短編小説「ボツになった付箋たち」Act 2
「ボツ付箋事件」から三日。
湊は、冷蔵庫の前で腕を組んでいた。黄色い付箋が、一枚もない。
洗面所にも、玄関にも、電子レンジの横にもない。あの日以来、理人はパッタリと付箋を使わなくなっていた。
代わりに口にするのは、必要最低限の言葉だけ。
「麦茶のふた」「はい」「靴」「今そろえます」
目は一度も合わせてくれない。
前までは冷たいと思っていた黄色い付箋が、なくなってみると妙に寂しかった。あれは単なる小言ではなく、理人が自分を見てくれている証拠だったのかもしれない。
湊は買ってきたばかりの青い付箋に文字を書き、冷蔵庫へ貼った。
『付箋、もうやめたの? 湊』
翌朝、青い付箋の下に、見慣れた黄色い付箋が増えていた。
『必要がなくなっただけだ。理人』
湊はその下へ、もう一枚青い付箋を貼った。
『俺には必要。湊』
朝食を運んできた理人が、それを見てピタリと固まった。
「……どういう意味だ」
「書いてあるとおりだけど」
「主語が足りない」
「付箋が必要って意味」
「紛らわしい書き方をするな!」
耳まで赤くして怒る理人を見ながら、湊は思わず笑みをこぼした。
その日から、家の中に少しずつ付箋が戻ってきた。
洗面所には黄色い付箋。
『歯磨き粉は下から絞ること。理人』
その横に湊が青い付箋を並べる。
『今日はちゃんとできました。褒めてください。湊』
翌朝の理人の返事はこうだった。
『当然のことだ。』
しかしその隅に、小さな文字で書き足されている。
『……えらい。』
また別の日の玄関では。
『靴をそろえました。ご褒美は? 湊』
『図に乗るな。理人』
そしてその下には、
『プリンは冷蔵庫。』
そんな微笑ましいやり取りが一週間ほど続いた、ある日の夕方。
湊は青い付箋を冷蔵庫へ貼った。
『今日は帰りが遅くなります。夕飯はいりません。湊』
すぐに理人が黄色い付箋を重ねる。
『何時。理人』
『十時くらい。』
『駅まで迎えに行く。雨だから。』
湊は少し考えてから、その下へ書き込んだ。
『それは業務連絡ですか?』
これに対する返事はなかった。
夜十時。
駅を出ると、雨の向こうに黒い傘が見えた。理人が不機嫌そうな顔で立っている。
「遅い」
「まだ十時二分だけど」
「二分遅刻だ」
「迎えに来てくれたんだ」
「雨だからな」
「業務連絡?」
「……うるさい」
二人で一つの傘に入り、家へ向かって歩き出す。理人は湊が濡れないよう、傘を少しだけ湊の方へ傾けていた。そのせいで、理人の右肩はすっかり濡れている。
「理人」
「なんだ」
「俺、採用してほしい付箋があるんだけど」
「帰ってから冷蔵庫に貼れ」
「いや。今、読んで」
湊はポケットから、折り畳んだ青い付箋を取り出した。理人が怪訝そうな顔で受け取る。
そこには、何度も書き直した跡のある文字が並んでいた。
『理人が好きです。ボツにしないでください。湊』
理人の足が止まった。
傘を叩く雨の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……こういうことは、口で言え」
「口で言ったら、逃げそうだから」
「逃げない」
「本当に?」
「早く言え」
湊は大きく息を吸い込んだ。
「理人が好きだ」
理人は何も言わない。ただ、顔を伏せたまま耳の先まで真っ赤に染めている。
やがてバッグからペンを取り出すと、湊の手のひらに青い付箋を載せ、その下に一言書き加えた。
『採用。理人』
「返事が業務連絡みたいなんだけど」
「採用は採用だ」
「理人の気持ちは?」
「それくらい分かるだろ」
「ちゃんと口で言えって言ったの、理人だよな」
理人はしばらく黙ったあと、傘で顔を隠すようにしながら、小さな声で言った。
「……俺も好きだ、湊」
雨音に消えそうなくらい小さな声。けれど、湊には十分すぎるほど届いていた。
翌朝。
冷蔵庫には、いつもの黄色い付箋が貼られていた。
『麦茶のふたは最後まで閉めること。こぼれます。理人』
その隣には青い付箋。
『了解。それと、今日も好きです。湊』
少しして、その下に見慣れた黄色い付箋がもう一枚増えた。
『……俺も。』
その文字には、もう打ち消し線は引かれていなかった。
「交流に疲れず、ひとりにもならない。」
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