6話 サーフィンとバイク
腰痛という共通の痛みをきっかけに、二人の会話は自然と「どちらがひどかったか」という静かな競い合いに転がり込んでいく。サーフィン中に腰をやった俺に対し、山田が口にしたのは建設現場での壮絶な記録——ぎっくり腰七回、遅れてやってきたヘルニア二箇所、それでもコルセットを巻いて現場に立ち続けた日々。笑いながら語られるその話には、しかし笑い飛ばせない重さがある。そして山田の顔から笑いが消えたとき、「一番ひどかった」四十三歳の話が始まろうとしていた。
「四十三のとき、現場で大きな案件が重なってな」
山田は少し遠くを見るような目をした。待合室の蛍光灯の白い光の中で、一瞬だけ当時に戻っている顔だった。
「工期が迫ってて、人手も足りなくて、自分でも動かざるを得ない状況だった。コルセットは常に巻いて、痛みがあれば痛み止めを飲んで、気合いで乗り切ろうとしてた。」
「それは身体に聞いてない作戦だな」
「完全にそう。で、十二月の頭、寒い朝に内壁パネルを運んでたら、今までと全然違う感覚が来た」
「どんな」
「ズドン、って感じ。ピリッとかズキッとじゃなくて、腰の奥から何かが崩れるような、ズドン。その場でパネルを落として、膝をついた」右手を膝の上に置いた。「で、立ち上がろうとしたら、右足に力が入らない」
俺は黙って続きを待った。
「しびれじゃないんだよ。力が入らない。自分の足なのに言うことを聞かない感じ。ヤバい動けない、どうすんのコレ。それが一番怖かった」
「それはさすがにまずいな」
「まずいどころじゃないよ。部下に車まで担いでもらって、そのままでかい病院に連れて行かれた。MRI撮ったら、ヘルニアが神経をかなり圧迫してるって。整形外科の先生って、こういう事サラッと言うよな、俺マジでヤバいと思ってるのに」
「手術を勧められたか」
「強く勧められた。このままだと足の麻痺が残る可能性があるって言われた」
待合室がしんと静かになった気がした。俺は返す言葉を探したが、見つからなかった。
「それで?」と俺は静かに聞いた。
「二週間、入院した。手術はしなかった。絶対安静で、神経ブロック注射を何本も打って、炎症を徹底的に抑えた。牛みたいに寝てただけだけど」山田は苦く笑った。「二週間後に足に力が戻ってきたときは、正直、泣きそうになった」
「そりゃそうだよ」
「大げさだろって思うかもしれないけど」
「思わない」俺は首を振った。
「俺も電流が走ったとき、一瞬だけ頭をよぎったから。このまま歩けなくなったらって」
俺は話を合わせるように、「歩けなくなくなったらって」思ったこともないことを口にしてしまった。
少しだけ山田に同情したかもしれない。
山田が少し意外そうな顔をして、それから小さく頷いた。
「そうだよな。あの感覚は、なった人間にしかわからん」
俺「ウンウン」
二人でしばらく黙った。別に気まずい沈黙じゃなかった。四十年ぶりに再会した同級生と、整形外科の待合室で、腰の話をしている。妙な話だが、悪くなかった。
「で、現場には戻ったのか」と俺は聞いた。
「戻った。三ヶ月後には復帰した。ただそこからは変わったよ。重いものは若い奴に任せる、無理な体勢は絶対しない、天気が悪い日は早めに切り上げる」
山田は苦笑いした。
「若い頃の自分が見たら、軟弱だって笑うような働き方だけどな」
「それが正解だろ」
「そうなんだけどな。俺は人に指示するのは苦手なんだよな。先に身体が動くっていうか、人に指示する前に勝手に自分がやってる」
「お前らしいな」
俺は深く頷いた。俺たちは馬鹿なのか、腰に爆弾を抱えながらお互いに無理してるサーフィンをやめない自分も、足の力が抜けても現場に戻った山田も、結局同じ種類の馬鹿なのかもしれなかった。
「で、どうだ」と山田が俺を見た。目に少し笑いが戻っていた。「俺のほうがひどかっただろ」
俺は腕を組んで、わざとらしく唸った。
「……認めたくないけどな」
「認めろよ」山田が笑った。
「お前の七回とズドンには負けるかもしれん」
「かもしれん、じゃなくて負けを認めろ」
