小説『白銀に輝く瀬戸内海を見詰めて』(エンジェルロードから西ノ瀧へ)【8−1】
08−1、エンジェルロードを訪れて遥かに第42番霊場「西ノ瀧」を仰ぎ見詰めて(エンジェルロードから西ノ瀧へ)
克己はサイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレス」を鼻歌で歌いながら原チャリを走らせていた。
目指すのはエンジェルロード。
小豆島で最も有名な観光地の一つだ。
克己も「テレビせとうち」で何度も見たことがある。
岡山県の瀬戸内海沿岸にも干潮の時だけに沖の島が砂州で繋がって現れる道がある。しかし「エンジェルロード」程は砂州は大きくないし有名でもない。
克己はエンジェルロードに着いた。

観光客は誰もいない。満潮ではないけれど潮が高くて砂州は現れていなかった。
誰もいないエンジェルロードにピンク色の阪神タイガースのユニフォームと白衣を着た変な親父がただ独りだけ佇んでいる。それで良いのだ。
薄い色の海中の砂道の上にはコバルトブルーの潮がゆっくりと流れている。海面には白い砂州が透けて見える。なかなか素敵な景色だ。
砂道の向こうには小島がある。テレビや映画で何度も見た美しい小島だ。


克己はエンジェルロードの傍にある小高い丘「弁天島」へ登った。
その場所は「恋人の聖地」と呼ばれている人気の場所だ。
小さな鐘が吊るされていて、恋人達が訪れて瀬戸内海に向かって鐘を叩くのだ。
「恋人の聖地」から眺めた瀬戸内海の景色は本当に美しい。
弁天島から向かいの小島へと続いている白い砂道とコバルトブルーの海が綺麗だ。
その先には四国の山々が見える。屋根の形をした「屋島」は直ぐに解った。
雲一つない青空には秋の太陽が輝いている。
こんな素晴らしい絶景を克己は一人で独占しているのだ。
克己は「恋人の聖地」の鐘を叩こうと近寄った。
「そう言えば岡山県の『牛島オリーブ園』にも『恋人の聖地』があって、小さな鐘があるらしい。幼い頃に父ちゃんと母ちゃんと弟の4人で行った時には無かったけど。今度、約55年ぶりに行ってみようか」と克己は幼い頃を思い出した。
西の方向を見ると大麻山の山頂の下の断崖絶壁に、五色の旗が吊されているお寺が見えた。

それが第42番霊場「西ノ瀧」だった。
「あんな断崖絶壁に誰がお寺を建てたんだろうか」と克己はじっと見詰めていた。
「よしっ、次はいよいよ『西ノ瀧』だな」と呟いた。
克己は「恋人の聖地」の小さな鐘を思いっ切り叩いた。
高らかな鐘の声が秋の蒼天に響き渡った。鐘の声が消えるまで静かに「西ノ瀧」を見詰めていた。
克己は原チャリに乗って「西ノ瀧」を目指して走った。途中からやや細い山道を走った。
克己が歌う鼻歌はいつしか大声になっていた。
歌はフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」。まるでオペラ歌手になったような気持ちで歌っている。もちろん誰も聞いていなかったからだ。
下手糞な音痴のテノールが響き渡っても、誰からもブーイングなかった。
山道を上る程に瀬戸内海の景色はますます美しくなっていく。こんなに美しい景色が眺められるなんて何と素晴らしいことか。
瀬戸内海の絶景を一人で独占しているのだ。
克己の心はいつの間にか青春時代に戻ったような気持ちになってとっても愉快になった。

第42番霊場「西ノ瀧」の駐車場に着いた。
克己は原チャリから降りてヘルメットを脱いだ。
駐車場では落ち葉を綺麗に掃き清めているお坊様がいた。
「こんにちは。駐車場の向こうに道が続いていますが、原チャリでも行けますか」と克己は尋ねた。
「お兄さん、お一人で巡礼ですか。ピンク色のシャツと白衣がお似合いですね。原チャリなら走れますが、長い階段を登るのも素敵ですよ。天気も良いし瀬戸内海の綺麗な景色をゆっくり楽しむことをお勧めします」
「ありがとうございます。憧れの小豆島山岳霊場の一つ『西ノ瀧』にやっと来ることが出来ました。ゆっくりとお参りさせて頂きます」
克己はお礼を言った。
「またお兄さんか。ピンク色の阪神タイガースのユニフォームを着たら若返るわ。やれやれ」と克己は思ったけど口には出さなかったけど。
克己はゆっくりと緩やかな長い階段を上っていった。
階段を登ると厳かな山門があった。山門の後の紅葉が綺麗だ。
山門の前で克己は両手を合わせて頭を深く垂れた。
「御大師様、お導き下さいましてありがとうございます」
山門を潜って左に回ると右手には立派な鐘楼がある。
克己は心を込めて静かに鐘を叩いた。鐘の余韻が消えるまで眼を閉じて聴いていた。

