自由は自制の中にあるのかもしれない
自制というべきか規律というべきか、もっと広義には不自由というべきか。
何というか、自由に好きなことを毎日やっている人ほど、目の前のやることについて「ひえー!」とか言いながら黙々とやっているのだ。
かたや、不自由に嫌いなことを週5でやっている人は、目の前のやることについて、文句を垂れながら黙々とやっているのだ。
変わんねぇじゃねえか。
落合陽一氏とか冨田勝氏の発言を聞いていると、自由に好きなことを毎日やっている人は回し車を回るネズミのように、喜びの雄叫びを上げながら取り組んでいると錯覚しがちなのだが、そういう人を僕は見たことがない。
たぶん、そういう人こそ「ひえー!」とか「つれぇ!」とか叫びながら、心の奥深くではちょっとワクワクしてるんじゃないだろうか。
いくら好きなことをやっていようが、喜び100%が持続することはない。というか、苦痛に争った時こそ喜びが発生するというべきか。喜びや興奮といった非安定的状態は、エネルギー消費が激しいので安定に戻す生物学的なアルゴリズムが働く。
逆も然りである。サウナに入った後の水風呂は昇天できる。(参照、相反過程理論)
ぜひ、「俺は若い頃は文句持たれず夢中で楽しく勉強に励んだもんだ」という人がいれば、時が経って美化された(思い出ってそういうもんだ)と判断してもらいたい。
それか、その人が非生物学的なエネルギー勾配に抗う術を身につけていたに違いない。
身近にそういう人がいれば、ぜひコメントで教えて欲しい。
とは言ってみたものの、エネルギー出力が多ければ、客観的にはそのように見えるのかもしれない。
ネズミよりは人の方が運動量を稼げる。
いや、でもネズミの方が全力で長く走り続けるな。
なんなんだろうこれは。
人生は長距離走なのか短距離走なのか。
稲盛和夫氏は短距離走を走るようにマラソンすると言っていた。
ひゃくえむで思ったのだが、たった100mでも「この辛さ、身体の苦痛の叫びを乗り越える!!」とかあるんだなって。
やはり物事に取り組む際は苦痛がつきもので、その苦痛も耐えられるほどにあるコトを愛せるなら、あなたはそれを本当に好きだという資格があるのだろう。
突飛だが、これが結婚においても同様だと思う。私は簡単に離婚する人の気持ちが理解できない。トルコ人の友人もそうだった。「相手の嫌な部分や、苦悩すべてを受け入れ、これから当たる障壁を共に乗り越える。これが家族というものだ」と彼は言った。
有志以来築かれた当たり前の家族観を提示されて、ハッとした。新鮮さと懐かしさを覚えた。
相手の最悪な部分を愛せてこそ、「その人が好きだ」と言う資格があるのかもしれない。
ここで「ひえー!」というのを42用語の「つら楽しい」に置き換える。42っていいところやね。
最近世の中の大半の意見が割れる問いについて、すべてがウロボロスの蛇なんじゃないかと思えてくる。
財津
「試合前、私は敗北を恐れず内容を重視する。同時に敗北に震え、何よりも結果を欲する。」
「...?半々で考えて気分をスイッチしやすくするということですか?」
「違う。両方同時に100%で享受している。」
「いかなる場合でも緊張しないためですか?」
「違う。いかなる場合でも緊張を楽しむためだ。」
財津はこうも言ってる。
「自らを追い込む硬派な姿勢は評価するーー。が、記録を出す為でしかないその脚は大変惨めだ。それは飽きる。」
やはり自分を制御しながらも、本質的なものを問い続けなければならない。矛盾したことを同時に最大出力でやらなきゃならない。
ウロボロスですね。
「私は生物だ 死ぬ」
「そして二度と生まれてこない 理由はそれだけだ」