待合室に二人の笑い声が響いた。また何人かが振り返った。今度も構わなかった。
それからしばらく、二人でとりとめのない話をした。
子供のこと、仕事のこと、最近気になる体の変化のこと。気がつけば話題はまた腰に戻ってきて、今度は競うのではなく、ただ互いの話を聞いていた。同じ痛みを知っている人間と話すのは、不思議と楽だった。
「最近はどんな治療してるんだ」と山田が聞いた。
「腰の状態を聞きながら悪化しそうだったらここに来るようにしてる。あとは自分でストレッチと体幹トレーニングを意識してやるようにしてる。それと、サーフィンそのものがリハビリみたいになってきた」
「サーフィンがリハビリ?」
「そうだよ、若いころに乗ってたショートボードより長めのミッドレングスっていう種類のサーフボードに乗ってて、自然と波に合わせた動きができて、終わった後も腰が重くなることもなくてね。まあ、やりすぎると逆効果だとは思うけど」
「それはうまいこと見つけたな」山田は感心したように言った。「俺なんか最近、バイクにも満足に乗れてないよ」
「バイクか、いいなあ」
「楽しみはこれぐらいだから、やめられないんだよ、これが」山田は苦笑いした。「お前がサーフィンをやめられないのと、たぶん同じ感じだと思う」
「わかるわ、それ」
「ただ仕事が忙しくて、乗りたくても乗れてない。休みの日は体を休めることを優先しちまって、気づいたら一ヶ月以上ガレージに眠らせてることもある」山田は少し寂しそうな顔をした。「腰が悪いのを言い訳にしてる部分もあるかもしれん」
「バイクは腰にきつくないのか」
「きつくないって言ったら嘘になるな。長距離は特にキツイ。でも乗ってる間は不思議と我慢してる。風を切って走ってると、余計なことが全部飛んでいく感じがして」
「それはわかる」俺は思わず頷いた。「波に乗ってるときと一緒だ。ウネリの力がボードに伝わる感じ、グイグイ加速するんだよな。」
「だろ、その感覚は俺にはよくわからんが、とにかく同じ感じだ。」と山田は少し嬉しそうに言った。
「好きなことをしてる間だけは、痛みも歳も関係なくなる。あの感覚があるから、やめられないんだよな」
山田「それだ!」
「バイク乗れよ、もっと」と俺は言った。「忙しいのはわかるけど、乗らないほうが絶対後悔する。俺はサーフィンを休んだ時期に痛感した」
「そうだな」山田はしばらく考えてから、小さく頷いた。「今月の週末、久しぶりに引っ張り出してみるか」
「引っ張り出せ引っ張り出せ。で、腰やったらここで話してくれ」
「またここで会うつもりか」山田が苦笑いした。
「だって定期的に来てるんだろ、お前も」
「まあ、そうだけど」
「だったら会うだろ、またここで」
山田は少し笑って、それから真顔になって待合室をぐるりと見回した。白い壁、積まれた古い雑誌、順番を待つ人々。五十代の男が二人、ベンチに並んで座っている。
「情けない再会場所だよな」と山田が言った。
「そうか? 俺はそんなに悪くないと思うけど」
「なんで」
「だって、みんな同じだろ、ここにいる人間は」俺は待合室を眺めながら言った。
「何かを抱えながら、それでも動こうとしてる人間ばかりだ。そんなに悪い場所じゃないよ」
山田はしばらく黙ってから、「そうだな」と短く言った。
そのとき、ドアが開いて看護師が顔を出した。
「田中さん、どうぞ」
俺の番だった。
腰を庇いながら、ゆっくりと立ち上がる。山田に「お先に」と軽く手を上げた。
「お前も長くかかるなよ」と俺は言った。
「お互いな」と山田は笑った。
診察室のドアを開ける前に、俺は一度振り返った。山田は古い雑誌を手に取って、ぱらぱらとめくっていた。腰をかばうように、少し浅く腰掛けながら。
次に会うのも、きっとここだ。
俺は少し笑って、診察室に入った。
サーフィンとバイク、好きなことへの向き合い方が重なって、二人の間に自然な共感が生まれる
続く
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