「さあ『西ノ瀧』にお参りしよう」と断崖絶壁にお詣りされている奥の院を仰ぎ見た。雲一つ無い真っ蒼な空の下の断崖絶壁に奥の院が聳え立っている。
「エンジェルロードから眺めた『西ノ瀧』がこんなに大きく立派だとは解らなかった」と思った。
本堂へ向かう参道で素敵な御夫婦に出会った。
「お兄さん、お一人でお参りですか。『西ノ瀧』は素敵ですよ。奥の院の右手に大きな岩の塊があるでしょう。あの山塊の頂上に、白い鉄塔が見えますよね。あの鉄塔まで登れるんですよ。凄いでしょう。お兄さんは何処からお参りに来たんですか」
「私は岡山から来ました。ずっと小豆島の山岳霊場に憧れていました。還暦を過ぎてやっとお参りすることが出来ました」
「お兄さん、お若く見えますね。私達も岡山から初めて来たんですよ。山塊の頂上からは凄いらしい眺めだそうですよ。私達は無理でしたが是非とも登ってみて下さいね」
「あんなに高い所の断崖絶壁の巌山に登るのは怖いでしょうね。教えて下さいましてありがとうございます」
克己はお礼を言って本堂へ向かった。

本堂の前に着いたら竹箒をもったお坊様が坂道を登てきた。
「お兄さん、長い階段を登りなから瀬戸内海の景色を楽しみましたか」
「はい、ありがとうございます。素晴らしい瀬戸内海の景色ですね。エンジェルロードから眺めた『西ノ瀧』も素敵ですが、『西ノ瀧』から眺めたエンジェルロードと瀬戸内海の景色は余りにも美し過ぎます」
「お兄さん、そう言って頂いて嬉しく思います。この『西ノ瀧』は空海様が最初に修行なさった所なんですよ。若い空海様は道なき道を歩んで此処まで修行にやって来ました。奥の院の背後に断崖絶壁の厳山が見えるでしょう。そこは修行するための行場です。空海様もその業場に登って修行しました。ほら見て下さい。御大師様が座って修行しているかのような人形の岩があるでしょう」
「そうなんですね。お教え下さいましてありがとうございます。ゆっくりとお参りさせて頂きます」
業場の厳山の頂上には弘法大師様が座禅をしながら修行しているような岩が見えた。
克己はやはり空海様に導かれて小豆島に来たように感じた。

克己は境内をゆっくりと散策した。遥か彼方に見える秋の蒼天の下で輝いている瀬戸内海と島々が本当に美しい。
本堂の前の階段を上って、両手を合わせて頭を垂れて本堂にお参りした。
そこには袈裟衣を羽織ったお坊様がいらっしゃった。箒を持って境内を掃き清めていたのは御住職様だったのだ。
「お兄さん、ようこそお参りして下さいました。ピンク色のユニフォームと白衣がお似合いですね」と、改めて優しく微笑んで下さった。

