オーガナイジングの講演会とワークショップの開催のため招聘した。講演の後に催した市ヶ谷の中國飯店での懇談の席上で彼が語ってくれたのは、カルフォルニアの農場労働者を最初に組織したのは、実は日本人だったという話だった。当時は、1860年代から労働者として渡った日本人が移民一世として極めて勤勉に働き、その勤勉さと成功に米国の農場経営者も、さらには白人労働者階級も脅威に感じたため、日本人排斥ムードが高まり、1882年の中国人排斥法に日本人、韓国人も含めろという要求をAFL(アメリカ労働総同盟)が行ったという。この日本人の農場労働者が結成した組合はAFLに加盟を求めたが、AFL会長のサミュエル・ゴンパースは頑として認めなかった。同じくメキシコの移民労働者たちも労働組合を結成し、AFL加盟を申請したら了承された。しかし、メキシコ人労働者たちは同じ場所で働く日本人の労働組合が加盟を認められないなら自分たちも入らないといって結局入らなかったという逸話をガンツ氏は教えてくれた。メキシコ労働者の連帯と友情には感涙する。しかしその一方で、サミュエル・ゴンパース会長は高野房太郎とは懇意になり、彼をAFLの日本担当オルグに任命するのである。自分のテリトリーである米国内では日本人の労働組合は許さないが、日本でなら大いにやってくれたまえということなのだろう。加えて、当時の人種差別の状況が垣間見える気がした。
4.労働組合期成会の結成と挫折
さて、米国の労働運動に学んだ片山潜や高野房太郎らが帰国後、職工義友会を再発足させ、労働組合設立を目的とした労働組合期成会に発展的に改組した。前述した通り、これが定説的には日本最初の労働組合と言われている。
日本最初の労働組合とはいえ、期成会とは「成るを期する」という意味だから、労働組合結成促進団体のようなものであり、今でいう労働組合そのものではない。各地で演説会を開いて職業別組合の結成を呼び掛け、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合が結成されるに至った。佐久間貞一(秀英舎、現大日本印刷株式会社の前身を立ち上げた一人。社名は英国より秀でよという意味で勝海舟がつけた)は実業家でありながら、活版工組合の設立を支援、期成会の評議員にも就いている。期成会は組合員間の相互扶助を大きな活動内容としていた。高野自身も共働店(生協の前身、1898年以降各地で設立された)を開設して資金を稼ぎ、その活動を支援した。また、機関紙『労働世界』を発行するなどして、1899年には会員が5700人にも達した。
しかし、日清戦争あたりから労働運動が先鋭化してきたため、第二次山形有朋内閣は1900年に労働組合を規制するための治安警察法を施行した。労働組合期成会は各組合の財政難、使用者側の反撃、政府の弾圧とあいまって衰退し、1901年にあっという間に解散してしまった。
5.漁民万次郎の漂流
労働組合期成会の後、再び労働運動の芽が出てくるのは、11年後になる。1912年に鈴木文治が中心となって立ち上げた友愛会である。
今の連合運動、労働組合にダイレクトにつながってくるのが、この友愛会ではないかと考えている。それはなぜか。連合運動そのものに、万次郎が伝えたものが継承されてきているからである。その話を進める前に、さらに時代を遡っておく必要がある。
嘉永四年、西暦1851年、2023年の今から数えると172年も昔の話になる。琉球沖で上海に向かう茶積船のサラ・ボイド号から下ろされた冒険者号(Adventurer)と名付けられた小さなボートは、三人の日本人を乗せ、摩文仁小渡浜(現在の糸満市大度浜海岸、本島最南端・喜屋武岬の東側)に潮の干満を見計らいながらやっと辿り着いた。その中に、ジョン中濱万次郎がいた。オールで漕ぐボートで、他の二人は操船の経験はなく、船乗りの万次郎が一人で漕ぎ切った。
ジョン万次郎という名前は、正確を期せば、その時はJohn Munnであり、土佐中浜村の万次郎であった。昭和13年に直木賞を受賞した井伏鱒二の「ジョン万次郎漂流記」以降、ジョン万次郎という名前が使われるようになった。
万次郎ら琉球帰着の年の1851年からさらにさかのぼること24年、土佐の中濱村、現在の高知県土佐清水市中浜で1827年に半農半漁の貧しい家に生まれた万次郎は9歳の時に父をなくし、兄も病気がちだったため、直線距離でいえば中浜から90kmほど離れた宇佐浦(現在の土佐市宇佐町宇佐)の船頭筆之丞(後に伝蔵と改名)のところで働くことになった。
1841年1月5日、万次郎にとっては初漁となるはえ縄漁、船頭の筆之丞を含め4人の乗組員とともに宇佐浦から出港した。7.6mほどの小さな舟である。万次郎は14歳で一番若かった。しかし、運悪く足摺岬沖で時化に遭い、室戸岬沖を越えてなすすべもなく、今の伊豆鳥島に流れ着いた。伊豆半島先端と小笠原諸島のちょうど中間点に位置する無人島である。
5人の哀れな漁民たちはそこでアホウドリ、海藻、貝などで食いつないでいたが、季節が変わりアホウドリも島を去ってしまい、飢餓の中で希望を失いかけていた143日目に、偶然、海亀の卵を採ろうとボートを下して島に近づいた米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号の船員に発見され、助けられた。
