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「贈与」をめぐって考えたこと

1. 贈与と交換は違う

交換は、基本的に即時的、あるいは期限が定められる。

「これをあげるから、あなたもこれを返して」という関係では、その場で等価交換を成立させればいい。

一方、贈与には時間が定められない。

贈ったものがすぐに返ってこなくてもいい。むしろ、返礼までの時間があること自体が、贈与を交換から遠ざける

だから、

贈与には「遅延」が要る。

『贈与を巡る旅』p.52

という近内悠太の話が、自分の経験にもかなりつながってきた。


2. 自分が人に贈っていたもの

僕は職場の人などにちょっとした誕生日プレゼントを渡している。

最初の動機はかなり単純だった。

「日々の中に、何か少しの『うれしいこと』があればいいな」

相手に何かを返してほしいわけではない。

だから、むしろ

「もらったまま忘れていてほしい」

くらいに思っていた。

「日頃助けてもらっていることへのお礼として、当然のものとして受け取ってほしい」と。

しかし実際には、相手からすぐにお返しが来ると、少し違和感がある。ちょっと寂しい。

ここで、僕が贈与に求めていたものが見えてきた。


3. 「返礼」は求めていない。でも「応答」は求めている

弟に誕生日プレゼントを送ったのに、「受け取ったよ」という連絡すらなかった経験から、自分の中にも何らかの反応を求める気持ちがあることに気づいた。

ただし、それは物を返してほしいという意味ではない。

欲しいのは、

「受け取ったよ」
「ありがとう」

という程度の応答

ここには重要な違いがある。

  • 返礼 → 贈与を交換へ戻す

  • 応答 → 贈与が相手に届いたことを知らせる

つまり、僕が欲しいのは贈与の決済ではなく、贈与が届いたという確認なのだと思う。


4. 贈与は、相手の受け取り方を支配できない

ここが贈与の難しいところ。

こちらは「ちょっとした幸福」を渡したつもりでも、相手が、

「うれしい!」

と思うとは限らない。

むしろ真面目で律儀な人ほど、

「何か返さなきゃ」

と感じるかもしれない。

つまり、贈与した側は相手の幸福感まで設計できない

「喜ばせたい」という気持ちが強くなるほど、相手の反応までコントロールしたくなる危険がある。

だから贈与には、

「自分は与える。しかし、その後どう受け取られるかまでは自分の仕事ではない」

という倫理が必要になる。

近内のいう「贈与は送り主にも倫理を要求する」という話は、ここにつながる。


5. 善意にも「想像力」という有限資源がある

匿名の寄付などでは、相手からの応答すら期待できない。

それでも人は、

「このお金によって誰かが少し幸せになる」

ということを想像して贈る。

子ども食堂への寄付などもそう。

ただし、その想像力には限界がある。

そこで出てきたのが、

「真の弱者は、救いたくなる形をしていない」

という有名な警句。

これはかなり厳しい話だけれど、人間の善意が必ずしも普遍的ではないことを示している。

「助けたい」と思える相手には、こちらが意味を想像しやすい何かがある。

子どもなら、

「今は分からなくても、いつか分かるかもしれない」

という未来まで想像できる。

しかし、こちらから見て、何を受け取っても当然と思い、感謝もせず、何かを考えたり変えたりする様子もない大人に対しては、その未来を想像できない。

その時点で、僕の善意には明確な限界がある。


6. 「受け取るための知性」という問題

近内が、贈与を受け取ることにも「知性」が必要だと語っている。

ここで考える「知性」とは、単なる頭の良さではない。

むしろ、

自分に向けられたものの意味を理解しようとする力

に近い。

「これは何のために自分に向けられたのか」

「誰かが自分のために何かをしてくれた」

「自分は何を受け取ったのか」

そういうことを考えられる力。

だから、自分が贈与したいと思える相手には、

「受け取ったものを受け取ったものとして認識できる」

という条件がかなり重要なのだと思う。


7. だから「Taker」という人間像に引っかかる

