「もっと主体的に」と言う前に
最近、仕事で本気で腹が立っている。
「もっと主体性を持ってほしい」
「もっとポジティブに考えよう」
「自分たちで何ができるか考えよう」
「まずは決意を示そう」
こういう言葉を聞くたびに、
いや、その前に因果を見ろよ。
と思ってしまう。
もちろん、主体性を求めること自体が悪いと言いたいわけではない。
主体的に動く人が多い方が、組織は動きやすいだろう。
前向きに考えることが役に立つ場面もある。
決意することで、人が動き出すこともある。
ただ、その言葉を出す前に、見るべきものがあるのではないか。
そんなことを考えている。
現場から見えるものには限界がある
たとえば、ある店舗の客数が足りないとする。
現場では毎日、客を見ている。
どんな年代が多いのか。
何を注文しているのか。
新規客が多いのか、リピーターが多いのか。
料理への反応はどうなのか。
アンケートや口コミでは何と言われているのか。
そうしたものは見える。
だから、
「もしかすると、この客層を取れていないことが問題なのではないか」
「この集客経路を強くすれば、新規客が増えるのではないか」
といった仮説を出すことはできる。
しかし、それはあくまで現場から見た仮説である。
商圏全体の人口構成を分析したわけではない。
広告媒体ごとの流入を分析したわけでもない。
競合店との比較調査をしたわけでもない。
そもそも現場では、料理を作り、接客し、発注し、人を配置し、店を営業している。
その人間に、
「その仮説を証明するデータは?」
と求めるのであれば、少し話が変わってくる。
それはもう、現場からの情報提供ではなく、市場分析という別の仕事になってくる。
そもそも、
こちらは聞かれたから、仮説を提示しただけだ。
それを根拠に、実行施策まで提出したわけではない。
仮説を出すことと、証明することは違う
もちろん、現場の仮説が間違っていることはある。
むしろ普通に間違うだろう。
「若い客が少ない気がする」
と言ったところで、単にその地域の人口構成を反映しているだけかもしれない。
「この媒体から集客できるのではないか」
と思っても、実際にはほとんど効果がないかもしれない。
だったら調べればいい。
現場から仮説が上がる。
それを、より広い情報を持っている部署が検証する。
仮説が間違っていれば捨てる。
正しそうなら、小さく施策を試す。
結果をまた現場で観測する。
本来、組織とはそうやって異なる場所から得られた情報を接続するためにあるはずだ。
それがなされないなら、部署をいちいち分け隔てる理由はなくなる。
分析も戦略も施策設計も実行も、全部現場にやらせればいい。
それなら、もはや本部という機能はいらない。
全員がお客様の為にポジティブに現場に向かう会社。
それを目指せばよい。
ところが、ここで奇妙なことが起こる。
現場から出た仮説に、
「データは?」
「根拠は?」
「それはあなたの感覚でしょう?」
と返し続ける。
それ自体は間違っていない。
しかし、検証する側が検証しないのであれば、現場はやがて学習する。
「では、何も言わない方がいいな」
と。
それでも「主体性がない」と言われる
そしてしばらくすると、別の言葉が降りてくる。
「現場から主体的な提案が出てこない」
これは少し不思議である。
仮説を出す。
否定される。
検証はされない。
代替仮説も提示されない。
施策を提案しても、上位者が介入して判断する。
しかし、結果が出なければ、
「もっと主体性を持ってほしい」
と言われる。
こうなると、問題は主体性そのものではない。
主体性を発揮できる範囲と、求められている責任の範囲が一致していない。
境界を引いたのは誰なのか
組織には役割分担がある。
本部には本部の仕事があり、現場には現場の仕事がある。
もちろん、その境界を越えて協力することはあっていい。
むしろ、多少の越境がある組織の方が柔軟に動けるだろう。
しかし、
「そこは本部が決める」
「現場は実行に集中してほしい」
「その判断はこちらでする」
と境界を設定し、必要なときには介入して判断を回収する。
先に、俺たちは本部、お前たちは現場と定義されているので、私はそれに従っている。
なのに、その一方で結果が悪くなったときだけ、
「もっと経営者目線を持って」
「もっと踏み込んで提案して」
と言うのであれば、都合がよすぎる。
責任を求めるなら、それに対応する情報と権限が必要になる。
逆に、情報と権限を限定するのであれば、引き受けられる責任にも限界がある。
これは「自分の仕事じゃないから知らない」という話ではない。
どこまで観測でき、どこまで判断でき、どこまで介入できるのか。
そこを確認しようという話である。
「あなたはどうする?」にも範囲がある
以前、私は別の記事で、構造の問題を個人の倫理に還元して終わらせることについて書いた。
何か問題が起きたとき、
「本人の意識が低い」