一番若く利発な万次郎は同船のホイットフィールド船長に気に入られ、他の4人はハワイで下船してしまったものの、そのまま捕鯨基地の町、マサチューセッツ州のベッドフォードに連れていかれる。港に帰着したのは1843年5月のことだから、その間、船員の間ではジョン・マンと呼ばれていた万次郎は1年半を船員たちと海上で過ごしたことになる。一つの航海は極めて長かったことがわかる。
ホイットフィールド船長は万次郎をベッドフォードの隣町、フェアヘイブンの町の自宅に連れて行き、一緒に暮らすことになった。
土佐の漁民で、まったく教育を受けていなかった万次郎に、船長は米国人と同じ教育を受けさせる。最初は公立学校であるオックスフォード・スクールで小学生に交じって英語の基礎から勉強を始めたが、フェアヘイブンの郊外のスコンチカットネックというところに船長が農場と新居を得て暮らし始めたので、そちらに移り住み、学校もスコンチカットネック・スクールに転校し、初等教育を受けた。
その学校を卒業すると、当時のフェアヘイブンでは最高レベルの学校である航海士養成学校、バートレッド・アカデミーに進み、高等数学、物理、航海術、測量術、捕鯨技術、英語などを学んだ。自立を求め、フェアヘイブンの港の近くの樽屋に丁稚奉公で働きながら学校に通った。鯨油をためる樽づくりは捕鯨船にはなくてはならないものであり、そこで身につけた樽づくりの技能も後々役立つことになった。栄養失調で一度は家に戻ったりするのだが、勉励刻苦、なんと首席で卒業するのである。
万次郎が優秀だったという話は地域に住む人たちにも伝えられているという。後に教育に熱心になったのは、万次郎のゼロからの出発でのこの実体験があるからこそではないか。
卒業後は、捕鯨船に乗って鯨を求めて世界の海を航海し、その優秀さから最後は副船長にまでのぼりつめる。乗っていた捕鯨船の船長が航海途中、精神に異常を来たし、下船させられたのだが、新たに船長を選ぶにあたって、乗組員全員による選挙となった。そして万次郎はもう一人の船員と同数の票を獲得したのだが、年上だったその船員が船長になり、万次郎は副船長になったという。その若さですでに技術・力量や人望も申し分のない青年に育っていた。
江戸時代、実は結構多くの漁民が漂流し、ある者は海外で暮らし、ある者は帰国していた。イギリスに帰化した音吉、世界一周した津太夫、種痘苗を初めて持ち帰った久蔵、ロシアで初めて日本語を教えた伝兵衛などなど。万次郎が漂着した伊豆鳥島にも100人以上の日本人が漂着していたと言われている。
しかし、日本に一番大きな影響を与えたのは、この万次郎ではなかったか。
6.異端のユニテリアン思想
さて、そろそろ本題に触れたい。万次郎はホイットフィールド船長が先祖代々通っていた教会に家族として連れて行かれる。ところが万次郎が黒人と同じ有色人種であることを理由に教会は万次郎を連れてくることを頑なに拒否したのである。これにホイットフィールド船長はいたく立腹して、万次郎を受け入れてくれる教会を探して回った。それで唯一受け入れてくれたのがユニテリアン教会だった。船長も代々通っていたそれまでの教会を抜けて、改宗してユニテリアン教会の信者となった。船長の人柄も素晴らしいが、どれだけ万次郎を愛してくれていたかがわかるエピソードである。
このユニテリアンという宗派、正統派のキリスト教徒が信じる三位一体、つまり父なる神、神の子たるキリスト、聖霊が一体であるという考え方を否定し、神の唯一性を信じる人々だといわれている。つまりキリストはすぐれた人間のリーダーであって、神の子ではないというものである。したがって、325年の宗教会議(第一ニカイア公会議、キリスト教の歴史で初めて開かれた全教会規模の会議)で決定した三位一体説をとるのが権威ある正統派のキリスト教であるとして、このユニテリアンは異端視されていた。
ユニテリアンは万人救済を教義として、人類愛や隣人愛を主張する。異宗教間の交流にきわめて積極的で、他宗教や他文化に寛容である。自由と理性と寛容を重んじ、権威への盲従を嫌う宗派なのである。
7.アメリカ草の根民主主義のバックボーンたるユニテリアン主義
ユニテリアン自体はポーランドやルーマニアが発祥だと言われており、その思想が英国にも流入し根付いた。詳述は避けるが、ユニテリアンの中にも4つの派があるとされている。
米国でのユニテリアン主義の発祥は、1620年にメイフラワー号で英国を脱し、マサチューセッツのプリマスに上陸した清教徒(ピューリタン)が結成した「会衆派」をルーツにしている。この会衆派は組合派、組合教会ともいう。会衆制とよばれる教会員(会衆)の直接民主制に近い制度で運営され、各教会の独立自治を重視する宗派である。
ちょうど万次郎が暮らしていた頃は、ボストンを中心にユニテリアン主義による運動がもっとも盛んな時期にあたっていた。思想家のエマソンや詩人のホイットマンが牽引し、アメリカの草の根民主主義を展開した。ジェファーソン大統領やリンカーン大統領もユニテリアンに共感し、支持していたといわれている。万次郎はそういう教会に通い、教会でアメリカの民主主義も学んだことになる。
