葛飾北斎という超有名な男の人生を、スコットランドで初めて知った。
いろんなオペラには行ってきたけれども、新作オペラのプレミアというのは初めて。そして、スコットランドで世界初演、しかも、そのオペラは ―Opera「The Great Wave」― 葛飾北斎の芸術と人生に焦点をあてたものと言う、大興奮の特別な日。


日本人、大阪生まれで15歳の時に渡英した作曲家の藤倉大 (Dai Fujikura)(ロンドン在)と、スコットランドの作家のハリー・ロス (Harry Ross) の二人が中心になって、周囲を巻き込んでこのプロジェクトは実現したのでしょう。老舗の音楽エージェンシー(芸能プロダクション・企画制作会社)梶本音楽事務所→KAJIMOTOが中心となって、日本の文化庁や日本芸術文化振興会、さらには日英の様々な財団(グレイトブリテン・ササカワ財団、大和日英基金など)の支援を受けて制作が進められたものらしいです。
制作のきっかけ
2017年、藤倉大とハリー・ロスは、すでに他3つのオペラで共作していたらしいです。この二人は、ロンドンで開催された北斎展をたまたま訪れました。藤倉氏 「実は北斎について何も知らなかったんです。あの『グレート・ウェーブ』の絵は見たことがありましたが、それだけでした。でも、実際に展示を見て深く感動しました。すると妻(Minaさん)が『北斎の人生をオペラにすべきよ』と言ったんです」 そしてハリーもその意見にすぐ賛成してくれたのだそうです。そこから9年。長い道のりでしたね!

オペラ
結論から言うと、とても素晴らしかったのです。
斬新な衣装や色彩、尺八に太鼓の音楽、そして主役、葛飾北斎役の日本人、大山大輔(バリトン)の演技が個性的でグイグイ引き込まれました。

この白い衣装が、途中でガラリと青に変わります。

衣装の白→青の変化は、北斎がオランダから青の絵の具「プルシアンブルー」を手に入れたことで、彼の絵がブレイクスルーを果たしたことを表していて、目にも鮮やか、驚きました。

プルシアンブルーは、18世紀初頭にドイツ(当時のプロイセン/プルシア)で偶然発明された化学顔料なのだそうです。 それまでの日本の浮世絵で使われていた青は、植物の「藍(あい)」や「露草(つゆくさ)」から作られていました。しかし、これらは色が沈みやすかったり、光で退色しやすかったりという欠点がありました。
鎖国の江戸時代、オランダ船によって持ち込まれた「プルシアンブルー」は「驚くほど鮮やか」「粒子が細かくグラデーションがしやすい」「光に強く色あせない」という、当時の絵師たちにとって夢のような特性を持っていました。ベルリン藍が訛って「ベロ藍」と呼ばれたそうです。
北斎はこの新しい青に、誰よりも早く、そして情熱的に飛びつきました。
藍摺(あいずり): 1831年頃に発表された『富嶽三十六景』の初期の作品は、なんと「ほぼ青一色」で刷られたものもあります。これは、新しい絵の具の美しさを最大限にアピールするための戦略でもありました。
『The great wave』の成功: あの有名な「大波」の絵では、濃いベロ藍と、従来の植物性の藍を使い分けることで、海の深い青と波の立体感を表現しています。この「青の階調」こそが、世界を驚かせた革新だったのです。

