見出し画像

チームみらい安野貴博さん資産5憶の金持ち!SNSで貧民の見苦しいルサンチマンが溢れる

チームみらい・安野貴博さんが資産5憶の金持ちであることが話題になりました。

しかし、残念ながら、SNSの見苦しい貧民ルサンチマンのターゲットにされてしまったのです。

チームみらいの党首であり、AIエンジニア、起業家としても実績を積み上げてきた安野貴博氏が、その資産規模を理由に過剰な批判を浴びている現象は、日本社会に根深くこびりついた有害な「成功者アレルギー」の集大成と言って差し支えありません。

しかも問題なのは、その多くが政策や実行力に対する批判ではなく、SNSという便利な感情投棄装置から垂れ流される嫉妬と違和感のミックスジュース(汚物)である点です。

理屈は薄く、感情は濃い。その結果として生まれるのは、ブラックユーモアとして眺める分には興味深いものの、民主主義の議論としてはかなり寒々しい光景です。

政治家が金を持っていれば「金持ちのくせに庶民の気持ちが分かるのか」と言われ、金を持っていなければ「こんなやつに国を任せられるのか」と言われる。この無敵すぎる二段構えは、もはや批判というより儀式に近いものがあります。どんな人物が来ても必ず殴れる、感情万能のサンドバッグ理論です。

少なくとも、理屈よりも感情で世界を理解したいチンパンジーたちにとって、安野氏は非常に扱いやすい存在に見えてしまったのでしょう。

冷静に考えれば、資産の多寡と政治家としての資質は本来、直結しません。しかしSNSの世界では、数字は文脈を失い、感情を刺激するためのスパイスとして消費されます。

3.6億円とか5億円とか200億円という数字が一人歩きし、「ずるい」「怪しい」「信用できない」という三点セットが、特に根拠もなく自動生成される。この雑音の多さこそが、今回の騒動の本質です。


資産があるからこそ可能になる「生活を気にしない政治」

安野氏が資産5億円規模の成功者であることは、陰謀でも抜け道でもありません。

事業を立ち上げ、市場で評価され、競争を勝ち抜いた結果として積み上がった、極めてシンプルな帰結です。ここで本来問われるべきなのは、「金を持っているかどうか」ではなく、「その状態が政治にどんな影響を与えるのか」という点です。

生活費や将来の不安に常に追われている状態で、数十年単位の社会設計を冷静に考えられるでしょうか。答えはかなり厳しいと言わざるを得ません。明日の収入を気にしながら、長期的な制度改革を語るのは、穴の空いた船で航海計画を立てるようなものです。経済的に自立しているからこそ、目先の利害や短期的な人気取りに過剰に振り回されず、腰を据えて合理的な政策設計に集中できる。これは理想論ではなく、現実的な前提条件です。

それにもかかわらず、

「金持ちは自分の金だけで政治をやれ」

「寄付やクラウドファンディングを使うのはずるい」

といった声が、まるで正義の仮面をかぶって登場します。

一見すると清廉さを求めているように聞こえますが、よく見ると感情が先行しており、論点はかなり曖昧です。法に則っている限り、政治資金の調達方法は問題ではありません。むしろ、その点だけを執拗に問題視する姿勢こそが、議論の本丸から意図的に目をそらしているようにも見えます。

「金持ちは自腹でやれ」という主張は、成功者に対してだけ課される謎の追加ルールです。

しかもそのルールは、明文化されておらず、守っても評価されず、破れば叩かれるという、かなり理不尽な仕様になっています。


SNSに張り付く底辺貧民の幼稚な嫉妬と見苦しさ

ここからは、少し視点を引いてSNSという舞台装置を眺めてみましょう。

安野氏に向けられた批判を時系列で追っていくと、まるで「成功者に一言言わずにはいられない大会」が24時間体制で開催されているかのようです。

参加に必要なエントリー費用は不要で、必要なのはスマホと、少しの苛立ちだけです。

「資産を隠してかわいそうなフリをしている」

「支持者が気の毒だ」

こうした言葉は、一見すると他人を気遣っているように見えます。

しかし実際には、自分の中に生じた違和感や不快感を正当化するための装飾として使われているケースが少なくありません。驚くほど中身が薄い。

政策の是非や実行力を論じるのは、資料を読み、比較し、考える必要があり、正直かなり面倒です。だから代わりに、分かりやすい数字だけを切り取り、人格を推測し、「見抜いた気分」になる。

その行為は批判というより、感情のセルフケアに近いものがあります。スッキリするかもしれませんが、何も前には進みません。


「隠れ嫉妬」という無自覚な落とし穴

露骨な罵倒よりも厄介なのが、自分では理性的だと信じて疑わない「隠れ嫉妬」タイプです。

彼らは決まってこう言います。「卑劣なレトリックだ」「倫理的にどうなのか」。言葉だけを切り取れば、非常に知的で冷静な批評に見えるでしょう。

この論理は、実は客観的に見ると論理としては一理あります。

しかし、彼らの投稿をさかのぼっていくと、不思議なことに、同程度、あるいはそれ以上のレトリックを使う他の政治家や企業の営業活動には、ほとんど反応しません。なぜチームみらいと安野氏だけに反応するのか?