以前は「Giver / Taker」という分類にある程度納得していた。

でも今では、単純すぎると思う。

人間は状況によってGiverにもTakerにもなる。

それでも、どうしても嫌悪感を持ってしまうタイプがいる。

それは単に「たくさん要求する人」ではなく、

受け取ることはするのに、受け取ったものを認識しない人。

与えられて当然。

いくら与えても満たされない。

感謝もない。

それどころか、与えられないと不満や怒りになる。

こういう人に贈与すると、贈与が一方的な消耗になる。

だから、僕はそういう人たちに警戒感を持っている。


8. 善意を広げたい理由

ここで、さらに一段深いところが出てきた。

僕は単に「いい人になりたい」から贈与しているわけではない。(そういった下心が全くないとは言い切れないが…)

それよりもむしろ、

「この世界は生きるに値する場所だ」と感じたい。

そして、

周囲の人にも、そう感じてもらいたい。

そのために、

  • 誰かにちょっとしたものを贈る

  • 日常に「うれしいこと」を置く

  • 誰かの仕事に対してお金を払う

  • 誰かの努力や存在を認める

  • 誰かから受け取ったものを、別の誰かへ渡す

という小さな循環を作ろうとしていたのかもしれない。

つまり、僕にとって贈与は道徳的な善行というより、「世界が生きるに値する」という感覚を現実の中に発生させる行為だった。


9. 「実を支えるための虚」ともつながる

本の中で出てきた、

「実を支えるための虚」

同書p.112

という感覚ともつながる。

文明は、

  • 食べる

  • 働く

  • 稼ぐ

  • 生産する

  • 効率化する

  • 問題を解決する

という「生存」を支える。

しかし、それだけでは、

「だから、この世界を生きていたい」

という感覚までは生まれない。

そこで文化や儀礼や贈与が出てくる。

ラッピング、誕生日、乾杯、歌や踊り、スポーツの入場儀式。

それらは直接的には役に立たない。

でも、役に立たないものがあるからこそ、人生が単なる機能の集合ではなくなる。

贈与もその一つなのだと思う。


10. そして、今回見えてきたこと

最初は、

「なぜ贈り物をラッピングするんだろう?」

くらいの疑問だった。

そこから、

贈与と交換

返礼と応答

受け取るための知性

善意と想像力の限界

誰にでも与えればいいわけではない

自分は何を嫌っているのか

それでもなぜ善意を広げたいのか

と辿っていった。

そして最後に、

「僕が贈与によって本当に欲しかったものは、幸福感だったのではないか」

というところまで来た。

さらに正確に言えば、

自分や誰かの人生に、小さな「うれしい」を発生させることによって、
「この世界は生きるに値する」という実感を作りたかった。

なのかもしれない。

だから、僕にとって「贈与」は、物を渡すことそのものではない。

世界への評価を、一瞬だけ肯定する行為だった。

そしてそれは、以前考えていた「役に立つかどうか」だけでは捉えきれない、余白や文化や好意や、人間らしい無駄の側にある。


最後に、一つだけ留保

ただ、これは「自分は人を幸せにするために贈与していた」という美しい物語にしてしまわない方がいいと思う。

今回かなり重要だったのは、

「相手に幸福を与えたい」という願いの中には、
「自分もその幸福を見たい」
「自分も世界を肯定したい」
「自分の贈与が届いたことを知りたい」

という自分自身の欲求もちゃんと入っていること。

それは偽善というより、むしろ贈与を人間的なものにしている部分だと思う。

完全に無私な贈与を目指す必要はない。

むしろ、

「自分も少し幸せになりたい。だから、誰かに少し幸せなものを渡す」

くらいの循環のほうが、ずっと持続可能なのかもしれない。


…とまぁ、ChatGPTと壁打ちを続けた結果、こんなまとめになった。
存外面白いまとめになったのでそのまま貼り付けてみたが、フォントとか引用とか、解除するのが煩わしかったのでそのままで。

近内悠太の『贈与を巡る旅 つながりと身体の倫理学』、面白かった。

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