私はこの青一色の初期の作品が大好き
と言うことで、今日は、このオペラを通して、北斎の人生をご紹介します。
葛飾北斎
私も藤倉氏と同様、「実は北斎について何も知らなかったんです。」の状態でした。もちろんあの有名な「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏=the great wave」とか「赤富士」とかは見たことが何度もあるけれども、それだけ。このオペラを通して、北斎の人生について思いを馳せることになるとは、ほんと、日本の外に出て初めて知ることになるなんて。
葛飾北斎の波乱万丈の90年間。
誕生: 1760年10月31日(宝暦10年)
死没: 1849年5月10日(嘉永2年)
北斎は生涯で30回以上も名前を変え、93回も引っ越したのだそうです。そして、3万点をこえる作品を残したそうです。
1. 修業時代(10代〜30代):「勝川春朗」と名乗る
18歳で浮世絵師・勝川春章に弟子入りし、「勝川春朗」と名乗ります。この頃は役者絵などを描いていましたが、狩野派や唐画、そして長崎経由で入ってきた西洋の遠近法を密かに学び、独自のスタイルを模索し始めました。

他の「勝川グループ」に浮世絵と確かに区別がつかない
2. 『北斎漫画』と躍進(50代〜)
50代半ばから、弟子のための絵手本として『北斎漫画』を出版。これが大ベストセラーとなり、「北斎」の名は全国に知れ渡ります。記憶にある限り生まれてからすぐの六才から始まったあらゆるものをスケッチする情熱はこの頃さらに加速しました。





3. 70歳を過ぎてから、代表作となる『富嶽三十六景』シリーズを発表。ここで例の「ベロ藍(プルシアンブルー)」を大胆に使い、世界を震撼させる『神奈川沖浪裏(大波)』を生み出しました。
この『富嶽三十六景』ですが、大きな富士山から小さな隠れ富士山まで、さまざまな富士山が描かれているわけですが、富は富士山、嶽は(がく): 険しく、高くそびえ立つ山(岳)のこと。特に「尊い山」というニュアンスが含まれるのだそうです。
地獄の獄(ごく)に山かんむりがついているだけで、ごくと読むのだと思っていたし、もっと天国地獄みたいなイメージで富嶽というのだと思っていた私です。恥。
4. 晩年と執念(80代〜90歳):画狂老人 卍(がきょうろうじん まんじ)」=絵に狂った、卍(すべてを司る記号)のような老人と名乗る。
80代になっても創作意欲は衰えず、長野県の小布施(おぶせ)まで歩いて旅をし、巨大な天井画を描くなど超人的な体力を誇りました。