この教会の信者代表がワレン・デラノという人で、万次郎らを救ったジョン・ハウランド号の船主でもあった。彼は万次郎を大層かわいがった。実は、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は彼の孫にあたる。事実、ルーズベルト大統領は、1933年に万次郎の孫にあたる中濱清に万次郎と祖父ワレン・デラノについての自身の思い出をつづった書簡を送っている。
万次郎自体は帰国後、ユニテリアン信者と自ら表明したことはなかったが、彼自身の言動や行動はユニテリアンそのものであった。自分の言動に責任を持ち、救いは自らが勝ち取るものであり、人類全体が救済されるべきものとの教えの通り生き抜いた。自らの体験から、教育の重要性を骨身にしみて感じていたはずの万次郎は幕末、明治を通じて、英語や西洋事情を学びに自分のところに来た多くの人たちにニテリアンの思想にもとづく人間教育をしっかりと行い、彼の教えを受けた者の中から多くの指導者を輩出した。
8.万次郎決死の帰国と伝えたものの大きさ
万次郎は米国では非常に恵まれた生活を送ることができたのであるが、一方の日本は鎖国を続けており、捕鯨船が日本の近海で遭難したりしても、遭難船員を罪人扱いしたり、飲食物を補給するためにボートで岸に近づけてもすぐに追い払われたりと、船員の間では極めて評判が悪く、武力をもって開国させて、港を使わせてもらおうといった話が頻繁に出ていた。
万次郎は、このままでは日本はあぶない、開国を訴えるため帰国しようと決心するに至った。母親に生きている間に会いたいという望郷の念も相当に強まっていた。
捕鯨船で稼いだ金もあったが、それでは足りず、帰国費用を稼ぐために当時、ゴールドラッシュで沸いていたカルフォルニアに行く。砂金を採って帰国費用をまかなえるだけの金を稼いだが、殺人も日常茶飯事の無法地帯、二丁拳銃を腰にぶら下げながら砂金を採っていたといわれている。まずはその金でハワイに行った。上陸用のボートを買い、日本の方面に航路をとる商船を探した。ハワイで降りた仲間のうち一名は亡くなっていた。一人はハワイの生活に根付いており帰国を希望しなかったが、二人が万次郎とともに帰ることになった。そして冒頭に紹介した琉球に上陸するシーンにつながってくる。
帰国するといっても、当時は鎖国の禁を破れば死罪であるから、相当な覚悟と勇気がなければ為しえない行為である。漂着した3人は琉球から薩摩藩に移送され、長崎では踏み絵を踏まされた。ユニテリアンはそもそも偶像崇拝をしないので、万次郎は躊躇なく踏みつけて事なきを得たという。薩摩藩は開明派の島津斉彬が藩主、万次郎を手厚くもてなし、最新の西洋事情を聴取し、近代化にいち早く着手したことが明治維新で優位に立てたともいわれている。そののちに土佐藩預かりになり、同じく開明派の藩主山内容堂も彼からの情報を得ている。日本画家の河田小龍が起居をともにし、万次郎につたなかった日本語を教え、万次郎からは西洋事情と英語を教えてもらった。それが前述の「漂巽紀畧(ひょうそんきらく)」としてまとめられる。
坂本龍馬の「船中八策」など大政奉還による議会制度論は、土佐藩で万次郎の情報や思想を河田小龍が聞き書きしたものを龍馬に伝えたことから始まっている。万次郎だけではない。河田小龍という存在がいなかったとすれば、龍馬は議会のことも民主主義のことも知りえず、日本の夜明けは相当遅れたのではないかと思わざるを得ない。
土佐藩預かりの時、1851年11月にようやく故郷の中ノ浜に帰ることができた。しかし故郷にいられたのは三日三晩のみで、すぐに高知に呼び戻され、壱人扶持の下級武士となり、藩の教授館で英語を教えた。
9.万次郎を表舞台に出さない幕府の仕打ち
この頃、1853年7月、ペリー東インド艦隊司令長官率いる黒船四隻が浦賀にやってくる。当時の日本では、英語ができるものといえば、万次郎をおいて誰もいなかった。幕府は万次郎を呼び寄せ、幕府直参として登用した。老中阿部伊勢守が万次郎を召し出し、林大学頭、勘定奉行川路左衛門尉(聖謨、としあきら)、伊豆韮山代官江川太郎左衛門といった幕府幹部の側近の同席の下、海外事情を説明することになった。万次郎は素直にこれに応じている。
しかしペリーが再び来航した際、万次郎は通訳としては登用されなかった。水戸烈公(徳川斉昭)や阿部伊勢守らが、万次郎がアメリカに有利なことをしないか疑ったためである。実に狭い了見である。実際、日米との交渉においては、通訳は英語からオランダ語へ、オランダ語から日本語へ翻訳されるという何とも愚かしいことをやった。しかも日本人通訳の学んでいたオランダ語はその時代からさらに250年前に使われていたような代物で当時のオランダ人さえ理解が難しかった。当然、国際公法上のテクニカルタームはわかるはずもなく、下田の米国領事館にいた総領事のハリスは、意思を疎通させる上での大いなる苦労を記録に残している。幕府は万次郎を疑いの目でみていた一方で、米国側は万次郎を信頼し、評価していたというが、まったくの皮肉である。
その後、万次郎は幕府の軍艦操練所教授となり、そこに英語や数学、航海術の教えを万次郎に請いたい人たちが多く集まった。
10.咸臨丸での活躍の一方で
ペリーの武力の示威行動をもって幕府に飲ませた日米和親条約締結後、伊豆下田に米国のタウンゼント・ハリス総領事が着任したのが1857年である。翌年8月には品川沖のポーハッタン号上で日米修好通商条約の調印が行われ、条約批准交換のために日本の使節が派遣されることになった。これが咸臨丸である。
