悪魔の証明は、議論が存在/不存在の二択にまで痩せ細った証なのではないか
悪魔の証明は、議論が存在/不存在の二択にまで痩せ細った証なのではないか
「悪魔が存在しないことを証明してみろ」
いわゆる「悪魔の証明」は、ときどき議論の切り札のように使われる。
相手が「存在しないこと」を証明できなければ、
「ほら、否定できないだろう」
と言えるからだ。
しかし、ここで一度、別の方向から考えてみたい。
なぜ、その議論は最後に「存在しないことを証明しろ」という形になったのだろうか。
悪魔の証明が出てきた時、何が起きているのか
私の考えでは、悪魔の証明が持ち出された時点で、
対象を特定する条件や、存在を支持する肯定的な証拠など、「存在するか、存在しないか」以外の要素が、すでにかなり削り取られている。
最初には、もっと多くの情報があったはずである。
「悪魔とはこういう存在だ」
「こういう特徴がある」
「こういう現象を起こす」
「こういう場所に現れる」
「これが証拠である」
しかし、それらを一つずつ検証していく。
すると、
その特徴は確認できない。
その現象との関係も証明できない。
その証拠も確証にならない。
その情報も検証に耐えない。
そうして、議論を支えていた情報が一つずつ削られていく。
最後に残るのは「存在するか、存在しないか」
そして情報が削られていった最後、
議論には、
存在する。
存在しない。
という二択だけが残る。
しかし、「存在する」ことを示す根拠は十分に残っていない。
そこで初めて、
「では、存在しないことを証明してみろ」
という問いが登場する。
つまり、
悪魔の証明を持ち出した時点で、他に証明できる要素がほとんど残っていない。
対象を同定する条件も、
存在を示す肯定的な証拠も、
検証可能な特徴も、
ほとんど失われている。
だから最後には、
「存在しないことを証明できるか?」
という問いしか残らなくなる。
更地に残った一本の骨
この状態を、私はこうイメージする。
最初には様々な情報があった。
しかし検証されるたびに、それらが剥ぎ取られていく。
そして最後には、更地だけが残る。
そこに、
一本の骨が落ちている。
骨があること自体は確認できる。
しかし、それが何の骨なのかは分からない。
そこで誰かが言う。
「この骨が悪魔の骨ではないと証明してみろ!」
確かに、
「悪魔の骨ではない」
ことを完全に証明するのは難しいかもしれない。
しかし、ここで本当に問うべきなのは、
「なぜ、この骨を悪魔の骨と呼べるのか?」
ということではないだろうか。
「何かがある」と「それが悪魔である」は違う
骨が存在する。
これは一つの情報である。
しかし、
何かが存在する
ことと、
それが悪魔である
ことの間には、大きな隔たりがある。
そこには、
対象を悪魔と同定するための条件
が必要になる。
ところが、その条件がすでに検証によって失われている。
それなのに、
「悪魔ではないと証明できないだろう」
と言って、
「だから悪魔だ」
へ進むことはできない。
否定できないことは、肯定されたことではない。
悪魔の証明は、証明責任を逆転させる
「悪魔がいる」と主張するなら、本来は、
「なぜ、いると言えるのか」
を示す必要がある。
しかし、存在を示す根拠が失われていく。
最後に、
「いないことを証明してみろ」
となる。
ここで起きているのは、
証明責任の移動
である。
本来、
「いる」と言った側
が負っていた証明責任を、
「いない」と言った側
へ移そうとしている。
しかも、
「存在しないことの完全証明」は、対象によっては非常に困難である。
つまり、
自分が果たせなかった証明を、相手が構造的に果たしにくい証明へと置き換えている。
「判定不能」という状態がある
ここで、
「悪魔はいる」
「悪魔はいない」
の二択だけにする必要はない。
第三の状態がある。
現在の情報では判定できない。
これは、
「悪魔はいない」
という意味ではない。
もちろん、
「悪魔がいる」
という意味でもない。
ただ、
現在の情報では、そう判断するための根拠が足りない。
という状態である。
そして重要なのは、
判定不能は、両方の主張が五分五分になったという意味ではない。
存在を主張していた側には、存在を支持する根拠を示す必要があった。
その根拠が十分に示されなかったなら、
存在主張側:証明責任、未達成。
という状態が記録される。
悪魔の証明は「勝利条件」ではない
ここで、悪魔の証明の見方を変えることができる。
悪魔の証明は、
相手を論破するための切り札
ではない。
むしろ、
議論が「存在/不存在」という二択にまで痩せ細ったことを示す標識
なのではないか。
存在を支持する証拠。
対象を特定する条件。
