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#14 言葉選びってムズカシイ 〜このnoteで使用している言葉や表現について〜

言葉選びは生死の分け目⁉︎

 SNSが隆盛を極める昨今、発言が大炎上を起こして社会的に“退場”してしまった人は大勢います。中には「それは確かにマズいわ」と思うケースもある一方で、「きっと、言葉選びを間違えただけなんだろうな」「言葉狩りをされただけだよな」と思うケースも沢山あります。
 勿論、現代ニッポンにおいては、どこで何を発言しようとも実際に命を奪われてしまう事はまずありません。しかし人間は社会的な動物。命を奪われる事はないにせよ、社会的に抹殺されてしまうという事はいとも簡単に起こり得ます。そう、言葉選びはまさに生死を分けるのです。
 かく言う私も、こうしてインターネット上で文章をアップする身です。言葉選びには最新の注意を払いながら作文し、書き上げた文章を再度チェックした上で「公開」ボタンをクリックしています。クリックする瞬間は、独特の緊張感があります(過去には10年以上に渡り音楽の感想を記す私的ブログを書いていましたが、10年経ってもその緊張は消えませんでした)。そうして日々文章を書く中で、「これは誤解を招きかねないな」「使用する意図をきちんと説明しておきたいな」と思うワードが、2つほどあります。今回は、それらについて私なりの考え方を記しておこうと思います。意図しない形で、誰かを傷つける事の無いように。




「健常者」という言葉

 「健常」という言葉は、国語辞典ONLINEによると
  言葉  健常
  読み方 けんじょう
  意味  体や心に異常がない事
  用例   「ー者」

なのだそうです。健常者…言うなれば、「健やか」で「平常」な「者」。こう考えると、「おいちょっと待てよ?」と思う訳です。障がいがあれば、健やかではないのか。障がいがない状態が平常という事なのか。以前、Mr.Childrenの『擬態』という曲の歌詞の一節について記事を書きましたが、まさに「障害を持つ者がそうでない者より不自由だって誰が決めるの⁉︎」って事です。障がいがあっても、障がいのない私よりも健やかに生きている方はごまんと居るでしょうし、何をもって平常とするかは個々人の価値観に拠ります。
 私は、この「健常者」という表現が、ずっと好きになれずに居ます。好きになれない理由は、 “健常者(体や心に異常がない人) ↔︎  障がい者(体や心に異常がある人)”    という構図が出来てしまい、「障がいのある方には何らかの異常がある」というニュアンスを帯びてしまう可能性があるためです。他者を一方的に「異常」と言ってしまうのは、異常な事だと思うのです。思うのですが、使います(このnoteにおいても、頻繁に使用しています)。なぜ使うのか? それは、
▶︎障がいのない人の事を“端的に”表す別の言葉が、見当たらないから
▶︎広く世間に浸透し、読者の理解を得やすいから
という2点に尽きます。要は、「他にしっくり来る言葉がないから、仕方なく使っています」という事です。
 例えば「障がいのない人」のような言い回しも可能でしょうが、文章に嵌め込んだときにまどろっこしさは否めません。また、発達障がいに特化した対義語としては「定型発達」という言い方もあります。しかし、これはまだまだ世間的に浸透した表現だとは言い難く、「ん?何それ??」と思われてしまう可能性が高いのです。試しにインターネットで「健常者 言い換え」と検索してみても、私の感覚にフィットする単語は出てきません。
 私は、便宜上「健常者」という表現を使いますが、そこには何の他意も隠喩もない事を、ここに明言しておきます。


「障害」なのか「障がい」なのか

 私は、他者(または他者の様態)を示す表現に「害」という文字が入っている事が、あまり好きではありません。「害」には、あまり良いイメージが無いからです。そういうシンプルな理由で、通常は平仮名を用いた「障がい」という表記を使っています。
 一方で、
▶︎他者が「障害」という表記で記した文章を流用する場合
▶︎ハッシュタグなどを使用する場合
の場合には、「障害」を使います。前者は記載者の意向を尊重する目的、後者は単純に「障がい」よりも「障害」のほうが世間一般において多用されているから(つまりぶっちゃけると、検索に引っかかりやすいから)です。「障害」という表現で入力をするたびにほんの少し胸の片隅がチクっとするのですが、上記の理由である(=上記以外の理由はない)事を明記しておきます。
 蛇足ですが、過去には「障碍」という表記を好んで使用していた時期もありました。goo辞書によると、
 【害】①そこなう。傷つける。こわす
   ②さまたげる。
   ③わざわい。災難。
 【碍】①さまたげる。じゃまをする。
   ②ささえる。ささえ。