当時の幕府はメンツを保たなければならない。しかし太平洋をわたる技量など持っている日本人は万次郎のほかに誰もいなかった。鯨を追って七つの海を航海し捕鯨船では船長に推されるほど航海術に長け、英語もできる万次郎であったが、彼を乗船させることに異議を唱える勘定奉行もいた。
結局、代表者である木村摂津守が再三、幕府に万次郎を同行させるよう要求したため万次郎乗船が実現することになった。艦長は勝海舟が務め、福沢諭吉も出発間際にぎりぎり飛び入りで乗船した。米国人の手など借りなくても自分たちでできると豪語していた幕府側の人間は、太平洋の荒波を経験したことはない。ほとんど全員が船酔いで何もできず、米国側の水兵に助けられる始末で、万次郎だけは平然としていたといわれている。サンフランシスコに到着する前、嵐に遭い、勝艦長も万次郎に操船を譲らざるをえなかった。
にもかかわらずである。到着後、使節はワシントンに移動するが、万次郎はその使節からはずされて、首都ワシントンに行くことはなかった。幕府側の人間の万次郎に対する猜疑心なのか、漁民上がりの下級武士という身分上の差別があったのかは、わからない。
それでも帰国後は、薩摩藩が幕府に要請し、万次郎を招聘して、陸海軍のための総合大学である開成所の教授として航海術や英語などを担当させた。その後、土佐藩の山内容堂が万次郎を明治元年に土佐藩藩士に抜擢し、二年後には明治新政府が万次郎を開成学校(現東京大学)の教授に任命した。
万次郎の動向について仔細に入りすぎたので、その後の活躍は字面を節約するが、猜疑心に満ちた了見の狭い当時の幕府は彼を表舞台に立たせなかったものの、万次郎はそれにくさることなく、教育に力を入れたことは、結果して逆に日本の近代化にとっては都合がよかったのではないか。様々な書籍や記録からも万次郎本人は冷たい処遇について、さほど気にしなかった様子がうかがえる。自らの体験を通じて、教育の効果と重要性を強く認識していたことは間違いないだろう。
彼が習得した英語や航海術などのみならず、合理的な考え方、民主主義、そして博愛思想などユニテリアンの思想を幕末・明治維新の志高き多くの日本人に教え、それが福沢諭吉や森有礼、伊藤博文側近の金子堅太郎などの近代日本の礎を築いた大勢の支配層に浸透していったのである。
11.フェロノサ、ナップ宣教師の来日とユニテリアン運動の盛り上がり
日本に議会制度や憲法を導入するためには、キリスト教文化を理解しなければならない。そのためにユニテリアン思想が最も適切だと明治政府の開明派の人たちは考えた。それが実行に移されたのは、明治11年(1878)であった。
政府は米国でユニテリアンとして知られているアーネスト・フェノロサ氏(当時25歳)を招き、東大教授として哲学、論理学、理財学を担当させることになる。フェノロサ教授は、エマソンの「東西文化の融合」を研究のテーマとし、東洋の高い文化を西洋に伝え、エマソンやホイットマンの世界友愛主義による夢を実現しようとした人である。
フェノロサ教授は、仏教に改宗してしまうが、ユニテリアンへの支援はその後も続ける。彼は12年間、日本に滞在して活躍する。
伊藤博文の側近、金子堅太郎(ハーバード大学卒。伊藤博文総理秘書官、のちに農務大臣、司法大臣)が、ハーバード大学留学中にセオドア・ルーズベルトとも友人となるが、前述のフェロノサにも会い、大きな影響を受けている。金子は1889年(明治22)、議会制度研究のため米国を訪ねたとき、ボストンのAUA(米国ユニテリアン協会)本部で、「現在の仏教は腐敗していて望みはないが、最高形態の仏教とユニテリアン思想は同じだ。ユニテリアン信仰はどの国よりも日本で未来がある」と演説している。
米国公使時代にユニテリアンを知った森有礼(文部大臣、子爵。商法講習所〈現・一橋大学〉設立者)は、米国ユニテリアン協会に接触し、日本への招聘について話をしている。
明治憲法制度の準備をしていた伊藤博文の側近らが、なぜユニテリアン思想に関心を持ったのか。それは議会制度がキリスト教文化で成り立っていることを見抜いていたからだとジョン万次郎研究家の平野貞夫氏は指摘する。議会政治の根底にはキリスト教文化があり、明治の政治家や知識人の多くが、欧米の議会は社会的な教会であり、議会は社会の教会として機能していることを理解していた。だから教会である議会では絶対に嘘を言ってはいけないことを知っていた。最近の国会では嘘を言う者がいる、議会の本質を知らないと平野貞夫氏は嘆くのである。
つまり、なぜこのように当時の支配層がユニテリアンに入れ込んだかと言えば、当時、日本は不平等条約の改正が政治課題であり、欧米諸国はその条件として近代憲法により議会制度を導入することを強く要請していたという背景があったという点も見逃せない。
ユニテリアン思想に関心を持ったのは、政府関係者だけではない。民間の知識人も、他宗教に寛容で、異文化に理解のあるユニテリアン教会なら物真似ではない日本の真の近代化に役立つと期待した。当時の西欧の技術や文化をとりいれる日本の近代化戦術のひとつに、キリスト教もあったといわれている。だが、多くの教団があってどれを取り入れるか調査を行なったところ、ユニテリアン教会派の自由と独立を基本とする教義や、他のキリスト教のようにひたすら布教活動を推し進めることもないということで、文化摩擦が少なく、天皇制国家としても許容しうると判断されたようである。
