「哲学」は、役に立つのか
朝のコーヒーをいれながら、こんな声が聞こえてくることがあります。
「哲学」なんて、なんの役に立つのか。
もっともな問いです。
正直に言えば、哲学ではパンは焼けません。
明日の家賃も払えません。
雨漏りも直りません。
役に立つ、を「すぐお金や暮らしに変わる」という意味に取るなら、哲学はかなり分が悪い。
まずは、その負けをきちんと認めるところから始めたいと思います。
ところが、です。
古代の哲学者たちを眺めていると、意外なことに気づきます。
この人たち、思いのほか「実際的」でした。
雲の上で難しいことをつぶやいていた、というイメージがありますが、実際は違ったようです。
彼らが目に見えないものを一生けんめい調べたのは、目の前の暮らしを、もっとうまく説明したかったからでした。
なぜ季節はめぐるのか。
なぜ人は病むのか。
なぜ自分は、こんなにも思い通りにならないのか。
天のことを考えたのも、もとをたどれば、足元の毎日のためだったわけです。
ここで、少し意地悪な話をします。
どれだけ立派な考えを知っていても、それだけでは何も起きません。
「怒らないほうがいい」と百回読んでも、腹は立ちます。
「感謝が大切だ」と暗記しても、心は動きません。
知っていることと、できることは、別ものなのです。
考えを知っているだけの状態を、古代の人は、宙に浮いた飾りのようなものだと見ていました。
きれいだけれど、手が届かない。
哲学が本当に働きはじめるのは、それを暮らしの中で使ってみたときからだ、と。
つまり、こういうことのようです。
哲学が役に立たないのではありません。
役立て方を、まだ試していないだけ。
知恵は、本棚に置いてあるうちは、ただの重さです。
取り出して、今日の自分に当ててみて、はじめて道具になります。
うまくいかない日もあるでしょう。
でも、その失敗もまた材料になる。
自分という実験室には、休みがありません。
もともと「哲学」という言葉は「知恵を愛すること」という意味でした。
「愛する」です。
手に入れて使いこなす、ではなく、
なかなか手が届かないから、なんとか近づきたくて通い続ける。
片思いに似ています。
そして片思いというのは、相手を遠くから眺めているだけでは、何も動きません。
一歩を踏み出して、はじめて始まります。
哲学が働くのも、たぶん同じことなのだと思います。
最後に、ひとつ白状します。
「哲学は役に立つのか」
この問いを立てた時点で、実はもう哲学が始まっています。
役に立つかどうかと、立ち止まって値踏みしている。
その値踏みこそが、考えるという行為そのものだからです。
役に立つかと問うた人は、もう半分、片足を踏み入れています。
だから、答えはたぶんこうです。
役に立つかどうかは、あなたがそれを使うかどうかで決まります。
使えば道具、置いておけば重し。
さて、明日はどちらにしましょう。
わたしはとりあえず、冷めかけたコーヒーを、あたため直すところからです。
ところで、この片思いに人生を使ってしまった人が、歴史には次々と出てきます。
タレス、ソロン、ピュタゴラス、ヘラクレイトス、デモクリトス、エンペドクレス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス。
一部熱烈なファンはいますが、あくまで一部です。
通常名前だけ見ると、試験に出そうで気が重くなる方々だと思います。
この方々の教えを誰が見てくれるのか、そもそも投稿記事になるのか不安ですが一人ずつ紹介していきます。
途中でやめるかもしれません。
でも一人ずつ近づいてみると、けっこうな変わり者ぞろいで個人的には面白いとおもうのですが。
閲覧者激減は必須ですが、そういうことでもないので、次回から少しずつやっていきます。
富士山麓からあなたへ。
ボンちゃん。
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