'26.8

あつらえて1年も経たない眼鏡の度が、既に合わなくなっているような気がする。とはいえコンタクトにしても、なんとなくピントがぼやけてうまく物が見れないことがある。慢性的な眼精疲労?ピントがぼけたような気がするのは眼だけじゃない。最近はものを考える筋肉もみるみると弱っていて、その代替として、おぼつかないリズム感に頼って身体を動かしたり、文字を書いたり、声を出したりすることが増えた。咄嗟に浮かんだ言葉や、思いがけず降り注いできた喜びを何度も反復して、その抑揚の愉快さにすがっている。自分は生活を乗りこなせているのだろうか。

今月は月の半分近くを外泊している。普段は鼻が慣れてしまっているけど、数日ぶりに自室のドアを開けると、いたるところに積まれた年季の入った紙や布の匂いと、かれらの独特な湿度の滞留に気がつく。今月はこれを何度も繰り返した。

そして今はなぜか、無臭の、驚くほど無臭の病床で、憮然とはだしであぐらをかいている。日々が少しだけ目まぐるしい。明日には生まれて初めての全身麻酔の手術が待ち受けている。

先々週、歯茎に腫瘍が見つかった。良性のため大きな心配はないそうだが、親知らず4本を抜歯するのと同時に腫瘍も取り除くことになり、そのために三日間だけ入院することになった。手術内容が単なる抜歯でなく腫瘍の除去なために、病棟にはがんの治療を受けているらしい患者さんが多くいる。よくないとわかっていながらも、看護師さんの巡回の声がけに耳をそばだててしまう。ベッドに横たわりながら、自身の痛みや倦怠感を淡々と報告する声が聞こえてくる。同じ病床にいながら、学校の課題をしたり、読書をしたり、ダウンロードしてきた動画を観て(はだしにあぐらで)過ごしている自分と、この環境にアンバランスな空隙を感じる。私が小学校に上がったばかりの頃に亡くなった祖母のことを思い出した。祖母もがんと闘っていた。

昔、ある知人の祖父母宅に伺ったとき、その知人の祖母から、身内に癌だった人はいるかと聞かれたことがある。(当時の私はこの質問の意図を、彼女自身ががん患者であるために、親族にがん患者がいると遺伝的に発症の可能性が高くなることを憂慮して尋ねてきたのだと受け取ってしまった。)母方の祖母がそうだったと答えたとき、彼女の大きな瞳がずっしりと一層黒くなった。私は鼻腔を突かれたような切なさ、不快感、無力感にどうっと襲われた。

いつか自分に訪れてもおかしくない、そしてそれによって命を落としたとしてもおかしくない病。がんによって亡くなった知人や家族が身近にいながらも、私は自分が未熟で無知なために、その病について深く考えたことがそれまでほとんどなかった。

あのとき、大きな瞳と柔らかそうなウェーブがかった白髪の可憐な女性が私に向けてきた静かな視線は、私が抱える喪失への憐憫と、私の亡き祖母への彼女の心境の投射だったのだろうと、今振り返ってみて思う。にも関わらず私は、自分自身の健康状態を審判されているのかと思い、身構えると同時に非常に後ろ向きな感情に襲われてしまった。それからしばらくは、彼女とあの話題でもっと交わせた言葉があったんじゃないかと考えて、結局何も浮かばず、また虚ろな思いに立ち戻ることを繰り返していた。

今年に入ってすぐ、スーザン・ソンタグの、隠喩としての病い という批評を読んだ。エイズとその隠喩 という著作と合本で、岩波書店とみすず書房が出版している。この二つは、多くの人の命を奪ってきた病に付与された過剰なメタファーが、いかに病の実態と乖離しているか、その意味付与がどれほどに暴力的なものであるかが綴られた批評だ。私はこれを読んで、病気そのものに現実以上の意味や物語を背負わせることで、それに付随するあらゆる喪失や宿命に対しても恐怖や悔恨を増幅させるべきではないと反省した。同時に、どんな人間でも病によって肉体に襲いかかる苦痛から逃れることはできず、それは体験した当事者以外には決して分かり得ない、不可侵の孤独であることについても改めて考え直した。

自宅で緩和ケアを受けていた祖母の世話をしていた母が記した、祖母の最期の数日間を記録を見てしまったことがある。そこには祖母の体温と容態、モルヒネを打った時刻などがすべて詳細に書き込まれていた。母は、祖母の不可侵の孤独の何より近いところにいたんだと思う。

これだけ書いていたら消灯の時刻が近づいてきた。家から持ってきた寝巻きに袖を通すと、自室の押し入れの木材と、ほんのかすかな洗剤のにおいがする。匂いというものを一切感じないこの真っ白なベッドで、数年前に買ったユニクロの猫柄Tシャツは、今の私にとって何よりも懐かしく親密な存在だ。

歯を磨くために共用の洗面台に立つ。同室の小柄な女性に声をかけられた。あなたみたいに若い子がまあ、と柔らかい声と眼差しを私に向けて通り過ぎていったが、少しして廊下から彼女と思しきえずき声が聞こえてきた。

私が対峙したことのない苦しみと闘う人達が、他にどれほどこの建物にいるのだろうか。彼ら、彼女らの記憶にも、私の猫柄Tシャツのようにあたたかく柔らかい自宅のにおいがあるのだろうか。

健康ということば。私達の肉体。病に対して、無知ゆえに不必要に恐怖を増幅させるような隠喩をあてがってきた人々の、よるべない苦しみ。ありとあらゆるものが脆い。消灯の時間がちょうど来た。おやすみなさい。

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