なかでも福沢諭吉はユニテリアン主義に傾倒した。福沢諭吉のユニテリアンに対する考え方は、明治23年(1890)3月発行の『ゆにてりあん』第1号に載っている。
「教えの目的は人類の位を高尚にして、努力の働きを自由にし、博愛を主とし、一個人一家族の関係に至るまでも、之を網羅して善に向はしむるにありとのことなれば、都て是て現在の人事にして、余輩宗教不案内の者にも甚だ解し易く、果たして其実効を奏せんには、人間至大の幸福これに過るものあらず」(原文ママ)
AUAから派遣される宣教師の世話や協力は、福沢諭吉親子によって進むことになる。
ナップ宣教師は、福沢諭吉の協力で明治21年(1888)3月に来日して、活動を始める。同年4月15日には交詢社において「ユニテリアンの教義について」と題して講演を行ったことが記録に残っている。福沢諭吉のユニテリアン思想にかける並々ならぬ思いはかなりのものであったことがわかる。
福沢諭吉の意を受けて留学中の福沢諭吉の長男一太郎、次男捨次郎は米国ユニテリアン教会(AUA)と接触し、一太郎は、同教会のアーサー・メイ・ナップ牧師とは意気投合し、友人となる。1887年(明治20)、福沢諭吉の長男・一太郎は、ボストンでユニテリアンのナップ宣教師と会う。日本の宗教事情調査のため派遣される準備中だったナップ宣教師は、一太郎に協力を要請する。一太郎は父・諭吉に手紙を出し、ナップ宣教師の訪日目的を説明する。
伊藤博文の意向を受けた金子堅太郎が日本国の代理人として交渉し、同年12月、米国ユニテリアン協会の牧師アーサー・メイ・ナップが来日。伊藤博文はすぐに大磯の自宅、滄浪閣にナップを呼んだ。
明治22年(1889)にはナップ、クレイ・マッコーレイら牧師の使節団7名が来日。明治27(1894)3月、活動の拠点として新たにユニテリアン教会・惟一館が完成する。
ナップ宣教師は福沢諭吉の好意で、賛同者を増やしていく。協力者は福沢だけではなかった。東京帝国大学総長の外山正一(貴族院議員、のちに文部大臣)、同じく加藤弘之(政治学者、帝国大学第二代総長、男爵、のちに枢密顧問官)、東大教授で明六社をつくって啓蒙思想を普及し『自由の理』を記した中村正直らが支援した。文学界では嵯峨の屋おむろ(本名、矢崎鎮四郎)、幸田露伴、北村透谷らがユニテリアン思想から大きな影響を受けており、協力を惜しまなかった。このように明治時代を創った有識者の思想形成にユニテリアン思想が与えた影響は大きい。
軍人の大山巌も万次郎から個人授業を受け、ユニテリアン思想を学んでいた。日清戦争で第二司令官のとき、日本兵に住民からの略奪や捕虜に乱暴することを厳しく禁止した。厳寒の旅順の清国兵の捕虜たちが屋外でふるえているのをみて、自分たちの馬を外に出して屋内に入れ、清国兵は合掌して感謝した。これを見た外国人記者は「地球上で他にない見事な軍隊だ」と褒めたたえた。日露戦争では、総司令官であった大山巌は捕虜収容所に向かうロシア兵を、日本軍に「敬礼」させて見送らせた。その態度に感動してロシア兵が泣いている様子が、英国新聞に報道された。
大山巌のこれらの態度は、万次郎から個人授業として受けたユニテリアン思想によるものであった。ユニテリアンの宗旨である行動重視のナイチンゲール(本人は英国国教会)の逸話にも触発されたのかもしれない。
12.ユニテリアン離れ
福沢諭吉は、慶応義塾に神学部をつくってユニテリアン思想の教育を行うという構想を持っていたといわれる。彼は、明治23年(1890年)の教育勅語は上から押し付けられる道徳では独立自尊の市民形成にはならないと反発していた。病床から高弟たちに編纂させた新しい道徳から成る教訓集「修身要領」(明治32年、1899年)はユニテリアン精神が反映されている。
しかし、ユニテリアン教会は、無批判に教育勅語を評価したということで反発したのではないかとの推測もある。教育勅語の中に「博愛衆に及ぼし」という言葉が入っているが、これは儒教でも神道、仏教の言葉でもなく、まさにこれはユニテリアンの言葉であるという。
加えて、慶應義塾にユニテリアンの神学部をつくりたかった福沢諭吉の構想はユニテリアン教会宣教師の前任・後任の間の人間関係などによって頓挫し、実現が遠のく。落胆著しく、明治30年末から福沢諭吉はユニテリアンから急に離れていき、明治31年9月(1898年)には脳溢血で倒れてしまう。
時代背景として、日清戦争後、日本の資本主義が急速に成長していくなかで理想主義の活動に限界が生じてきたことがあったという見方もある。
明治時代の支配層の人間たちが導入し、普及させたユニテリアン思想は、前述の大山巌のような形で心ある人たちの中には残っていたものの、ほとんどの有識者、政府関係者はユニテリアン思想を放棄していった。
13.労働運動に受け継がれるユニテリアン思想
しかし、ユニテリアン思想は、別の形で運動として継承されていく。キリスト教社会主義に関心を持ち、労働問題や社会問題の解決を真剣に考える人たちが出てきた。本郷教会の牧師になった村井知至、宗教学者の岸本能武太、自由民権運動に加わった実業家の小笠原誉至夫、野球の父と言われる早稲田大学教授だった安部磯雄、そして友愛会を立ち上げる鈴木文治らなどである。