なのだそうです。「障碍」という表現を使っていた時期は、「【害】よりも【碍】のほうが、文字としての馴染みが薄いぶんネガティブなイメージを緩和出来るのでは」という理由で使用していましたが、ある時ふと「正直、どちらもネガティブなイメージである事に変わりがないな」と思ったために、使用するのをやめました(【碍】の②に関しては、「“障(=さわる)”に“支える”がくっついても、意味がよく分からんだけだな」と思っています)。結果的に、「障がい」という表記を用いるところに落ち着きました。


「評価」という言葉

 評価という言葉に「立場が上の者が立場の下の者に対し、その能力や特性などのランクづけをする」のようなニュアンスが含まれると感じるのは、私だけでしょうか? 本当は、シンプルに「その事象がどういう要素で成り立っているのかを明確化する」という意味でしかないはずの言葉なのに。学齢期に、テストや通信簿や内申点等を通じて教員が一方的に学生・生徒・児童にラベルを貼り付ける環境に晒されてきたからなのかもしれません。
 私は、後者の意味でこの言葉を使います。決して、障がいのある方々と私との間に上下や優劣を感じているからこの言葉を使うのではありません。目の前にある課題や困り事や不明点について、情報の解像度や仮説の確度を上げ、より実体的な支援に反映させるための作業という意味合いで使います。


「観察」という言い回し

 「観察」という言葉を聞いて、思い浮かべる“対象物”は何ですか? 昆虫や動植物であったり、もしくは空模様などの自然現象だったりはしませんか? このようなイメージを持っている方に対して何の注意も払わずに「観察」という言葉を使ってしまうと、「うちの子をアサガオやメダカみたいに言うな!」「私をモノのように扱うな!」という不快感を与えかねません。しかし私は、細心の注意を払いつつ、それでも「観察」という言葉を選んで敢えて使います。何故なら、「観察」という言葉の意味が、発達障がい者支援の場面で最も重要な視点だと考えるからです。
 「観察」を辞典で引くと、
 かん-さつ
 物事の状態や変化を客観的に注意深く見ること

なのだそうです(goo辞書より)。これはまさに、すっかりそのまま、支援の現場で大事な視点と言えましょう。だから、観察という言葉を使います(勿論、誤解を与えないように気をつけながら)。
 決して、発達障がいの方々の事を下に見ていたり、動植物と同じような認識で見ている訳ではないのです。



ここまで書いておきながら、元も子もない事を言う

 ここまでつらつらと長文で主張を展開した上で、最後にこう締めたいと思います。「大事なのは、“どんな言葉を使うか”よりも“どんな気持ちで障がいのある方と接するのか”である」。
 逆説的な言い方になりますが、極論すると「普段はそんな事を考えないのに、障がいのある方について言及する時だけそんなにも慎重な言葉選びをするのは、障がいのある方に対して差別意識があるからなのではないか?」と言えなくもない訳です。「差別」という表現はいささか刺激的ですが、健常者に対しては言葉を選ばす喋るのに障がいのある方について話す時だけこんなにも言葉選びを意識するという事は、それだけ障がいのある方々の事を「別の枠組みに属している人々」だと意識しているという可能性が考えられるのです。勿論、そんなつもりはありません。無いつもりです。でも、本当の本当の本当の本当にそうなのか?…それを考え出したらキリがありません。そこで私が出した結論としては、「大事な事は、言葉よりも想いだ」という事です。誰かを傷つけない言葉選びは重要ですが、マイルドな言葉を使ってさえいれば良いという訳でもない。私はこれからも日々、「言葉遊びをしている暇があったら動け!」と、自分に言い聞かせていきたいと考えています。




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