もらったパンフレットから

岩松院のHPよりスクショ

無料でもらったDigital x 北斎のページ
Eijyoさんが小布施の岩松院に北斎を訪ねていらっしゃったことを発見。たくさん写真があって丁寧に解説されておられます。
改名を繰り返していたのに、北斎という名前が定着したのは、19世紀後半、北斎の作品がヨーロッパに渡った際、署名にある「Hokusai」の文字が注目され、西洋の人々にとっては、「改名文化」は理解しにくく、「この素晴らしい波を描いたのは Hokusai だ」という名前で有名になったからなのだそうです。後の印象派の画家たちも「Hokusai」として彼を崇拝したため、逆輸入の形で日本でも「北斎」が不動の呼称となったようです。
「ホクサイ」と「ヘクサイ」
オペラの中で、コミカルなダンスと共に披露される、「ホクサイ」と「ヘクサイ」ですが、実際、北斎は、自分の名前である「北斎(ほくさい)」をもじって、自らを「屁くさい(へくさい)」と呼んで冗談を飛ばすことがあったのだそうです。
江戸っ子のシャレ: 当時の江戸の人々は、自分をあえて卑下したり、汚い言葉を使ったりして笑い飛ばす「自虐的なユーモア」を好んだのだそうです。
権威への反抗: 世界的な巨匠になってもなお、「俺なんてただの『屁くさい』ジジイだよ」と笑うことで、高尚ぶる芸術家像を拒絶していたのです。
そして、北斎は、絵以外には1ミリも興味がなく
「掃除をする暇があるなら絵を描く」。北斎は、部屋が汚れても一切掃除をしなかったそうです。
彼が生涯で93回も引っ越しをした最大の理由は、ゴミが溜まりすぎたからなのだそうです。
食生活も超適当
お金にも無頓着
娘の阿栄(あえい/葛飾応為)も父親譲りの天才的な絵師でしたが、性格も父親そっくり。父娘でゴミに囲まれながら、並んでひたすら最高傑作を生み出し続けたのだそうです。
イギリスっていまだに階級社会なのですが、労働者階級から中流階級へと格上、つまり紳士淑女(レイディーズ&ジェントルマン)になるためには、「知的な学問(リベラル・アーツ)」に通じている必要があります。新興の中流階級(ブルジョワジー)が成功の証として絵画を買い求め、自分の子供に教養として絵を習わせるようになり、画家は「尊敬される専門職」という中流階級の仲間入りをしております。
そして「尊敬される専門職」である画家は、掃除をしたり、お料理をしたりしてはいけない、なぜなら、お手伝いさんの一人や二人、雇っているからです。
一方で、日本ではどうか、北斎は死ぬまで自分を「職人(江戸の町人)」と考えていました。どんなに有名になっても、偉ぶることなくボロ屋に住み、ひたすら技術を磨く「職人気質」を貫きました。
今回のスコットランド・オペラ『The Great Wave』の台本を書いたハリー・ロス(英国人)にとって、「生活はボロボロでゴミ屋敷なのに、魂と技術は神の域に達している北斎」という姿は、イギリス的な「中流階級の整然とした芸術家像」とは真逆の、非常にショッキングで魅力的なヒーローに映ったはずです。
これほどの傑作を遺しながら、日本中で有名になったのにも関わらず、死の直前まで「まだ足りない」と考えていた探究心は、70代半ばに出版した画集(『富嶽百景』初編)のあとがきに記した、あまりにも有名な一文で垣間見ることができます。
自身の画業を振り返り、90歳、100歳、さらにはその先への凄まじい執念を語ったこの言葉は、今回のオペラでも北斎の精神的支柱として描かれていました。
『富嶽百景』初編のあとがき原文(現代語訳付き)
己(おのれ)六才より物の形状を写し取るの癖あり。
(私は6歳の時から、物の形を写し取る癖があった。)
五十才のころより数多の画図をあらわせど、七十才までに描き出したるものは、実に取るに足るものなし。
(50歳頃から数多くの絵を発表してきたが、70歳までに描いたものは、実は取るに足りないものばかりだ。)
七十三才にして、稍 鳥獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り得たり。
(73歳になって、ようやく鳥や獣、虫や魚の骨格や、草木の生まれ立ちというものが分かってきた。)
故に八十才にしては益々進み、九十才にしては猶その奥意を極め、百才にしては正に神妙ならんか。
(ゆえに、80歳になればますます上達し、90歳ではさらにその奥義を極め、100歳になればまさに神業の域に達するだろう。)
百有十才にしては、一点一格生がごとくならん。
(110歳になれば、描く一点一画が、まるで生きているようになるはずだ。)
願わくは長寿の君子、予が言の虚からざるを見届たまうべし。
(どうか長寿の方々、私のこの言葉が嘘ではないことを見届けてほしい。)
「100歳で神の域に達し、110歳で一点一画が生きるようになる」——。死の直前にそう言い残した男の物語。オペラが閉幕し、スコットランドの冷涼な風の中で帰途につきながら考えました。それは皮肉にも、異国の地で「同じ日本人」としての自分のぼんやりを突きつけられるような体験でした。 これほどの傑作を遺してもなお「まだ足りない」と絶望し、歩みを止めなかった北斎。私が日々の仕事を合格点台でこなせば良いと考え、家では掃除を済ませて整ったと満足している、北斎からすれば「実に取るに足るものなし」の状態でしょう。ゴミに囲まれ、青い絵の具に魂を売った男の執念。藤倉大の音楽がオペラの終幕とともに響いたのは、北斎の叫びだけではなく、私の心の中にある「もっと先へ行け」という鼓動だったのです。

(午年ということで、駆け抜けろ)。
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