安部磯雄に指導を受けながら、鈴木文治が東京三田にあったユニテリアン教会(現友愛会館がその跡地)を足場に労働者救済のための友愛会を結成する。これが日本労働運動の源となる。以降は、その経緯に触れたい。
14.鈴木文治とユニテリアン教会
鈴木文治は、明治18年、1885年宮城県の今の栗原市で生まれ、10歳の時にギリシャ正教の「金成ハリス正教」の教会で洗礼を受けた。中学卒業の頃には家業が傾くが、両親が工面して、高等学校入学試験に合格、旧制山口高等学校(現山口大学)に振り分けられて入学、苦学する中で、在野の伝道師で社会事業家の本間俊平の影響を受けて社会問題に目覚めていく。
途中、家業が傾き、仕送りもなく死を考え彷徨すること度々といった苦しい生活を送るも、教師の支援や東京帝大の学生であった同郷の吉野作造(東京帝国大学で政治学者となった大正デモクラシーの立役者)の尽力で奨学金を得、教会の日曜学校校舎の留守番として住み込むなどして同校を卒業した。
その後は上京し、東京帝国大学法科大学政治学科に入学、同郷の先輩、吉野作造やユニテリアンの牧師で早稲田大学教授、衆議院副議長になる内ヶ崎作三郎とともに、海老名弾正率いる会衆派(組合教会)の本郷教会に所属したが、この時は困窮していた実家に仕送りもしなければならず、教会の同人雑誌の仕事をしたり、家庭教師をしたりして厳しい生活が続いた。しかし、この教会の自由主義的な空気に感化され、大学では工場法の成立に尽力した社会政策学者桑田熊蔵の社会改良主義を学ぶうちに、社会運動家の道を志すようになった。
文治が在籍した東京帝大法科大学は官吏養成機関とも言われ、その卒業生は軒並み官吏を志望するのだが、文治は新聞記者志望と答えて法科大学長を驚かせたという。大学卒業後は、大学長に東京日日新聞の社長に紹介状を書いてもらうも、同郷の先輩、小山東助(東京日日新聞記者、関西学院高等部文科長、のちに衆議院議員。吉野作造、内ケ崎作三郎と尋常中学校、高等学校で一緒に活動)の口添えもあって、今の大日本印刷の前身である秀英舎(英国より秀でるという意味で勝海舟が命名した)に就職し、労務管理に携わった。しかし、印刷業を一生の仕事にする気になれず8カ月ほどで退社し、東京朝日新聞の入社試験を受けて社会部記者として就職した。
その入社試験の課題は「東京に於ける救済事業現況」というもので、10日以内にレポート提出を命じられた。
当時の日本社会は、資本主義(渋沢栄一は産業主義という言葉を使っている)が導入され、多くの機械式の工場が操業しはじめたが、労働者の地位は低く、困窮を極める生活を送る人たちも多かった。鈴木文治は、浮浪者に変装して無料宿泊所に泊まるなどしてスラム街に潜入取材を行い、宗教団体や信者によって行われていた当時の救済事業の実態も含めた見事なルポルタージュ「東京浮浪人生活」を書き、入社後はそれが紙面に連載された。そうしたことも評価され、社会部の夜の編集主任に抜擢された。取材を通じ、労働者たちが救済もされず、虫けら扱いされていることに義憤を強めていった。しかし、同じ記事を重複して掲載してしまうという大失敗をおかし、責任をとって1年半で退社してしまう。
そのあと、再び同郷の先輩、小山東助にすすめられ、1911年、ユニテリアン派の統一基督教弘道会(伝道団体。会長は安部磯雄早稲田大学教授)の幹事となった。最初は嫌がった文治だったが、社会事業ができると勧められ、それならばということで幹事として就職することになった。英国に留学して帰国した同郷の先輩の同教会の牧師になった内ケ崎作三郎の活動を側面からサポートするためでもあった。米国ユニテリアン教会から派遣されたマッコーレイ牧師の秘書役の仕事や「六合雑誌」の編集にも従事した。現友愛会館(三田四国町、現在の港区芝2丁目20-12)のところにあったユニテリアン教会の活動拠点であった「惟一館」が仕事場である。
惟一館は最初、はじめの教会活動拠点として1890年に飯倉に置かれたが、翌年、京橋に移転し、1894年にはジョサイア・コンドル設計による「惟一館」が三田四国町に完成する。コンドルは鹿鳴館や御茶ノ水のニコライ堂、綱町三井倶楽部(旧・三井家倶楽部)など明治の多くの建物を手掛け、日本人建築家も育てた人物である。東京駅駅舎を設計した辰野金吾は彼の弟子である。彼が設計した惟一館は珍しく和洋折衷の建築物であった。この建設を支援したのは福沢諭吉だった。惟一館はジョサイア・コンドルらしくない建築物であるが、これは発注者であるマッコーレイ牧師が考えた和洋折衷の構想を反映しただめだと言われている。
惟一館は今や高層マンションやホテルなどが建つ港区芝の現友愛会館の場所にあったが、当時この辺りは工場地帯であり、大小の工場が建っていた。その名残は、映画「三丁目の夕日」で出てくるごちゃごちゃとした町工場風景に見ることができる。大勢の工員が働いており、厳しい環境で働かなければならない労働者のために何とかしなければならないという思いを強めていった。
日本の近代化が進む中で、富国強兵策がとられ、資本主義(産業主義)が導入されて、機械式工場が安い労働力で稼働するようになると、人権意識も希薄な時代である。産業発達が多くの労働問題を引き起こすことになる。
