第3回 能力を伸ばすだけで、本当に人は育つのか――「できる」と「どう生きるか」を考える
「先生、分かった!」
「できるようになった」
教育に携わっていると、これはとても嬉しい瞬間です。
昨日までできなかったことができるようになる。
分からなかった問題が分かるようになる。
読めなかった文章が読めるようになる。
計算が速くなる。
語彙が増える。
自分の考えを、言葉にして話せるようになる。
私は50年以上、子どもたちの「できる」を増やすことを考えてきました。
そして、それは教育の大切な仕事だと、今でも思っています。
しかし、前回の記事で「学習は関数で表せても、人間は関数では表せない」と考えていく中で、私はもう一つの問いに出会いました。
能力を伸ばすだけで、本当に人は育つのだろうか。
これは、決して「能力を伸ばす教育は必要ない」という話ではありません。
むしろ、能力はしっかり育てなければならない。
言葉を学ぶ。
数を学ぶ。
知識を身につける。
考える力を育てる。
身体を動かす。
経験を重ねる。
私は、これらを大切にしてきました。
人間が生きていくためには、こうした力が必要だからです。
けれども、能力が高いことと、人間として豊かであることは、同じではありません。
頭の回転が速い人が、必ずしも人の気持ちを理解できるとは限らない。
知識をたくさん持っている人が、必ずしも人を尊ぶとは限らない。
論理的に考えられる人が、必ずしも自分の欲望を抑えられるとは限らない。
仕事ができる人が、必ずしも周囲の人を幸せにするとは限らない。
例えば、こんな光景を思い浮かべてみてください。
ある子は、非常に計算が速く、クラスで一番に正解を出します。
しかし、隣で困っている友達を見て「そんなことも分からないの?」と笑ってしまったとしたら、その高い能力は誰かを傷つける道具になってしまいます。
一方で、同じように計算が得意な別の子が、なかなか答えが出ない友達の隣で「どこで迷っているのかな」と一緒に考え、その子が解けたときに自分のことのように喜んだとしたらどうでしょう。
その子の能力は、教室の中に安心と喜びを生み出す力になります。 能力そのものは同じ「計算力」であっても、その使い道によって、周囲に届く景色は全く異なるものになるのです。
これは、子どもだけの問題ではありません。
私たち大人自身の問題でもあります。
むしろ、教育を考えるときには、大人こそ考えなければならないことなのかもしれません。
なぜなら、私たちは子どもに対して、
「もっとできるようになりなさい」
「もっと勉強しなさい」
「将来困らないように、今のうちに力をつけなさい」
と言います。
それは間違いではありません。
しかし、その言葉の先に、
「では、その力を何のために使うのですか」
という問いを置いてきたでしょうか。
私は、自分自身にも問いかけています。
これまで私は、子どもの能力を引き出すことを、一生懸命考えてきました。
しかし、能力を引き出した後のことについては、十分に考えてこなかったのではないか。
先ほど「関数」という言葉を使いましたが、学習には、時間や反復、経験、教材、環境など、成果に影響するさまざまな変数があります。
だから、よりよい学習方法を探すことには意味があります。
ところが、人間について考えると、そこに別の問題が入ってきます。
その力を何に使うのかを決めるのは、本人だからです。
同じ知識でも、使い方は違います。
同じ言葉でも、人を励ますために使うこともできれば、人を傷つけるために使うこともできる。
同じ科学技術でも、人の命を救うために使うこともできれば、破壊のために使うこともできる。
能力そのものには、「善い使い方」が自動的に組み込まれているわけではありません。
ここに、教育の難しさがあります。
そして、AIの時代になったことで、この問題は以前よりはっきり見えるようになりました。
AIは、計算します。
膨大な情報を整理します。
文章もつくります。
翻訳もします。
プログラムも書きます。
これから先、さらに多くの「できる」をAIが担うようになるでしょう。
しかし、ここで教育について、もう一度考えてみる必要があります。
これまで私たちは、子どもたちに「できるようになること」を求めてきました。
計算できるようになる。
漢字を書けるようになる。
英語を話せるようになる。
文章を書けるようになる。
たくさんの知識を身につける。
それらは、これからも大切です。