検証可能な特徴。
それらが失われ、
最後に、
「存在しないことを証明してみろ」
だけが残る。
その時、見るべきなのは、
「相手は不存在を証明できるか?」
だけではない。
むしろ、
「なぜ、議論にはもう、それしか残っていないのか?」
である。
骨が残ったなら、骨を調べればいい
更地に骨が残っている。
ならば、
「悪魔の骨ではないこと」を証明する必要はない。
まず、
「これは何の骨なのか?」
を調べればいい。
骨の形を調べる。
由来を調べる。
年代を調べる。
新しい証拠を探す。
新しい情報が得られれば、現在は判定できないものも、将来は判定できるかもしれない。
だから、
「判定不能」は永久的な結論ではない。
それは、
新しい検証可能な情報が得られるまでの一時停止
である。
悪魔の証明は、議論が空洞化した先に残る骨である
悪魔の証明とは、
「存在しないことを証明できないから、自分の主張が勝った」
ということではない。
むしろ、
存在を支持する情報が削られ、対象を同定する条件も失われ、最後に「存在するか、存在しないか」という二択だけが残った状態
なのではないか。
そして、その二択の中で、
「存在しないことを証明してみろ」
という問いが発生する。
だから私は、悪魔の証明をこう考える。
悪魔の証明が出てきたとき、議論にはもう「存在/不存在」しか残っていない。
そして、その状態になったなら、
「なぜ、それ以外の情報が失われたのか?」
を見直すべきである。
悪魔の証明は、議論に勝つための証明ではない。
議論の中身が削られ、存在/不存在の二択にまで痩せ細り、これ以上まともに判定できなくなったことを示す停止標識なのかもしれない。
更地に残った一本の骨を指して、
「悪魔の骨ではないと証明してみろ」
と言う前に、
まず問い直したい。
【補足】
両手に隠されたボール
悪魔の証明には、もう一つ奇妙な構造があるように思う。
例えば、誰かが両手を握って差し出し、こう言う。
「どっちの手にボールが入っている?」
この問いを受けた側は、無意識に「どちらかの手にはボールが入っている」という前提に参加してしまう。
しかし、本来確認すべきことはそこではない。
そもそも、本当にボールは存在するのか。
本当にどちらかの手に入っているのか。
その確認は、両手を開けば済む。
ところが、相手は手を開かない。
そしてこちらが、
「どちらにも入っていないのでは?」
と言うと、
「では、どちらにも入っていないことを証明してください」
と言ってくる。
ここには、最初から一つの構造が織り込まれている。
検証可能な情報を提示しないまま、存在を前提とした問いを出し、その前提を否定する側にだけ証明を要求する構造だ。
つまり、悪魔の証明とは単純に「存在しないことを証明するのが難しい」という話だけではない。
場合によっては、証明不能になりやすい構造そのものが最初から作られている。
だからこそ、本当に見るべきなのは、
「存在するのか、存在しないのか」
という二択だけではない。
その二択は、誰が作ったのか。
どんな情報が最初に提示され、何が検証可能なのか。
そして、誰が検証の鍵を握っているのか。
まずは、その構造を見る必要がある。
【補足2】 悪魔の証明を持ち出す側は、まずプレゼンターである
もう一つ、悪魔の証明について考えてみる。
例えば、誰かが観客の前に立って、
「悪魔は存在する」
と主張したとする。
この時、その人はまずプレゼンターである。
本来なら、
悪魔とは何なのか。
なぜ存在すると考えるのか。
どのような証拠があるのか。
何が観測されたのか。
まず、自分の主張を説明する必要がある。
ところが、十分な説明をしないまま観客に向かって、
「では、あなたは悪魔が存在しないと証明できますか?」
と問う。
ここに私は違和感を感じる。
もちろん、観客に質問すること自体は自由だ。
しかし、観客が完全な不存在証明をできなかったとしても、それによってプレゼンターの主張が証明されたことにはならない。
そもそも、主張を持ち出した側は、まずプレゼンターとして自分の説明をする必要がある。
観客に問う前に、自分でプレゼンをする必要がある。
「存在しないことを証明できますか?」
という質問は、自分の主張を説明する代わりにはならない。
悪魔の証明が議論を奇妙な形にしてしまうことがあるのは、この役割が逆転するからなのかもしれない。
本来説明する側が、いつの間にか質問する側に回り、
説明を求められるはずだった側が、逆に完全な証明を要求される。
だから悪魔の証明を持ち出された時は、一度考えてみてもいい。
「私は今、相手のプレゼンを聞いているのか。
それとも、相手が本来するはずだったプレゼンを、私にやらせようとしているのか」
と。
