見出し画像

「ママ、おそいね」って、言いかけたところで

出発の時間は、とっくに過ぎていた。

車はもうエンジンをかけたまま、家の前に停まっていた。娘と息子と僕は、後部座席とその隣に座って、奥さんが家から出てくるのを待っていた。窓の外では、玄関のドアがまだ閉まったままだった。

娘はもうシートベルトを締めて、スマホをいじりながら足をぶらぶらさせていた。僕はハンドルに手を置いたまま、バックミラー越しに玄関を見ていた。

「ママ、おそいね」

娘がぽつりと言った。

「ほんとだね」

そう答えながら、僕も内心では、娘とまったく同じことを思っていた。娘と僕は、時間が近づくとそわそわしてしまう性分で、出発時刻の五分前には車に乗り込んでいたい人間だ。奥さんと息子はその逆で、ぎりぎりまで動かない。それでちょうど噛み合っているのが、この家のいつものかたちでもあった。

「ママ、また――」と言いかけて


娘がもう一度、同じ言葉を言おうとした。

「ママ、また――」

そこで止まったのは、娘の言葉ではなく、隣でシートベルトのバックルを弄いじっていた息子の手だった。

顔を上げて、まっすぐにこちらを見て、言った。

「そういう話、よくないんだよ。僕、嫌い」

一瞬、車の中が静かになった。娘も、僕も、何と返していいかわからなかった。エンジン音だけが、変わらない調子で車内に響いていた。

カチッという音のあとで


息子はそれだけ言うと、手元のバックルにもう一度視線を落として、カチッと音を立ててシートベルトを締め直した。

「だって、僕も誰かに悪いこと言われたら、悲しいから。僕、しないの」

それだけだった。説教でも、正義感を振りかざす感じでもなく、ただ自分の中にある小さな決まりごとを、そのまま声に出しただけという言い方だった。誰かの真似でもなく、教わった言葉でもなく、その場で自分の中から出てきたものだということが、聞いていてわかった。

僕は何か言おうとして、結局「そうだね」としか言えなかった。娘も黙って、窓の外に目をやっていた。

玄関のドアが開いて、奥さんが小走りに出てくるのが見えた。

「お待たせ、ごめんね」

助手席に滑り込んできた奥さんに、僕らは何も言わなかった。僕は黙ってギアを入れた。

気づいたこと


息子のシートベルトは、さっきから一度も外れていなかった。いちばん早く座席に座ったのに、いちばん先にカチッと音を鳴らしていたのは、いつもいちばんゆっくりな人だった。

車を出しながら、僕はそのことに、ようやく気がついた。

---
▼ この連載のほかの話はこちらから
https://note.com/hungry_pig1208/m/md51ad89ef005
忘れたくない瞬間を、ひとつずつ書き残しています。よかったらフォローしてください🐷

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集