※関連する歴史資料は、友愛労働歴史館(港区芝2-20-12友愛会館8階)にみることができる。
15.イギリスのフレンドリー・ソサエティに倣う~友愛会の結成
鈴木文治が教会として何か為すべきだと考えて始めたのが、惟一館の中に設置した「人事相談所」である。労働者の就職のための履歴書代筆などの相談を受けた。さらに「労働問題講話会」という勉強会を毎月15日に開いた。これらの事業はすでに教会の社会事業として試みられていたものである。なぜその日かと言えば、当時、労働者の休日は毎月1日と15日の月休二日制だったからである。
この講話会には、会場となった惟一館の楼上に職工や近隣の人たち350人、多い時には600人、700人の人が集まったといわれている。文治の司会により教会員の讃美歌に始まり、ピアノ演奏や独唱を交えながら著名人講師による労働者の修養論や労働問題の啓蒙運動を行った。幻燈や映画、浪曲なども交えながら、労働者が集まるよう工夫し、徐々に労働問題の話を加えて行った。
また労働者クラブを開設して、毎月1日に労働者との交流の場をつくり、そこで労働者の処遇が上司への賄賂の多寡によって左右されているといった前近代的な労務管理の実態を知ることとなった。これらは教会の伝道団体、弘道会の社会事業として行われた。1910年、明治43年に起きた大逆事件のあおりを受けて、労働問題という名前では治安当局から目を付けられるというので「通俗講話会」と名称変更を余儀なくされた。
この通俗講話会が徐々に、労働組合結成へと動き始める。外国の労働組合の話を引き合いに出して、個人ではなく団結して解決していくしかないと説き、その話に労働者一同感激したという。1912年8月1日、明治天皇崩御の3日後に「惟一館」の図書館で「友愛会」が結成された。
当時は、1900年にできた治安警察法により、労働組合が厳しく規制されていた。労働組合などと標榜した途端に、官憲に徹底的に弾圧されてしまう。事実、労働組合期成会が治安警察法ができた翌年に解散に追い込まれている。そのため友誼的、共済的、研究的団体としてのスタートとなった。イギリスの労働組合が、団結禁止法下で、フレンドリー・ソサエティと称して弾圧を交わしながら労働組合としての力をつけていったという経験に倣い、フレンドリー・ソサエティを和訳して友愛会となった。互いに親睦し、相愛扶助の目的を貫徹させる。公共の理想に従って、識見の開発、徳性の開発・涵養、技術の進歩、さらには、共同の力により着実な方法をもって自らの地位の改善をはかるという綱領であった。これはユニテリアンの精神そのものである。
さらに友愛会の顧問には、法学者で貴族院多額納税議員の桑田熊蔵、内務官僚で警察庁監獄長をつとめ、法学者でもある小河滋次郎、評議員には、慶応義塾大学経済学部の礎を築いた経済学者の堀江帰一、東京帝国大学の法学部からの経済学部独立をすすめた社会統計学者の高野岩三郎(労働組合期成会設立メンバーの高野房太郎は兄)、戸板裁縫学校主幹の武田芳三郎(教育者戸板関子の夫、鳥居坂教会牧師だった)、早稲田大学教授で牧師の内ケ崎作三郎、サン・テグジュペリの星の王子様を翻訳した仏文学者の内藤濯、弁護士の松尾清次、貴族院議員の五島盛光子爵、東京養育院幹事の安達憲忠、旧制第一高等学校(一高、東京大学教養学部や千葉大学医学部、薬学部の前身)ドイツ語教授の三並良(みなみはじめ ユニテリアン教会牧師、のちに日本ユニテリアン協会会長)、陸軍教授の内藤濯、東京商科大学(現一橋大学)教授の関一(のちに大阪市長)らが就任した。開明的経営者(後に渋沢栄一も)の協力も得て、錚々たるメンバーを取り揃え、官憲や資本家に目を付けられないようにスタートして、労働者が友愛会に参加しやすくしたのである。ただ、同会の会報である友愛新報には、のちの特高課長、警視総監になる警視庁方面監察官の丸山鶴吉が「警察の話」を寄稿したり、支部発会式に制服のまま臨席して祝辞を述べるなどしており、のちの時代のように労働者の集会に警官が臨監するような弾圧は行われていなかった時代の状況があったのも幸いした。
結成の翌年には、日本蓄音器商会(日本コロンビア株式会社の前身)の労働争議が起こったが、事前に警察署長に話をつけるなどして交渉を行い見事解決し、組合員から喝采を浴びた。
友愛会は二年目になると、組織人員は2000人となり、さらに拡大していき、ユニテリアン教会は労働運動の拠点となった。
こうして安部磯雄、賀川豊彦、鈴木文治、新渡戸稲造、吉野作造らのインテリ自由主義者たちが万次郎、福沢諭吉からのユニテリアン思想を受け継ぎ、伝え、日本の労働運動の夜明けにつないだ。
16.労働組合弾圧時代の始まりと終わり
1917年にロシア革命が起こると、政府、資本家の労働組合に対する弾圧は激しさを増した。暴力革命によって国家転覆をはかるのではないかとの危機意識が資本家や政府の中で高まったのである。
1919年には原敬内閣の内務大臣だった床次竹二郎(とこなみ たけじろう)は東西の博徒を集め、大日本国粋会を結成させて、労働運動を暴力的に弾圧するために使った。この治安警察法は、1926年になると、労働者の団結や争議行為、その勧誘などを制限する17条が削除され、表面上はもっぱら政治的な活動に対する抑制が主たる目的となる。しかし労働組合に対する監視や弾圧はそれ以降も続いた。