その理由を掘り下げていくと、「成功しているのに、専門性もあり、しかも比較的クリーンに見える存在」への無意識下での嫉妬が見えてきます。

無意識のうちに芽生えた違和感を、そのまま認めるのはプライドが許さない。そこで論理や倫理という服を着せて、批判として提示します。自分では気付きにくい分、議論を静かに、しかし確実に歪めていきます。

どうせ、もともと感情的に「チームみらい」を”気に入らない”と薄っすら感じてたんでしょ?そこに都合よく叩きやすいニュースが現れた。だから攻撃したんですよ。

自分自身や自分が気に入った相手が不正をしても何も言わないのに、自分が気に入らない相手が不正をすると声を上げるんですよ。彼らは全くフェアではありません。

以下記事で書きましたが、フェアネスを重視し深層心理にエゴが一切なければ、このような行動は取りません。”一貫したロジックで自分自身をも殺せるか?”という観点はフェアかどうかを判断する一つの分水嶺と言えるでしょう。

自分自身の無意識の深層心理に、レトリックを被せていることをメタ認知できていますか?

レトリックを使っているのはあなた自身なんですよ。あなたの深層心理が無意識でそうさせているんです。完全にブーメラン。

この「隠れ嫉妬」が厄介なのは、本人が自分の無意識や深層心理に気が付いておらず、善意や正義の側に立っていると信じている点にあります。

そのため、指摘されても反省ではなく反発が返ってくる。こうしてSNS上の騒音は増幅し、都合の悪い成功者をめぐる奇妙なエンタメとして消費され続けるのです。


成功者を叩く文化がもたらす静かな損失

結論から言えば、成功した人間が政治に関わるたびに「金持ちだから信用できない」と条件反射的に騒ぎ立てる文化は、社会にとって確実にマイナスです。

しかもその損失は、派手な音を立てて崩れるわけではありません。静かに、じわじわと、しかし確実に、日本社会の体力を削っていきます。チームみらいの党首である安野貴博氏をめぐる一連の騒動は、その典型例と言えるでしょう。

安野氏個人をどう評価するかは、もちろん自由です。支持してもいいし、批判してもいい。ただし、その評価軸が「資産を持っているかどうか」だけに収れんしてしまう瞬間、議論はほぼ死にます。

なぜなら、それは政策や実行力という本丸から意識的に目をそらし、「気に入らない」という感情だけを正当化する作業に変わるからです。

本来であれば、「どうやって成功したのか」「事業で培った知見を、どのように政治や制度設計に活かすのか」という、かなり面白い問いが立ち上がるはずでした。

起業家としての意思決定、技術者としての合理性、リスクとリターンの見極め方。政治に持ち込めば、議論の材料はいくらでもあります。しかし現実には、その入口に立つ前に「金持ちだから怪しい」「ずるそうだ」という感情が割り込んでくる。

その瞬間、思考は止まり、代わりに嘲笑が始まります。

結果としてどうなるか。有能な人ほど、

「ここに入ると面倒だ」

「実力ではなく感情で殴られる」

と判断し、政治から距離を取るようになります。一方で、無難で、当たり障りがなく、突出しない人だけが残る。

最後に損をしてババを引くのは?そう、国民です。


日本に必要なことは?政治から国民感情を完全排除することです

僕は基本的にチームみらい・安野貴博さんを支持していますが、一方で、安野さんには政治家として必要な資質が欠けており、「絶望的に政治家に向いていない」とも感じています

それは、社会の底辺には嫉妬・ルサンチマンに溢れたクズが存在しており、彼らを上手く扱わないと政治を前に進めることができないという現実をおそらく理解していない。そしておそらく安野さんは彼らを上手に扱う技術を持っていない点です。

会社における「部下のマネジメント」と似ています

クズみたいな発達障害の部下でも上手に使って利益を上げることがマネージャーに求められる。残念ながら正論とフェアネスと合理性だけを追究してもチームとして回らないことはよくあるのです。


しかし、これは「悪感情はクソだが、人間と悪感情はセットなので仕方ない」という諦観からきた現実的妥協策であるとも言えます。

本来は正論とフェアネスと合理性で回した方が社会はよくなるけど、人間部品がボトルネックになっていてできないから仕方なくやっているのです。

では、どうすればいいのか?幸いなことに、今はAIが発展してきており、この状況を打破できる可能性があるのです。

例えば「部下のマネジメント」を考えてみてください。部下を全員AIに代替したらどうでしょうか?そうすれば、もはや面倒な「部下のマネジメント」は不要になります。部下のお気持ち配慮が不要になり、正論と合理性のみで業務プロセスが高速に回るようになる。

