透明なひと③
大井川鐵道の踏切を越え、左手に立つ茶子の像を通り過ぎると、前方に錆の目立つ大井川橋の鉄骨がみえてくる。全長一キロメートルを超えるこの橋には並行する歩道があり、そこを自転車で渡っていくのが辰樹の通学路だ。
この歩道は幅が狭く、自転車がすれ違う際は注意を要する。欄干が思いのほか低いため、橋の継ぎ目で前輪が跳ねた拍子に、前かごのバッグが川に落ちそうになったことがある。場合によっては人も落ちるかもしれない。
今朝は風が穏やかだった。ここちよい風に背中を押されながら、軽快にペダルを漕いだ。
たいてい、学校に向かう朝は追い風だった。逆に帰りは向かい風となる。空手の鍛錬で酷使したあとの身体には厳しい追い打ちだ。風の強い冬の季節はとくに厳しい。太ももや腰回りの筋肉がちぎれそうになり、若い辰樹でも、強い向かい風が吹くこの橋を渡るのは苦行だった。
大井川の川下の方角に朝日が昇ってきている。水量は少ないが川幅が広いため、この橋を渡っていると開放的な気分になる。
東海道線の大井川橋梁を下り電車が渡っていく。青空を背景に、製紙工場の煙突から吐き出される煙が輪郭をくっきりとさせている。
いつも通りの朝の風景だ。自転車のハンドルから伝わってくる振動も、橋梁を渡る電車の音も、青い空の色も、なにもかもが普通だ。
それなのに、昨日までとはなにかが違っていた。
指や手が武道場の壁をすり抜ける感覚が残っている。いや、感覚などなにもなかった。壁がないのか、指のほうがないのか、それとも溶け合って一体となっているのか。
壁に触れてもなんの感触もない感覚が残っている。矛盾しているが、そう表現するしかない体験だった。
昨日、情報処理室で朝賀瀬に「通報しないでほしい」と懇願された。あのような非現実的な体験をしたあとということもあって、どうすればよいのか本当にわからなかった。
だが最終的に、辰樹はクラスメイトの意を汲んだ。決め手は「めちゃめちゃ興奮しているんだ、おれ」と目をきらきらさせていった朝賀瀬の態度だった。
辰樹は入学してからの約一か月弱、朝賀瀬とまともな会話をしたことがない。いや、朝賀瀬はだれとも積極的に話をしない。相当な変わり者だったからだ。
公立の商業高校に入学しておきながら、大学は東大に行くと宣言。授業中は開いた教科書の上に専門書を重ねて自習。教師が注意しても「授業は聞いています」と返す始末。
四月の半ばを過ぎたころ、はやくも朝賀瀬を指摘する教師はいなくなった。年長者の威信と教師のプライドを賭けたあらゆる質問に、彼はすべて正解してみせたからだろう。
そんな朝賀瀬が、これから冒険に出発する少年のように、丸裸の感情を隠しもせず辰樹にぶつけてきたのだ。
地球外知的生命体に出会う。こんな機会は二度とない。この先の人生を想像したとき、大学に入り、一所懸命に働いて、いずれ死ぬ。つまらない。絶望的につまらないんだ。
そんな平坦な、まるで二次元のような人生に、宇宙人という、あり得ないイベントが飛び込んできた。
知りたいんだ。宇宙のルールを。
この宇宙がどうやってできているのか。最先端で研究されていることは正しいのか。どこまでも広がる果てのない空間に存在しているとはどういうことなのか。
その一端に触れることができるかもしれない――。
朝賀瀬は熱く語った。辰樹はいつしか首を縦に振っていた。
首筋をおだやかな追い風がなでた。大井川の向こう岸が視界に入った。もうすぐ橋を渡り切るが、誰かとすれ違うことはなさそうだった。
首を縦に振ってしまったあと、辰樹は朝賀瀬に訊いた。
なぜ宇宙人と会ったなんていう嘘くさい話を信用してくれたんだ?