実際、使用者側が暴力団や右翼団体を雇い、暴力的な弾圧を行うことも度々あった(1922~28年の野田醤油労働争議などにみられる)。集会を開こうとすれば、官憲が乗り込み、中止させられた。労働組合の定期大会で、来賓あいさつに「大会のご盛会を心よりお祝い申し上げます」というフレーズがよくつかわれる。何がそんなにおめでたいのかと思われるかもしれないが、その当時、集会を始めようとすると、すぐに官憲が入り込んできて解散させられてしまうといったように、大会が成立すること自体が難しかった当時の名残であり、そういう挨拶文句がいまだに使われているのである。日本が敗戦となって、GHQによってようやく治安警察法は廃止されることになる。大戦終了までは、労働組合の活動は非合法として扱われ、著しく制限されていた時代が長く続くことになるが、GHQ最高司令官マッカーサーの五大民主化指令により、労働組合の結成が奨励されることになり、息を吹き返す。
17.結び:万次郎が灯した火を消さない知恵で乗り切った友愛会
ユニテリアン思想を背景に社会運動に目覚めた人たちが立ち上げようとした労働運動による労働組合の結成は、政府の厳しい弾圧を受けたが、イギリスの労働運動の歴史に学んだ鈴木文治たちは、友愛会という形でつないでいった。ユニテリアンの思想は、一人ひとりの労働者の自由な意思にもとづく自由組合主義、あせらず一歩一歩着実に進んでいく漸進主義、法律に違反しない合法主義、非暴力主義を唱えた賀川豊彦、革命的組合主義や労働条件至上主義を否定した健全なる労働組合主義を主張した鈴木文治の後継者、松岡駒吉にも影響し、その思想は現在の連合運動にも通底している。
加えて社会主義運動を担った人たちの多くが当初はユニテリアン信者であったこと、友愛会を立ち上げた鈴木文治たちも、ユニテリアン教会の活動のリーダーの一人であったこと、その活動はユニテリアン教会である惟一館が拠点であったことなどからも、ジョン中濱万次郎が日本にもたらしたユニテリアン思想は、日本労働運動の種火となったことは間違いないと思うのである。
友愛会は、労働者同士の相互扶助と親睦、知識や技術向上、地位の改善をうたっている。形式的には労働組合ではないが、この教会を拠点に労働運動を始めた。生き延びるための苦肉の策ともいえる。
友愛とは、キリスト教の隣人愛に原義を持つそうである。博愛、寛容、今に言うダイバーシティはユニテリアンの思想でもある。
これが1919年に「大日本労働総同盟友愛会(総同盟)」と改称し、後にイデオロギー対立や路線対立によって離合集散を繰り返し、戦中、すべての労小津組合が解散させられ、大日本産業報国会という戦時体制下の抑圧時代を経て、戦後しばらくしてからの「総評」(1950年)、「同盟」(1964年)、「中立労連」(1956年)「新産別」(1949年)の4団体が結集して現在の「連合」結成(1989年11月)に至っている。1919年といえば、ILO結成の年でもあるが、1944年のILOフィラデルフィア宣言にある「一部の貧困は全体の繁栄にとって危険である」という労働行政、労働運動の行動原理の一つになっている言葉は、言うならば、ユニテリアン思想の中の博愛主義であろう。
労働運動創成期の思想的背景を支えたユニテリアン思想の存在を知れば、一見何の関係もないように思えたジョン万次郎と連合運動が明確につながってくるのがみえてはこないだろうか。万次郎が漂流しなければ、そして無事に帰国できなければ、近代国家としての発展も遅れたことであろうし、現在の労働運動は多分違った形のものになっていたのかもしれない。歴史にタラレバはありえないとしても。【了】
~2025.11.18
【参考・引用文献/ウェブサイト等】
ジョン万次郎漂流記 (偕成社文庫)井伏 鱒二著
「椿と花水木~万次郎の生涯」上・下(幻冬舎文庫)津本陽著
「中濱万次郎~アメリカを初めて伝えた日本人」(冨山房インターナショナル)中濱博著
「ジョン万次郎に学ぶ~『自立と共生』の理念に生きた男」(イプシロン出版企画)平野貞夫著
ジョン万次郎漂流記―運命へ向けて船出する人 海外渡航記叢書 (5)(雄松堂出版)エミリー・V・ウォリナー著
「漂巽紀畧(ひょうそんきらく)全現代語訳」(講談社学術文庫)~ジョン万次郎述/河田小龍記
「中浜万次郎の生涯」(1970年)中濱明著 冨山房
鈴木文治のいる風景―日本労働運動の源流をつくった男(無明舎出版)芳賀清明著
「ジョン万次郎に学ぶ」交詢雑誌平成二十一年九月 平野貞夫講演録
「友愛会創立を記念する会」主催第45回講演会「ユニテリアン主義と友愛会の精神」 慶應義塾大学経済学部教授 土屋博政氏講演録
土屋博政講演録~2005年4月1日同志社大学人文科学部「日本のユニテリアンの盛衰の歴史を語る」
土屋博政論文~2002年慶應義塾大学学術情報レポジトリ「なぜ福沢諭吉はユニテリアンに関心を失ったのか~ナップの手紙が明らかにする新事実
「鈴木文治のいる風景」芳賀清明著 無明舎出版
「労働運動二十年」現代語版 鈴木文治著
平野貞夫の「永田町漂流記」http://www.the-journal.jp/contents/hirano/2009/08/他