政治も同じです。政治プロセスの自動化・AI化を進め、国民感情というボトルネックが入り込む余地をなくせば、政治はよく良くより高速でより合理的になります

AIは「人間と悪感情はセットなので仕方ない」という前提を崩し、悪感情を排除した"人間機能部分"のみを享受できる素晴らしい技術なのです。


■日本の政治はなぜクソなのか

チームみらいや安野貴博氏の是非に限らず、日本の政治がなぜいつまで経っても良くならないのか。その最大の原因は、一部の国民が「誠実さ」「清貧」「気持ちに寄り添う」といった耳触りの良いナラティブや、ほとんど宗教に近い信仰に流され、データと現実を見て合理判断をしないからです。

「国民感情」は害悪でしかありません。なぜなら文字通り感情論だからです

相手の実績や数字を理解する努力を一切せずに済み、自分の違和感や不快感を「正義」に変換できる。しかも反論されにくい。なぜなら、これは論理の話ではなく、感情の話だからです。

そして、実務能力ゼロで国民感情に寄り添うことだけが上手い「無能なポピュリズム政治家」ばかりになります

この手の安心感が社会に蔓延すると、政治は一気に劣化します。成功者は最初から疑われ、挑戦は「怪しいもの」「ずるいもの」として扱われる。「失敗しないこと」だけが美徳になり、「成功して目立つこと」は危険行為扱いされる。こうして、社会を前に進めるエネルギーは音もなく削られていきます。

安野氏をめぐるSNSの反応を見ても、この構図は驚くほど分かりやすい。政策の中身や実行力の話に入る前に、「あいつは金を持っている」という一点で思考が停止する。その瞬間、頭は省エネモードに入り、あとは皮肉と疑念の自動運転です。数字もデータも不要。ただ感情だけが高速で回転する。これほど政治にとって有害で、しかも手軽な態度はありません。


■嫉妬が合理性を破壊する

さらに踏み込んで言えば、日本の政治と経済が長期停滞から抜け出せない背景には、幼稚な嫉妬と足の引っ張りを是とする空気があります。

まともな人間であれば、成功者に嫉妬すること自体がありえません。

例えば、5億円を稼いだ起業家が目の前に現れたとき、合理的な反応は二択しかありません。「その仕組みを学ぶ」か、「次は自分が10億を稼ぐために何をするかを考える」かです。

ここに嫉妬が入り込む余地はありません。嫉妬は何も生み出さず、数字も改善せず、KPIを一つも前に進めないからです。

嫉妬という感情を生み出すこと自体が非効率なので、合理的な成功者ほど嫉妬しないのです。

それにもかかわらず、SNSでは行動を伴わない嫉妬が大量にばらまかれる。

「ずるい」「信用できない」「気に入らない」

その言葉を吐いても、誰の所得も上がらず、GDPも伸びず、社会保障の持続性も改善しません。にもかかわらず、この行為が繰り返されるのは、感情的には楽だからです。考えなくていい、責任も負わなくていい、でも参加している気分にはなれる。

はっきり言えば、これは社会にとってのノイズであり、経済的にはマイナスです。嫉妬が称賛され、成功が疑われる社会において、合理的な挑戦が育つはずがありません。


■国民感情を排除し、政治を「数字」で裁け

では、どうすればいいのか。答えは単純で、国民感情を政治評価の中心から外し、合理的なKPIを設定し、数字で定量評価するしかありません。

政治家が誠実そうかどうか、気持ちに寄り添っているかどうか、そんなものは評価軸としては二流以下です。本当に見るべきなのは、政策によって失業率はどう変わったのか、出生率はどう動いたのか、可処分所得は増えたのか、行政コストは下がったのか。その結果を数字で比較し、ダメなら落とす。ただそれだけです。

ここで必要なのは、ある意味での「政教分離」です。宗教的信仰としての「清貧」「誠実そう」「庶民感覚」「お気持ち感情論」を政治から切り離す。感情を完全排除しあらゆる判断をデータと実績で行う。

この冷酷さがなければ、政治は永遠に改善しません。

底辺ルサンチマンとかお気持ちモンキーがいるからできないって?だからこそ少しづつでもAI政治に移行していくしかないのです。

結局のところ、政治家を評価する基準は資産額でも、感情に刺さる物語でもありません。政策の中身と、それを実行した結果です。

安野氏が資産を持っているという事実は、称賛でも非難でもなく、単なる前提条件にすぎません。それ以上でも以下でもない。そこに過剰な意味を与え、「金持ちだから信用できない」と騒ぐのは楽です。頭を使わずに済むからです。しかし、その楽さと引き換えに、日本社会は20年、30年と停滞してきました。

政策を読み、数字を確認し、実現可能性を検証するのは面倒です。だから多くの人は感情的なナラティブに流されます。

しかし、民主主義が機能するためには、その面倒な作業から逃げ続けるわけにはいきません。

嫉妬を捨て、信仰を疑い、数字を見る。その当たり前の態度を取り戻さない限り、日本の政治が良くなる日は来ないのです。


いいなと思ったら応援しよう!