飄々としていた朝賀瀬の態度が急変した理由を知りたかった。
杉山が相互作用という物理用語を知っているわけがない。
なんのためらいもなく朝賀瀬はそういった。教師や親よりまず朝賀瀬に訊いてみようと判断したのだが……。
辰樹は右中段順突きを朝賀瀬の腹部に叩き込みたくなる衝動をどうにか堪えた。
大井川を渡ったところにある交差点を右に曲がり、土手の道からわき道にそれる。島田市博物館の裏を抜け、短い坂を下りて左に曲がった。
この通りは旧東海道だ。大井川にまだ橋がかけられていないころ、人を乗せて川を渡った神輿のような蓮台や、川越しに携わった労働者を模した人形などが道沿いに展示されている。博物館を見学したのち、この路地をゆっくり散策すれば、川越しの文化や当時の趣を知ることができる。
昨夜の夕食時、両親には武道場での出来事を話さなかった。いうべきか迷ったが、朝賀瀬のきらきらした瞳を思い浮かべて口をつぐんだ。ただ、それとなく「宇宙人っているのかな」と話題を振ってみた。
母はすかさず、「あの目玉がぎょろっとして頭がでかくて表情のない気持ち悪いやつでしょ」と世間でありふれているイメージを思い浮かべたのか、露骨に顔をしかめた。父は違った見解を示した。
「やつらが地球にくるとしたら目的はなんだろうな」
母がすぐさま反応した。「それは決まってるじゃない、侵略でしょ」
「侵略? なんのために?」と父。
母は少し考えてから「エサじゃない?」
「エサ?」父はご飯を口に運びながらいった。「肉とか米とか魚とか?」
「ううん、人間」
辰樹は箸を止め、父と目をあわせたのだった。
大井神社の鳥居を横目にみながら本通を進んでいく。この通りも旧東海道だ。老舗の和菓子屋をいくつか通り過ぎ、本通七丁目の交差点を左に曲がれば、彼が通う真志田商業高校の校舎が遠くにみえてくる。
朝賀瀬は、明日もここにきてくれないか、と人差し指を下に向けた。情報処理室で確かめたいことがあると。
高校の入り口の手前で、辰樹は自転車を降りて校舎を見上げた。彼の脇を自転車に乗った学生が追い抜いていく。どこかで教師と生徒があいさつをかわす明るいやり取りが聞こえる。
昨日までとなにも変らない光景だった。白い石はバッグの中にある。自分と朝賀瀬だけが変わってしまった敷地に足を踏み入れた。
教室には三人しかいなかった。黒板の前で女子生徒ふたりが立ち話をしている。窓際の一番前の席の朝賀瀬はすでに専門書を広げている。まじめなやつだ。
辰樹は教室の後方から三人に向かって「おはよう」と声をかけた。
女子生徒ふたりは軽やかにあいさつを返してきた。そしてすぐさま会話に戻る。いっぽう、朝賀瀬は反応なし。
集中しているのだろう。そういうことにして、辰樹は教室のほぼ中央に位置する自席に座った。
朝賀瀬がクラスメイトと会話をしている場面の記憶がない。人間関係が苦手なのか、はたまた知的レベルが低いやつらとのコミュニケーションは無駄だと考えているのか。
辰樹は机の中にしまっておいた教科書やノートをすべて机の上に並べ、理科の教科書を探した。ところが表紙に目当ての記載が見当たらない。
入学してまだ一か月も経っていないというのに、もう教科書をなくしてしまったかと慌てたが、高校では理科ではないタイトルとなっていることを思い出した。
そしてようやく「科学と人間生活」と表紙に記載された真新しい教科書を見つけ出した。それ以外のものを机の中にしまう。
なにも知らないまま朝賀瀬と話をするのはどこか癪だった。少しでも知識を身につけて放課後に臨もうと思ったのだ。
目次を開いて「ソウゴサヨウ」という単語を探す。
光や電波の利用、熱やエネルギーの利用、身の回りの物質と材料、生命の科学と生物の利用……。
もうすでに頭がくらくらしてきた。どの章が該当するのだろうか。手がかりさえつかめそうにない。
太陽と地球の環境、自然災害と環境保全、と章立てを目で追っていた辰樹は、地震と火山の文字に目が留まった。
彼の住む静岡県は、東海・東南海・南海の広いエリアで連動する巨大な地震が発生するといわれている。それにしては関東や北陸や他の地域に比べて地震が少ないと感じていた。嵐の前の静けさ、というやつだろうか。
彼は教科書のページをぱらぱらと流していった。
今日は十九時から、島田第一小学校で空手の稽古がある。その時間までは昨日と同様、高校の武道場を借りて型の練習をするつもりだ。
真志田商業高校の武道場は以前、柔道部が使っていたが、いまは廃部となり放課後は使用されていない。辰樹は入学直後に担任と相談して、鍵の管理と貸し借りの記録、使用開始と終了の報告、使用後の掃除、これらを条件に、武道場の使用許可を得ていた。
それとなくページをめくっていくと、終わりのほうのページに単語がたくさん並んでいるのをみつけた。索引、とある。ここで探せばいいのかと彼は気づいた。教科書に使われている用語があいうえお順に並んでいるようだった。辰樹は「そ」で始まる箇所まで目を走らせた。
相、そう果、造角器、造岩鉱物、造血、象牙質、走行、相互作用……。
これだ、と辰樹は教科書を顔に近づけた。
「相互作用……こういう漢字だったのか」
用語の右には該当ページの記載がふたつあった。ひとつめのほうのページをめくる。
生物に関連する内容だった。生物同士の相互作用として、食べる、食べられるの関係がイラストで表されている。食物連鎖は彼も知っていた。これは違うな、と巻末に戻り、もうひとつのページ数を確かめる。該当ページを開いた。
力学における相互作用(作用・反作用、万有引力)と題して、スケートボードに乗ったふたりが押し合っているイラストが目に入った。となりのページには、地球と月が引き合っている関係であることが、向き合った矢印で図解されている。
ページをめくる。
電磁気・荷電粒子の相互作用(静電気・磁力)の項目。
字面だけをみて次のページに進む。
光や電磁波と物質の相互作用。
彼は教科書をしずかに閉じた。朝賀瀬に訊けばいいことだ。
「杉山、おはよう」
背後からふいに名前を呼ばれた。いつの間に席を立ったのか、声をかけてきたのは朝賀瀬だった。「なにかわかったか」とにやにやしている。嫌なやつだ、と辰樹は思った。
「まあ、なんとなく」辰樹は強がった。
「それよりも、放課後は情報処理室にきてくれよ」といって朝賀瀬は辰樹の脇を通り過ぎた。自分の席に座ると思いきや、くるりと振り返り「きっとだぞ」と満面の笑みを浮かべた。