克己は少し迷ったけど、こう言った。
「御住職様、このピンク色の阪神タイガースのユニフォームは娘の形見なんです。10年前にお腹の中の孫と一緒に亡くなりました。娘と孫への巡礼にと思って阪神タイガースのユニフォームを着て来ました。霊場総本院の女性のアドバイスで『瀧湖寺』様で白衣を買わせて頂きました。奥の院『笠ヶ瀧』にお参りして住職様ともお話しさせて頂きました」
「そうだったんですか。ピンク色のユニフォームを着ている意味が解りました。きっと娘さんもお孫さんも喜んでいますよ」
「御住職様、私は2年半前に肺癌の摘出手術をしました。手術後で検査したらステージ1でした。しかし死ぬなんてことは全く考えもしませんでした。いつものように生活していました。3ヵ月前に背骨と肋骨に癌が転移しているのが解りました。流石にショックでした。しかし逆に死ぬ前に娘と孫と一緒に憧れの小豆島山岳霊場をお参りしたくなったんです。癌が背骨に転移していなかったら、まだ岡山でのんびりしていたことでしょう」
克己は心の奥底を吐露した。
御住職様は一瞬言葉を失った。
「それは素晴らしい巡礼の旅ですね。娘さんと、お孫さんと、貴方のお名前を教えて下さい。心を込めて読経させて頂きます」
「娘は愛と言います。孫は礼音と言います。音楽が大好きだった娘がお腹の中の赤ちゃんの名前を考えていました。男だったら『れおん』。女だったら『かのん』と名付けたいと娘のスマフォに書いていたんです。『音』は決めていたようです。私が『礼』を選びました。今思うと『巡礼』の礼でした」
御住職様は優しく穏やかに朗々と読経して下さった。
礼音、愛、克己の名前がはっきりと聴こえた。
何とありがたい読経だろうか。克己の目頭は熱くなって、一筋の涙が流れ落ちた。
「克己さん、左にある洞窟を潜って下さい。きっと穏やかな気持ちになることでしょう。洞窟を潜った先に奥の院があります。その上には切り立った巌山の『行場』があります。是非とも行場を登ってみて下さい。絶対に無理はしなくて良いですから、出来る所まで登って見て下さい。エンジェルロードと瀬戸内海と四国の景色が更に美しく感じますよ」
「御住職様、ありがとうございます。是非ともチャレンジしてみます」
「克己さん、克己さんの巡礼は御大師様、克己さん、愛さん、礼音くんとの『同行四人』なんですよ。素敵な巡礼を楽しんで下さいね」
「ありがとうございます。洞窟の中と奥の院と『行場』にて改めて自分自身を見詰めてみます」
克己は御住職様にお礼を述べて狭い洞窟を潜って行った。
薄暗い洞窟に入るとそこには「龍水」が湧き出していた。

克己は「龍水」の小さな御堂に掌を合わせて深く頭を垂れた。「龍水」を口に含んで洞窟に座って静かに眼を閉じた。
「ああ、この洞窟も『胎内窟』なのだ。空海様も小豆島を訪れてこの『胎内窟』で修行して『悟り』を開いたんだろう。
御母様のお腹の中で聴いた優しくて逞しい鼓動を感じたに違いない」と克己は静かに思った。
克己は讃岐にお祀りされている『善通寺』を思い浮かべた。
「空海様は、善通寺で産まれて四国の山野を彷徨して、小豆島のこの洞窟でも修行していたんだ。京都と四国を往復する際に、一体どれくらい小豆島で修業なさったのだろいか」と克己は眼を閉じて静かに考えた。
想いは室戸岬の近くにお祀りされている『空海洞窟』へと飛翔した。
嘗て家族で四国をドライブした時に、幼い娘二人と一緒に恐る怖る洞窟に入ったことを思い出した。
振り向いたら洞窟の向こうは空と海だけだった。克己の心にも太平洋の空と海が飛び込んで来たように感じたものだ。
幼い二人の娘は「あっ、蟹さんがいる」と大はしゃぎしていた。あれから約30年を経ていた。
亡くなった娘・愛の幼い頃の無邪気な表情を思い出した。

洞窟を抜けると、眼前に奥の院が見えた。
エンジェルロードから眺めた奥の院はあんなに小さく見えたのに堂々と屹立している。その背後には山塊の「行場」が聳え立っている。
「よし、あの『行場』の頂上に登ろう」と克己の心は高鳴った。
奥の院から眺めた瀬戸内海の景色は本当に美しい。
エンジェルロードから先には数個の島々が連なっている。その先には四国の景色も見える。
克己は黙って静かに断崖絶壁の行場へと向かった。
業場の頂には若き空海様が座禅している姿の岩がはっきりと見えた。

酒井愛。
藤原克己の長女。
1984年8月8日産まれ。
2012年12月20日死去。享年28歳。
お腹の中には息子・礼音が宿っていた。
死因は深部静脈血栓症による心肺停止状態から死亡。いわゆる「エコノミークラス症候群」。