「責任感がない」
「もっとちゃんとすべきだ」
と個人を断罪すれば、話は簡単になる。
しかし、それだけでは何も改善しない。
だから因果をできるだけつないで、
「その人には何が見えていたのか」
「何を操作できたのか」
「別の選択肢はあったのか」
を考えた方がいい。
それでも最後には、
「では、自分はどうするのか」
という問いが残る。
私は今でもそう思っている。
ただ、最近もう一つ思うようになった。
「あなたはどうする?」
という問いには、
「あなたはどこまでできる?」
という問いがセットで必要なのではないか。
自分が動かせる範囲を考える。
できることがあるならやる。
必要なら仮説も出す。
観測できる数字も取る。
改善できる運営は改善する。
しかし、それを突き詰めた結果、
「ここから先は、自分には操作できない」
と判断することもある。
それは責任放棄なのだろうか。
私はそうは思わない。
むしろ、自分の介入可能範囲を見極めることもまた、「私はどうするか」に対する一つの答えだと思う。
主体性とは、あらゆる問題を自分の責任として引き受けることではない。
構造の問題が、いつの間にか人の問題になる
そして、ここからが一番腹が立つ。
本来なら、
「なぜ客数が足りないのか」
「どこにボトルネックがあるのか」
「誰がその部分に介入できるのか」
という話をしていたはずだった。
ところが、いつの間にか、
「もっとポジティブに」
「主体性を持って」
「覚悟を示して」
「決意表明をしよう」
という話になることがある。
問題の対象が変わっている。
最初に問われていたのは、構造と因果だった。
しかし最後に評価されているのは、人間の態度である。
これは厄介だ。
なぜなら、構造についての主張は検証できるからだ。
客数は測れる。
新規客数も測れる。
リピーターも測れる。
広告流入も調べられる。
施策を実行して、前後を比較することもできる。
しかし、
「あなたには主体性が足りない」
となった瞬間、ずいぶん曖昧になる。
本人が、
「私は主体的に動いています」
と言っても、
「そういうところが主体的ではない」
と返すことすらできる。
構造について議論していたはずなのに、いつの間にか評価する側と評価される側だけが残る。
因果についての問いが、倫理についての問いに変わっている。
私が問題だと思うのは、このすり替えである。
ポジティブさでは客は増えない
先に言っておく。私はポジティブに業務に臨んでいる。
少しでもお客様に喜んでいただきたい気持ちは揺らいでいない。
だから私は、ポジティブであることを否定したいわけではない。
決意することにも意味はあるだろう。
主体的に仕事をすることも大切だと思う。
ただ、それらは因果への介入とは別の話である。
店の存在を知らない人は、従業員がどれだけ前向きでも来店しない。
商品の存在を知らない人は、店長がどれだけ決意しても購入しない。
全員で大きな声を出して、
「絶対に売上を上げます!」
と宣言したところで、それだけでは新規客は一人も増えない。
必要なのは、
「どこで因果が切れているのか」を探すことだ。
そして、その場所に介入できる人が動くことだ。
ポジティブに取り組むことで、何らかの行動が生まれ、その行動が結果につながることはある。
しかし、それはポジティブだからではない。
行動が因果を結んだだけだ。
「主体性」という言葉の前に
だから私は、「もっと主体的に」という言葉を聞くと、腹が立つ。
誰に主体性を求めているのか。
その人には、どんな情報が与えられているのか。
何を決める権限があるのか。
どこまで介入できるのか。
そして、その境界を誰が設定したのか。
そこを確認せずに主体性だけを求めると、構造上の問題が個人の態度へと回収されてしまう。
問題が解決しないのは、誰かがネガティブだから。
売上が上がらないのは、覚悟が足りないから。
改善しないのは、主体性がないから。
そう説明できるようになってしまう。
でも、それでは因果は何もわからない。
個人の内面の問題に押しつけたところで、何も解決にはつながらない。
私は、自分にできることを考える。
必要なら動く。
仮説も出す。
間違っていれば修正すればいい。
しかし、自分が操作できないところまで「主体性」という言葉で引き受けるつもりはない。
ポジティブでもいい。
決意表明をしてもいい。
主体性だってあった方がいい。
ただ、その前に、
何が起きていて、誰がそこに介入できるのか。
まずはそちらを見たい。
人の姿勢を評価するのは、そのあとでも遅くない。
そして最後に、これは完全に私個人の感情である。
主体性を求めるなら、まずお前が主体になれ。
介入、否定、現場と本部の境界。
それらを規定したのであれば、
因果を検証する。
仮説を立てる。
データを分析する。
実行案をつくり、現場におろす。
それをやればいい。
話はそれからだ。