けれども、その「できること」の一部をAIが人間以上の速さや正確さで行えるようになったとき、教育が目指すものまで変わらなければならないのでしょうか。
私は、ここを慎重に考えたいと思っています。
AIが計算できるから、子どもは計算を学ばなくてよい。
AIが文章を書けるから、文章を書く必要はない。
AIが知識を持っているから、知識を覚える必要はない。
私は、そういうことではないと思います。
むしろ、AIができるようになったからこそ、人間が学ぶ意味を、もう一度問い直す必要があるのだと思います。
これまで、大人が見失っていた「学ぶ」ことの意味について、改めて問い直す時代に入ったのだと思います。
計算を学ぶことは、答えを出すためだけではありません。
数の関係を考える。
筋道を立てる。
間違いに気づく。
自分の頭で確かめる。
文章を書くことも、単に文字を並べるためだけではありません。
自分は何を考えているのか。
何を伝えたいのか。
相手にどう伝わるのか。
言葉を選びながら、自分自身の考えを形にしていく。
つまり、教育において大切なのは、単に「何ができるか」だけではなく、その学びを通して、どのような人間になっていくのかということなのではないでしょうか。
AIは、私たちに「能力とは何か」を問い直させています。
そして同時に、
「では、人間の教育とは何なのか」
という問いを突きつけているように思います。
すると、人間に残される問いは、少しずつ変わっていくのではないでしょうか。
「何ができるのか」だけではなく、
「何のために、それをするのか」
という問いです。
これは、AIに能力で勝てるかどうかという問題ではありません。
むしろ、AIが能力を持つようになればなるほど、人間は「目的」を考えなければならなくなるということです。
何をするのか。
何をしないのか。
誰のためにするのか。
それによって誰が傷つくのか。
自分の利益だけを考えてよいのか。
相手の立場から見たら、どう見えるのか。
そして、自分の持っている力を、どのように使えば、周囲の人とともに生きていけるのか。
こうしたことは、単純な「能力」ではありません。
私は、ここに「人間性」というものがあるのだと思います。
では、人間性とは何でしょうか。
私は、特別な才能のことではないと思っています。
人の話を聴くこと。
自分と違う考えを受け止めること。
失敗した人を笑わないこと。
弱い立場にある人を軽んじないこと。
自分の欲望を少し抑えること。
自分が間違っているかもしれないと考えること。
人の痛みに気づくこと。
命を尊ぶこと。
そして、自分自身のことも大切にすること。
一つひとつを見れば、ごく当たり前のことです。
けれども、人間にとって、その「当たり前」を生涯にわたって実践することは、決して簡単ではありません。
それは、AIがどれほど進化しても、
あるいは学習の効率をどれほど高めても、
決して計算式には当てはまらない「人間」という存在の本質そのものだからです。
だから私は、これからの教育を、
「能力を伸ばす教育」か「人間性を育てる教育」か、
という二者択一にはしたくありません。
能力は必要です。
しかし、能力だけでは足りない。
知識は必要です。
しかし、知識だけでは足りない。
考える力は必要です。
しかし、考える力を何のために使うのかを考える力も必要です。
私は、教育とは、この二つを切り離さないことなのではないかと思い始めています。
「何ができる人間になるか」
そして、
「できるようになったことを、どう使う人間になるか」
この二つを一緒に育てていく。
それが、これからの教育には必要なのではないでしょうか。
「できる子」を育てることは、教育の一つの成果です。
しかし、その子が、自分の「できる」を他者のためにも使える人になったとき、そこには別の意味での成長があります。
私はこれまで、子どもの能力を引き出すことを「教育の仕事」だと思ってきました。
今も、その考えは変わりません。
ただ、そこに一つ加えたい。
引き出した能力を、どちらの方向へ使う人間になるのか。
その問いまで考えることも、教育の仕事なのではないか。
AIが人間の能力を次々と代替していく時代だからこそ、私はこのことを、これまで以上に真剣に考えてみたいと思います。
「できるようになること」は、ゴールではない。
その先に、
「どう生きるのか」
という問いがある。
そして、その問いを考えることこそ、人間にしかできない学びなのかもしれません。
